リカ、フェードインする!!
「リカ」
どうしてかは分からないが、その男の声はよく届く。
頭の後半部分が、かろうじてチョイ残る薄毛のその男は、
いつ来ても客のまばらな低級酒場【ウイスキー・ドック】の主人だ。
どうやら店の主は、楽しい酒を提供する気分はないようで、
流行のハイトニック(アルコールと、よく分からない粉末を混ぜた安価な合成酒)の類は一切置いていない。
後ろの棚に勢ぞろいする、美しい琥珀色のボトルは混じりッ気ナシの
正真正銘の“本物”だ。
しかし、その奇妙なまでの店主の情熱は、あまり歓迎されていない。
余裕のあるヤツなんて存在しない。
この地に一歩でも足を踏み入れた者は、
まるで見えない鎖で縛られるかのように抜け出せない。
そう言う俺もそのひとり。
ココには薄まっていない、“なにか”がある。
たぶん生物的な本能のような。
きっと、それらを俺らは心の底から愛しているんだろう。
「客だ」
甘いまどろみの中に居た俺は、視界に飛び込んできた、
薄毛の店主の見たくもない二ノ腕に軽いめまいを覚えながら
血管の浮き出る上腕からヒゲへとゆっくり視線を移す。
黒のタンクトップを着て必要以上に筋肉自慢をするヒゲは、
俺の視線に答えるように、黙って向こうを指さした……。
「この人が、リカ……」
こんな地獄みたいな薄汚い場所には、ひどく不釣り合いな、
歌うようなその女の声は、満足に働かない頭の中に
なんの抵抗もなく侵入し、俺の生物的な本能ってヤツを充分に刺激した。
「……本当に、“この人”なんですか?」
「ココではそう呼ばれている。コイツがお前の知る『リカ』なのかは、俺は知らない」
「私が探しているのは、どんなこともやってくれる『なんでも屋のリカ』って人です!」
カウンター席の端に座る男と目が合う。
睨み返してやると男は急に猫背になり
羽織っているくたびれたコートの中に泥まみれの顔を突っ込んだ。
「どんな依頼でも受けてくれるって、ゼッタイに解決してくれるッて!」
叫ぶような女の声が、さらに激しさを増していく。
どんな依頼も絶対に解決――
誰が考えたか知らないが、これ以上ない素晴らしい宣伝文句だ。
それが世間に浸透しているなら、この薄毛の男の低級酒場は
近所のお悩み相談所となるに違いない。
「仲介料は、あなたにお支払すればよろしいのですか?」
「俺は関係ない。コイツが勝手に俺の店に来てるんだ」
「そういうものだと聞いています。これは少ないのですが」
「いらないと言っている。そのカネで、酒を飲みたいなら別だがな」
「オネエちゃん」
コイツら、人の居ないところで勝手に話を進めやがる。
ショットグラスの底に、ほんの少しだけ溜まる雫を
未練がましく口元まで持っていって、そこからグイと流し入れる。
ノドの奥を抜けていった常温の液体は
酒なのか水なのか、よく分からなかった。
だが、これだけはハッキリと言える。
コンディションは最悪だ。
「……あんたが誰から聞いて来たかは知らないが、ココにはココのルールがある。その項目のひとつ目は、親父がガキに最初に教える世界の常識だ。“酒は静かに飲む”もんだ。さっきからオネエちゃんは、少しばかり声が大きいんじゃ」
驚いた。
俺の目線は遥か下。
そして頭の中に描いていた姿は
まったく鼻持ちならない世間知らずなお嬢様――
しかし――
そこに居たのは粗末な白いワンピースを着た、
あどけなさの残る“少女”だった。
ねぶるような周囲の男どもの視線をもろともせず、
俺の予想をことごとく覆した“黒髪の美少女”は凛として立ち、
その不思議な魅力を溢れさせたまま
振り返った俺の瞳を真っすぐに見つめていた。
「あなたに依頼します、『なんでも屋のリカ』」
ワンピースの少女は「報酬は」と言ったきり口ごもると、
「望むものをあげる」と続けた。