「心良く──心無く」
夜も静まり、空を見上げるとお月様とお星様がせつなを見下ろしていました。見下していました。
周りには人の影はなく、せつな以外誰も、外を歩いていません。
時計の針がてっぺんを過ぎた時間帯。
維月と添い寝していた布団からこっそりと抜け出したせつなは、靴も履かずにぺたぺたとアスファルトの地面を踏みしめていました。
維月は負荷の関係上、寝るときはまるで死んでいるかのように無防備になるので、抜け出すのは簡単なことでした。
電灯と月光、人工の光と天然の光がせつなの進む道を照らしているため、足元はよく見えます。足の裏を傷つけることはなさそうです。
そんな道を歩きながらせつなはある所を目指していました。
目の前に聳え立つ、マンションがそうです。
ここはせつなたちが通ってる高校の女子寮で、向かい側には男子寮があります。
三階建ての平凡なマンションで、そのうち一階部分は、半地下になっています。
せつなは扉の前に立ち、ポケットから生徒手帳を取り出しました。そしてそれを扉の横のパネルに近づけると、パネルの画面に鍵が表示されました。数秒の後、表示された鍵が開き、『シオザキミサキ
イチネン』の文字が表示されます。
ピッという電子音。それとともに扉の鍵が開き、扉を開けると、ちょっと広めな玄関がせつなを迎えてくれました。
後ろ手にドアを閉めると、ドアが自動でロックされました。流石は女子寮、セキュリティーは万全です。
まあ、鍵があれば簡単に入れるんですけどね。
階段を上がり、二階の二一三号室、元せつなの部屋の前で止まります。
転校生も新入生もいない今、この部屋は空き部屋のままでした。
部屋の鍵をあけて中に入ります。掃除してないせいか、少し埃っぽいです。
部屋には、丸テーブルとその上に置いてる維月の写真、等身大維月のぬいぐるみ。それと磔にされてる汐崎さんだけがあります。
汐崎さんはまるでみせつけにされているように、磔にされてます。
両手を頭より少し高めに伸ばされ、掌に包丁が深々と刺さっていて、壁まで貫通されることで壁に磔ています。
穴からはゆっくりじっくりと、しかし確実に血が滴り落ちていた。足下には薄い血だまりが出来ていました。掃除が大変そうです。
体からは力という力が抜けていて、傷がある頭を垂らしていて、いつか自分の比重で手を切り裂かないかヒヤヒヤします。逃げられたら困りますし。
維月人形を抱えてギュッと抱きしめて満足したところでせつなは汐崎さんの前に立ちました。
「起きてる、でしょ……?」
「あれ、バレてた?」
汐崎さんはそう軽く言いながら垂らしていた頭を持ち上げて、せつなの顔を見ました。
暴行を受けて、監禁されているというのに、全く怖がってなく、いつも通り、強いて言うなら、少し血色が悪いぐらいでしょうか。
とにかくいつも通り、汐崎さんはせつなを見ています──いえ、せつなが持ってるぬいぐるみを見ています。
「ねえ、それってもしかして雨夜?」
「……そう」
「へえ、カワイい。小坂井さんってけっこう器用なんだね」
等身大維月人形をせつなはギューッと抱きしめて見せました。自慢したかっただけです。
「小坂井さんがいるってことはここは君の部屋なのかな?」
「元……今は空き部屋」
「そうなんだ……」
汐崎さんは一通り部屋を見回した後。
「ねえ、絶対に逃げないから拘束外してくれないかな。腕が痛くて仕方ないんだ」
と、縋るような笑みで言いました。
「ヤダ、どうせ逃げる」
「逃げないよ。私は嘘をつかない主義だから」
「信じない」
「うーん。完全否定かぁ。信用されてないなあ」
「……なに?」
「いやちょっとショックだったんだよ。私てっきり、君と友達なのかと思ってたから」
まるで可哀想な子を見るような目で彼女はせつなを見て。
「分かった。このままで良いよ」
と言います。
「その代わり、なんで私が捕まっているのかぐらい、教えてよ」
真剣な表情の汐崎さんを前に、せつなはぬいぐるみを抱きしめたまま、答えます、
「ズルいから」
「ズル……え?」
「大事にされてて……ズルい」
「そんなことは……ないと、思うよ?」
と、委員長さんはなんとも煮え切らない返しをしてきました。自覚はあるようですね。
「嘘」
せつなはそう言って。
「だって、同じ部屋にいても、鼻先が触れるまで近くによっても、あなたと楽しく話している合間はせつなに反応しなかった」
除外していた。疎外していた。無視していた。排他していた。
せつなは、あなたに負けていた。
彼の中ではせつなは、あなた以下なんだ。
「……だから、ズルい」
「なんだ、やっぱり寂しいだけなんじゃないか」
あっけらかんと、隠す気もなく彼女はそう言いました。
「ほらね、やっぱりそうなんだ。だから私は忠告したっていうのに、全く理解してなかったな」
「なんのこと……?」
「いや、前ね。きみのことで雨夜に相談を受けたとき、少し忠告しておいたんだ。彼女の隣にいていげなさいって」
なのに雨夜、すっかり忘れてるみたいだね。と、汐崎さんは笑いました。
でも、その隣をせつなからいつも奪っていたのは、あなたですよね?
汐崎さんはせつなを見据えました。なにもかも分かってると言いたげな顔で、可哀想な子を見るような目で。せつなを見据えます。
「人が恐いんだよね」
「…………」
「虐められて、虐げられて、蔑まれて、きみはちょっとした人間不信になってしまった」
「…………」
「人と関わるのが恐くなってしまった。だから反抗することをやめて縮こまっていたら、雨夜が現れた」
「…………」
「嬉しかったんでしょ。始めて恐くない相手に出会えて」
……ぃ。う……。
「寂しかったんだよね。人が恐いけど、人肌が恋しかったんだよね。だから恐くなかった雨夜に恋した」
……う……さぃ。
「けど、まだ恐い。雨夜以外が恐い。雨夜は自分を世界という雨から守ってくれる傘だ。それが奪われそうで、きみは今怯えている」
……れ。だ……れ。……るさ……ぃ。
「でも大丈夫だよ。世界は君が思っているほど狂ってなんかない、みんながみんな、君のことをイジメたりしない」
黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
「だからそんなに怯えないで。恐がらないで。哀しまないで」
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
「そうだ、まずは私と友達になろう。それからゆっくりといろんな人と会ってなれて──」
「うるっっっさいっ!!!」
せつなは、思いっきり叫んでしまいました。ええ、分かってますよ。キャラじゃないことは重々承知の上です。
しかし、せつなの口は止まることを知らず、むしろ肺の中の空気を全て押し出す勢いで叫びます。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!
誰もあんたに悲しんで欲しいなんて懇願してない、哀しんでくれって縋ってない、哀れんでほしいって頼み込んでない!!
まるで理解してますみたいに言ってんじゃねえよムカつくんだよ!!」
「……え?」
せつなの猛追に、汐崎さんは呆気にとられたのか、ペラペラ喋る口を止めました。
「憐れむな哀れむな哀しむな悲しむな! 身勝手に好き勝手に自分勝手にせつなを想像するな。せつなを思うな。理解したフリすんじゃねえよ!!
他人の心を他人が分かってたまるか!!」
けれど、維月はそんな事無かった。
憐れんでくれなかった。
悲しんでくれなかった。
哀れんでくれなかった。
哀しんでくれなかった。
理解しようとしなかった。
維月自身、心がないから余計な詮索もしてくれなかったから、隣は居心地が良かった。居ないようなものだから、過ごしやすかった。
過ごしやすくて、気持ちの良い、最高の居場所だった。
そんな所に維月は、せつなを心良く──心無く受け入れてくれた。
だからせつなは──維月のことが好きになったんだ。
せつなをせつなのまま受け入れてくれたから、矯正や改心もなく、そのままありのままのせつなを、受け入れてくれたから、せつなは維月のことが好きなんだ。
その居場所が、好きな人が、こいつに、奪われそうになっている。
いえ、こいつの方が先に居たのだから、取り返されそうになっている。が、正解ですか。
「……だからせつな決めたんだ」
せつなは雨夜人形の背中についているファスナーを開きます。
「維月に近寄るものぜーんぶ。消しちゃおうって」
背中に手を突っ込みました。ズルリ、と中から鮪包丁が姿をのぞかせます。
通常、二人で使う物らしいのですが、振り下ろすだけならせつなにも出来ます。
「そうすれば、維月はずっと、せつなのもの。せつなはずっと、維月の一番」
無造作に鮪包丁を握ったせつなは、そのまま振り上げ──おっと、その前に聞いておきたいことがありました。
維月に聞いたら、知るか。と冷たく返された質問です。
「……質問いい?」
「え、あ……うん。いいよ、どーんとぶつかっておいで。私は、絶対に逃げないから。分からないからって、放棄したりなんか、しない」
少し固まっていた汐崎さんでしたが、すぐに調子を取り戻しました。
こんな所が、嫌いなのです。
この気持ちはこの気持ちにしか分からないというのに。
「雨夜のこと、好き?」
「嫌いだね。面白いとは思うけど」
あっそ。
せつなは鮪包丁を振り上げました。それを支えるなんてバカなことは考えず、重力に力を貸してもらうように思いきり落としました。たかがインドアな女子高生の腕力でも少しは足しになるようで、鮪包丁の落ちるほんの少しだけ速度が増しました。
ざくり。
今まで肉はまな板の上で沢山切ってきましたが、こんな気持ちのいい音を聞いたのは初めてでした。
唇を噛んで、悲鳴を抑えた委員長さんの体は傾き、切り離された右腕は、磔にされたまま、ダラリと垂れました。
悲鳴をあげなかった理由はなんだったんだろう。屈しないぞ、という意思表示? まあ、どうでもいいですけど。
あれ、今動いたような。気のせいかな?
一応もう一度切っておきましょう。ざくり。うん、もう動きませんね。
「──アハ」
そしてせつなは。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
自分でも引いちゃうぐらい狂ったように、どこから出てきているのか分からない笑い声を──
「お前、なにやってんだ?」
──止まった。
後ろから声がしました。
振り向かなくとも、誰なのかはすぐに分かります。
その声は、この世で一番大好きな声で。今一番聞きたくない声なのですから。
ぎこちなく、油の切れたロボットのように、ゆっくりと振り向きます。
ドアが開いていました。きちんと鍵は閉めていたんですが、ドアノブが握りつぶされて適当に投げ捨てられているのをみる限り、壊して侵入したようです。
玄関に一人の男子が立っています。
色素の抜けた薄い黒髪の死人のような、生気のぬけた青白い肌。正気のぬけた目をしたほっそりとした矮躯で、手足が不自然に長い男子です。
その顔は、信じれないものを見てる──わけではなく、ああやっぱりと呆れている──わけでもなく。特に変化がない、いつも通りの顔で、せつなの後ろで事切れている委員長さんを見ています。
彼──雨夜維月は、せつなが恋する相手は、立ち尽くしたまま、もう一度、さっき言ったことを、叛服しました。
「お前、なにやってんだ?」
***
さて、参考までに今の状況を説明しましょう。
今の状況が、どれほど過酷で、深刻なのかを。言葉にして伝わるのかは分かりませんけど、しかし、努力はしてみます。
まず現在、せつなは女子寮の元せつなの部屋にいます。ちなみにこれは不法侵入ではありません。ちゃんと玄関から堂々と這入りました。
キー解除に使ったのが、汐崎さんの生徒証明書だということを除けば、これは犯罪ではないはずです。
そして、それだけならまだしも──という言葉を今使うべきではないと思いますが、今せつなは包丁を持っています。
血濡れた、大きな鮪を解体するための包丁を持ってます。
それでなにを切ったのでしょう?
委員長こと、汐崎さんです。今目の前で、ぐったりとしていますね。
それを見ながらせつなは、高笑いしていました。
その瞬間を、どこから見ていたのか分かりませんが、維月に見られてしまったのです。
(バレたっ……!?)
維月にバレた瞬間、せつなの動きは迅速でした。脳からの信号が届くよりも、脊髄を使ってのショーットカットをするよりも速く、せつなの手は動いていました。
まず拘束に使っていた包丁と鮪包丁に能力を使って、原材料の鉄と木材まで戻します。
途端に血があふれ出す手のひらをの傷を戻し、右腕と肩をくっつけてから傷を戻して、最後。頭を両手で掴んで記憶を戻して、さっきまでの、せつなの部屋で起きた全ての出来事をなかったことにしました。
この間一秒未満。後ろに維月がいるという危機的状況でなければ諸手をあげて大喜びしたいタイムでしたが、そんなことはせずに負荷で途切れかけた意識を取り戻しながら振り向きました。
せつなは満面の笑みを。
維月は笑いませんでした。
目からは感情の変化が読み取れませんでした。
いえ、そもそも感情がない彼から感情を汲み取ろうとした事自体、大間違いなのですが。
とにかく彼は笑いませんでした。笑わず、顔をしかめてせつなを見下ろしていました。見下していました。
まるで空に浮かぶお月様のように。
「……夜遅くに外に出たからどうしたのかと思ったら」
維月が口を開きます。
「てっきり夜遊びでも覚えたのかと不安になったんだぞ」
過保護なお母さんですか。あ、維月は男性なのでここは、お父さんですか。
「しかしこれなら夜遊びの方がよっぽどマシだったな」
頬を一発叩けば終わりだったんだし。と維月は後ろにいる委員長さんを見ながら言いました。
さあっと、血の気が引くのが自分でも分かりました。バレてる。どこから見ていたのかは分かりませんが、確実に、維月に嫌われる部分を見られてしまったのは確かです。
「……ホント、夜遊びだったら良かった」
維月はゆっくりと玄関からせつなの部屋に這入ってきました。
「ちがっ! あのそのえっと──」
なにが違うの?
身勝手にも嫉妬に狂って、大好きな人の大切な人を傷つけて、それで怒られて、なにが違うというの?
分かりません。分かりません。分かりません。分かりません。分かりません。
「……おい」
少し口が止まって、しどろもどろしているタイミングに合わせるように、維月はせつなの前に立ちました。
せつなの目を、目の奥を見据えるような目で、せつなを睨みます。
「お前、僕の事大好きって言ってくれたよな?」
ぶんぶん! と首が引きちぎれるんじゃないかと不安になるぐらい強く、沢山頷きました。
せつなを呼ぶ呼称が『小坂井』から『お前』に代わっている事に気づきましたから、そりゃもう必死です。
「……だよな」
? どうして今、少し残念そうな声をだしたのでしょう?
まるで、好きという感情を理解しているかのような反応です。
「……じゃあ、僕の言う事、なんでも聞けるよな?」
せつなは、頷きます。
それで維月の機嫌が治るのなら、なんだってやります。
嘘です。さすがに死ぬことはできません。
維月は、にこりと笑いました。
それは手向けのような、最後ぐらい、綺麗に終わらせてやろうと言いたげな笑みでした。
「そっか。じゃあ二度と僕と委員長の前に姿を現すな」
「…………」
「分かったか?」
せつなは、ゆっくりと頷きました。
こうして。
維月とせつなの同居生活は終わりを告げました。
維月とせつなのラブコメのようなお話は終わってしまいました。
楽しかったですか? それはなにより。
いやはや、本当。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう──どうして?
それはもちろん。
せつなのせいに決まってるでしょ?
歪んだラブコメ編終了。次回、元親友と再会編スタート!