Smoke Flavor
大学校内の端っこに設置された喫煙所。そこが私のお気に入りの場所だった。
白いはずの壁はところどころ塗装が剥がれ、足元には落ち葉が散らばっていた。また、日当たりも悪く、隅の方には蜘蛛の巣が張られている。驚くほど手入れが行き届いていない。
私は足元に落ちていた木の棒を拾い、適当に周辺の蜘蛛の巣を払うとポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「人が来なくて当たり前、か」
そもそも此処を知っている人間がどれ位いるのだろうか。大学からの管理さえロクにされていないような場所だ。恐らくほとんどの学生は、此処の存在を知ることなく学校を卒業していくのだろう。私だって先輩がいなければ知る事は無かったはずだ。
しかし、だからこそ私は此処が気に入ったんだ。
人気が無く、静かでひっそりとしたこの場所。此処ならば落ち着いて、のんびりと物思いに耽けながら一服する事が出来る。社交的でない私にとってそれは非常に有り難かった。
私はあまり人と会話することが得意ではなかった。同年代の女の子達を見ていると、感心さえしてしまう。私はあんなに上手く笑えない。しかし先輩は私とは違った。常に周りには誰かがいたように思う。笑い声の中心には常に先輩がいた。私はそんな先輩を遠くから見ているだけだった。
「センパイ。やっぱり此処にいたんですね」
背後から物静かな男の声が聞こえた。それに続いて、錆びたドアが鈍い音を立てて開かれる。振り返ると、そこには見慣れた後輩の姿があった。何度も此処でみた顔だ。同じサークルの二つ下の後輩で、今年の新一年生。ちなみに私の年齢は二十歳なので、彼はほぼ間違いなく未成年のはずだ。そんな彼が喫煙することに関して、私は特に何も言わない。そもそも私だって喫煙し始めたのは十八の頃だった。
「やあ、少年」
私は咥えていた煙草を右手に持つと、壁にもたれて彼に向き直った。
後輩くんはそのまま私の隣に来ると、ポケットから煙草を取り出した。
「煙草、ちゃんと吸えるようになったんだね」
「馬鹿にしないでくださいよ」
苦笑いしながら、彼は煙草を一本口に含んだ。
「火の付け方も知らなかったのによく言うよ」
「昔の話じゃないですか」
そう言って後輩くんはカチリと音を鳴らして、煙草に火をつける。ライターの火はぼんやりと揺れて、煙草の先に吸い込まれていく。無事に火をつけた彼はライターをポケットにしまうと、そのまま口から白い煙を吐き出した。どうやらもう咽る(むせる)ことはないらしい。
後輩くんが始めてこの喫煙所に姿を見せたのは数ヶ月前のことだった。夏の始まりを感じさせるような蒸し暑い日だったと思う。その日も変わらず私は此処で一人、喫煙していると突然、彼が姿を現した。その時、私はひどく驚いたのを覚えている。此処を知っているのは私か先輩の、どちらかだけだと思っていたからだ。古びたドアの開く音がした時、ほんの少し有る筈の無い期待をしてしまったこともよく覚えている。
後輩くんは私の隣で吸ってもいいですか、と私に聞くと煙草に火をつけようとした。つけようとした、と言っているのは実際には彼が火をつけられなかったからだ。煙草の先を火に当てるだけでは、煙草に火はつかない。煙草の先に火が当たった状態で、煙草を吸うことでようやく火がつくのだ。どうやら後輩くんはこの時初めて喫煙し始めたようで、仕方なく私は彼にその事実を教えてあげた。
すると彼は盛大に息を吸い込んで、思いっきりむせた。ゲホゲホッと煙を吐き出すように、涙目になりながら後輩くんはむせていた。そして私はそれを見てケラケラと笑った。それが私の中での後輩くんとの始めての出会いだった。
ちなみにこの時サークル活動にあまり参加しない私は、後日、本人の口から聞くまで彼が後輩だとは全く知らなかった。後輩くんの方は私の事をセンパイだとは知っていたようだ。彼曰く、サークルの新歓の時に私達は出会っているらしい。私だけが覚えていないなんてなんとなく理不尽だと思った。
「お姉さんは悲しいよ」
「何がですか」
「君が煙草を吸うのに慣れた事」
後輩くんは当初より幾分か煙草を吸うのが慣れたようだった。まだ多少火をつけるのに手間取ったりする時はあるけれども、最初のあれから考えると盛大な進歩だ。さすがにあの日から数ヶ月が過ぎているだけはある。
ちなみに数ヶ月経っても私は未だに、後輩くんの名前を知らない。
「慣れちゃ駄目なんですか」
「駄目だね、煙草なんて吸ってもいいことはないし、戸惑う君の姿がもう見れなくなる」
その言葉を聞いて、後輩くんは苦笑する。
「それに――」
「それに?」
「いや、なんでもない」
君の吸う煙草が先輩と同じだから。
そんなこと言えるはずも無い。私は言いかけた言葉を飲み込むようにして、右手に持った煙草を吸った。そうして、溜息をつくように空に煙を吐き出した。紫煙は広がるように空に吸い込まれていく。
後輩くんは言葉の続きを知りたいようだったが、私はそれに気付かない振りをした。彼は納得のいかない表情をしていたが、それ以上は踏み込んで来ない。この距離感が私達二人の距離感だった。紡げなかった言葉は紫煙を纏って、空に消えていく。
そうして暫くの間、お互いに無言だった。
どちらも言葉を発さない。黙々と、煙草を吸い続ける。白い煙が何度も姿を見せては消えていく。沈黙は気まずくない。お互い煙草を吸っていれば、よくあることだ。言葉の代わりに、煙を交わす。連帯感とでもいうべきか。一緒に煙草を吸っているだけで、少し仲良くなったような気がする。口下手な私にとって、煙草は一種のコミュニケーションツールだと言える。
「そういえば」
「なんですか、センパイ」
私が声をかけると、後輩くんは一拍置いてから返事をした。私と大して身長の変わらない彼の方を見ると、ちょうど後輩くんは二本目の煙草を吸い始めるところだった。一本目の煙草を携帯灰皿に入れて、二本目の煙草に火をつける。煙草の先はチリチリと赤く燃え、暗くなり始めた辺りを照らす。秋の中ごろともなると少しずつ日が落ちるのが早くなっていく。もっとも、私は太陽よりも月が、青空よりも星空の方が好きだ。これから段々と私の好きな時間が長くなっていく。
そんなことを考えながら、私はドアの横に置かれた灰皿に煙草を棄てた。短くなった煙草は灰皿に押し付けられると、ジュッと小さく音を立てた。
「君はどうして煙草を吸い始めたんだ。言っちゃ悪いが煙草を吸うようなタイプではないだろう」
後輩くんはどちらかというと大人しそうな顔つきをしている。顔立ちは整っているが、十八歳にしてはいい意味で少し子供っぽい。その幼さの残る顔つきは、年上の女性に受けが良さそうだ。事実、サークルの同年代の子達が後輩くんのことを可愛いと言っていた。
そんな彼が煙草を吸うことは、ギャップというか違和感がある。見た目で人を判断してはいけないが、私の知る限り彼の性格からも後輩くんはとてもじゃないが煙草を吸ったりするようなタイプではないと思う。付足すのならば、茶髪もいまいち似合っているように思えない。私が黒の方が好きだというのもあるのかも知れないけれど。
「んー……それを聞きますか」
後輩くんは考えるような、悩むような素振りをして答えをもったいぶる。
特に急かすような話題でもない。私はポケットから二本目の煙草を取り出して、それを咥えようとする。
すると――
「センパイが煙草を吸っているから」
後輩くんは真面目な顔つきで言った。
思わず咥えようとした煙草を落としそうになった。慌てて咥え直し、火をつける。
心臓の鼓動が高まっていく。身体中を焦りが駆け巡る。
彼の、後輩の言葉には覚えがあった。妙な既視感。まるで二度目の映画を見ているようなデジャヴを感じる。今、此処の時が二年巻き戻ったような感覚に陥ってしまう。
前を見る。そこに居るのは後輩くんだけだ、だけのはずだ。
それなのに彼の隣に別の人影が見えてしまう。煙草の似合わなさそうな女の子。栗色の髪は腰まで伸びている。きっと彼女は非社交的で、笑うのはあんまり上手くなくて、本当は煙草もそんなに好きじゃなくて、でも無理して吸っていて。
私に良く似た、まるで昔の私のような女の子。
だったら――今の私は、彼女から見た私は、彼女の視線の先にいる先輩は。
「………………」
私は彼女をジッと見つめる。ほんの少し、僅かな時間の沈黙が訪れる。彼女は何も言わない。違う、何も言えない。
暫くして私の反応が無く、気まずくなったのか後輩くんは口を開いた。
きっと、多分私は彼が言う次の言葉を知っている。
「……って、言ったらどうしますか」
彼女は、いや彼は茶化すようにそう答えた。
やっぱりだ。二年前の私と一緒。後輩くんは二年前の私と同じ道を歩いている。通りで全て合点がいった。後輩くんが毎日此処に来ることも、後輩くんが偶然この喫煙所の存在を知ったことも、後輩くんが似合わない煙草を吸うことも。
ああ、なんて偶然なんだろう。
なんて作為的な偶然なんだろう。
私は知っている。
この喫煙所に後輩くんが来る理由を。
私は知っている。
その恋が報われないと言うことを。
「だったら」
「だったら?」
健気な後輩はオウムのように言葉を返す。
胸が痛い。センパイっていうのはどうしようもなく辛い。ようやく気がついた。
二本目の煙草はほとんど吸われること無く、短くなっていく。
それとは裏腹に後輩くんは既に三本目の煙草を吸い始めていた。
「是非とも禁煙する事をお勧めするね。そうやって吸っていてもいいことはないよ」
「どうしてですか?」
「さあ、二年経ったら分かると思うよ」
曖昧な言葉で煙に巻く。同じだ、二年前と。
「なら、センパイはどうして煙草を吸い始めたんですか」
後輩くんが少し声を荒らげる。当然だ、煙草を辞めろといった先輩は煙草を吸っているのだ。それも頻繁に。素直に納得できるわけがない。その気持ちは良く分かる。
だって、私だって同じだったから。
「……理由か」
私が煙草を吸い始めた理由。
簡単だ、気になる先輩が煙草を吸っていたからだ。その先輩はいつだって人に囲まれていた。笑っていた。騒いでいた。はしゃいでいた。
そんな先輩に私は惹かれていた。しかし、そんな私とは対照的な先輩と私がサークルで、それ以外で喋る機会なんてほとんどないに等しかった。だから、私は見ているだけだった。
先輩がこの喫煙所で一人、寂しそうに煙草を吸っている姿を見つけるまでは。
それが私の煙草を吸い始めた理由。
そして
「私も君と同じだよ、多分だけどね」
きっと君が煙草を吸い始めた理由も一緒だろう。
一陣の風が吹く。木々はそれに呼応してざわめき始め、落ち葉はカサカサと音を立てる。
秋風は肌寒く、空は黒く染まりきっていた。夜空に点在する星は煌いて、私達を薄っすらと照らしている。
季節はもうすぐ冬になろうとしていた。
初めての投稿です。
読んでいただきありがとうございます。
機会があればまた投稿しようと思っているのでよろしくお願いします。