〈ユメナ〉という存在
〈ユメナ〉という存在、
蜜江田 初郎
私はついびっくりした。目の前に信じられないくらいきれいな女の子が現れたからである。何だろう、フランス人形とでも言えばいいのだろうか。そんな気がする。たとえば、外国の子供たちがよく使って遊んでいるような、でも目はもっとくりっとしている、人形がより人間のかたちに近づいたような感じ。とにかく僕はたじろいでしまった。こんな娘、現実に存在するのだろうか、と。
私はある街の地下の、インフォメーションセンターの近くにつっ立っていた。大学での活動が終わって、ふらりと本屋にでも行こうかなと思ったのである。しかし困ったことに、僕のちっぽけな心を非常に悩ませるメールが届いた。同級生の女の子からの、よくあるとても曖昧でお茶をにごすかのような、そんな表現……。その予定は僕にとっては非常に大事なものだったので、Aちゃん、そのノリで返されては本当に困るよ、と思った。心が疲れていたせいだろうか、そのメールを読んだ時から頭がうまく働かなくなり、そうしてこうやって目的地であったはずの本屋までたどりつくこともなく、わけのわからない場所に立っているわけである。
そんな時に、目前にきれいな女の子が現れた。その子は僕の隣に何気なく立って、携帯をチェックしはじめた。まぁ、人を待つような場所ではあるから、全然あってもおかしくはない状況だし、たぶん誰かと待ち合わせでもしているのだろう。それでも僕の心は変に動揺してしまっていた。これ、どうすればいいんだろう……。この娘、あまりに僕と距離が近すぎやしないか?
私は横にある、地下街にずらりとひしめく小店たちのひとつ、とても良い雰囲気の喫茶店を眺めた。赤色の全体的な塗装に、グリーンの数々の小さな点がまばらに配置されたそれの外観。この街って、つくづく何もかもが素敵だ。何でおしゃれなものしかここには集まらないんだろう、少しくらい汚いものがあってもよさそうなものなのに?
僕は透けて見えるその喫茶店の中に座っている人々のことを、ぼんやりと見た。そこではとても優雅な空気が流れていた、とてもうらやましいと思った。対面に座って楽しそうにおしゃべりをする人、あるいは真剣そうな目つきの人、寝ている人、パソコンをかたかたやっている人。でもその人たちの中心には、必ず一つや二つの飲み物が置かれていた。飲み物が中心にあって、それで人々はおしゃれな心の交流をする。そこに嘘や灰色の匂いは一切感じられなかった。
……。この娘、まだ隣にいるのか、とても可愛らしいコートを羽織っていた。白色の素材がふわふわとしているそれ。背がけっこう低いな。何歳なんだろう。まぁで高校生だろう。
と、私がその時ばかりついその女の子のことを見てしまっていると、急に目が合ってしまった。まんまるい瞳だった、きらりと輝いて。
「あ、あの、誰かと待ち合わせですか?」僕の口から勝手にことばが出てきた。ばかやろう。ナンパなんてする性格ではとてもないのに。
「は、はい、そんな感じです。」その娘は優しく笑みを浮かべた、なんだろう天使のようなそれ。
はぁ、しゃべりかけてしまったよ、でもそれは君があまりに近すぎる所に不用意に立っているせいでもあるんだよ、と私はわけのわからない整理をした。もう一言くらいつけたさねば。
「なかなか、来ないみたいですね。」
「はい、んー、というか、」
参ったな、この娘動揺しているな。あーあ。
するとその女の子はわりとすぐ口を開いた。
「今日バンドを見に行くんですけど、時間が余っちゃって、なんか暇のつぶしかた全然思いつかないんです。」
天使のようなその女の子は、困ったような笑みを浮かべてみせた。何て面白い言い方なんだろう、暇のつぶし方を思いつかないからって何もこんな所につっ立っていなくても。
「へぇ、バンドですか。ちなみに、何ていうバンド?」
「えっと、知ってらっしゃるかどうかは分からないけど、○○○っていうマイナーバンドです。」
「えぇ、○○○!? マジで?」僕はその時つい大きすぎる声を上げてしまった、なぜなら彼女が挙げたそのバンドは僕が大好きなバンドであったからだ。
「え、今日だっけ、ライブあるの?」
「え、もしかして知ってるんですか?」
「うん、ていうか僕○○○の大ファン。はは。僕は、一応大学で軽音部サークルに入ってます。」
「すごーい。楽器は何されてるんですか?」
「ん、一応ギター。歌は歌わないけどね。」
「ギターの××さん、とてもカッコいいですよね、私大好きなんです!」
「そっかー、じゃあ、けっこうバンドとか好きなの?」
「んーというより、○○○が好き、て感じですかね。」Youtubeでたまたま流している動画見つけて、それでハマっちゃって。」
「そっかー。ふーん……。」
僕は偶然の産物とでも言うべきこの事柄を、口の中で頭の中でコロコロ転がしていた。そうか、でも今日なのか。
「会場はあそこ? △△?」
「そうです! はい。」
女の子は優しく受け答える。
「対バンとかは?」「対バンっていうのは……?」「あぁ、つまり、他にも一緒に出演するアーティストさん、てこと。」
「あ、ごめんなさい、私バンドとかの歌を聴きはじめたばかりで、大して調べてなくて……。」
「そっかそっか。うん。でも、○○○は確実に出るんだ?」「そうです。それは間違いないです。」
そこまで話すと、僕は考えをめぐらした。偶然にもこれからの時間はフリーだし、3000円くらいの使えるお金は十分にあった。
「んー……。」僕は、ひとりごとを呟いた。
すると女の子は不思議そうな顔ですぐに尋ねてきた。
「どうしたんですか?」
「んー、いや、お金に余裕があったら僕も行こうかなぁー。」
「え、本当ですか、行きましょうよ!」
「マジで?」
当たり前だが、その時私は嬉しくてしょうがなかった。決して舞い上がっていたわけではない、ましてこれはデートなのだと勘違いをしたわけではない。
「はい。一人で行くのもやっぱり随分迷ったから。」
「分かった。ちょっと待ってね。」
僕はそう言って、ズボンのポケットの中から財布を取り出した。ちょうど3000円とちょっとか。ふーん、何かあったら困るしな。あと5000円くらいはおろしていこうかな。
「ごめんね、ちなみに時間ていつからなの?」
「6時半です。」「あと1時間半か……。ええとね、お金はちょっと心配だから、途中でATMについてきてもらってもいい? それでよければ。」
「はい、是非お願いします。やったぁ。」
僕も女の子も笑った、もっとも僕の笑いはいわゆる欲望という奴が混じった気がかなりするけれども、彼女の実に健やかな笑顔は、人の心をきらりと洗い流すかのような、そんな綺麗さがあった。
「でも時間までマジで暇だね。どうする?」
「んー。」「参ったなぁ。僕、いちおう本屋にでも行こうかなぁと思っていたんだけどね。」
「あの、お邪魔じゃなかったら、付いて行って音楽の話とかうかがってもいいですか?」
「いや、逆にいいの? 僕、本屋でわりと長居するタイプなんだけど……。」
「もしお邪魔であれば……」
「いやいや、全然そんなことはないよ、とにかく適当なことして時間つぶそう。1時間くらいだよね。大丈夫?」
「はい!」
物語は、もうこれでお仕舞いである。当然ながら、私はその女の子とライヴを一緒に見に行ったわけであるが、その後二人がどうなったかということは実にどうでもいいし、秘密だ。でもあとひとつ、伝えてもいいことがある。彼女の名前だ。
彼女の名は、夢奈――〈ユメナ〉という存在、――。(了)