貴方なら
「お嬢様、お召し物が濡れています」
侍女のアンに指摘されて、初めて気がつく。
「あら、どこかで水でもかかってしまったのかしら」
背中がかなり広範囲で濡れていた。
「これだけ濡れているのに気づかないなんて……お嬢様しっかりしてください」
いつ濡れてしまったのかしら。
リアン様と過ごすのが楽しくて全然気がつかなかった。リアン様も私の斜め前を歩かれていたから気づかれなかったのね。
「本当ね。また気をつけておくわ」
「はい。いくらリアン様との時間に夢中だからといえど、このような姿で出歩かれたなんて……」
ブツブツ言いながらアンは丁寧な手つきでデイドレスをハンガーにかける。
それだけリアン様とのデートが楽しかったのよね。
リアン=クルート様。
伯爵家の嫡男で、皇太子様の覚えもめでたい近衛騎士。お年は22才。白銀の髪と紫紺の瞳。人を寄せ付けないような美貌の持ち主だが、外見とは裏腹に性格は温厚で人当たりも良い。いわゆる優良物件である。
しがない男爵家の私とは釣り合いが取れないと思うのだが、なぜか私が成人すると同時に婚約の申し込みがきた。
今時は政略結婚でも相手との相性の良し悪しを見るようになった昨今。私とリアン様も相性をみるべく3ヶ月のお試し期間を設けた。
今日はちょうど2ヶ月目。
意外とマメなリアン様に週に1度はお出かけに誘われて、8回目のデートを終えたところ。
相性は……リアン様は分からないけれど、私は毎回のお出かけが待ち遠しくなるくらい、夢中である。
いや、外見の良さはもちろんだけど、私が好きな甘味の美味しいお店をリサーチして連れて行ってくれたり、今流行の観劇のチケットをとって連れて行ってくれたりと、もう嫌いになる要素が見つからないくらい毎回私に尽くしてくださる。
これで好きにならないのは無理よね……。
唯一なぜ私に婚約を申し込んだのかだけが不明だけど、とにかくこのチャンスをものにすべく私自身自分磨きに余念がない。
という私も、外見だけはそこそこ優れていると自負している。金髪碧眼、背は低めだけれど、母譲りのナイスバディ。リアン様以外にも何通か釣り書が届いていた。
「お嬢様は外見だけは素晴らしいのですから」
「アン。外見だけは余計よ」
侍女のアンは乳母の娘で、私とは兄弟のように育ったため誰もいない場所ではかなり気安い。私自身外では猫を被っているので、アンの前では思っていることが何でも言えるのがありがたかった。私にとって無くてはならない存在である。
「さ、もう寝るお時間です。私は下がりますね」
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
アンは一礼すると部屋から出て行った。
さ、私も寝ましょう。
でも、今日のリアン様もステキだった。
人混みを歩く際にはさりげなく手を握ってくださって。
キャー。
アンには言わなかったけれど、今日はなんと帰り際に右手にキスまでされてしまった。
できるだけ右手を洗わないようにしていたんだけど、アンに気づかれなくて良かった。
とにかくステキだった……。
そんな人が私の婚約者になるかもだなんて……。
真っ赤になった顔を枕に埋める。
次のデートが楽しみ……。
そのまま私は眠りに落ちた。
ピトッ
水滴が落ちる音がする。
何か冷たいものを頬に感じて目を開ける。
まだ室内は真っ暗である。
気のせいかしら……頬に手を当てると確かに濡れている。
雨漏り?
ベッドライトを付けて、天井を見上げるがシミのような物も水滴も見えない。
……何かしら。
なんとなく気味が悪い。
そう言えば今日は外でもなぜか濡れたし。
アンを呼ぼかと迷ったけれど、特に大きなこともないのに起こすのも申し訳ないかと、とりあえずランプをつけたまま寝ることにした。
ピトッ。
またあの音。
ゴボゴボゴボ。
苦しい!!
息ができない!!
私はなぜか水の中でもがいている。
なぜ!!
なぜ私がこんな目に!!
赤色の髪がまとわりつく。
大粒のエメラルドが小さくなっていく。
手を伸ばすけれど、かすかに見える銀髪はどんどん遠ざかって……。
「……さま」
「お嬢様!!大丈夫ですか!!お嬢様!!」
目を開くと、心配そうに私を見つめるアンと目が合った。
「良かった……なかなか目が覚められずに……うなされて……心配いたしました」
私はゆっくり息を吸った。
苦しくない。
夢?
その割にはかなりリアルだった。
「……怖い夢を見たの」
身体がぶるぶる震える。
アンは私をゆっくりと抱きしめた。
「よほど怖い夢だったんですね。寝汗でお嬢様の寝巻きがぐっしょりしめっております」
言われて自分の身体を見る。不自然なほどに服が湿っていた。
本当にあれは夢?それとも……。
とにかく、怖くて怖くて仕方がなかった。
「お召し物と何か温かい食べ物を持ってまいります」
「1人にしないで!!」
この部屋に1人残されるのは耐えられない。
「……それでしたら、隣の客室に参りましょう」
私は小さく頷くと、アンに続いて部屋を出た。
服を着替えて、温かいスープを飲むと気持ちが落ち着いてきた。
「どのような夢だったのですか?」
「水が……」
アンに説明しようとするが、なぜか言葉にならない。
「水?」
私は小さく頷いた。
「昨日背中を濡らして帰られたのがよくない夢につながったのでしょうか?今日はお部屋でゆっくりなさいましょう」
昨日の背中……確かにそうかも知れない。
頬に感じだのも夢の一部かも。
その後の悪夢も……。
そう思うと、部屋まで移動して大げさに騒いだ自分が恥ずかしくなってくる。
「……そうするわ。ありがとうアン」
アンは一礼すると、赤色の髪を翻して部屋の外に出た。
そう言えば、夢で私は赤髪だった……。
ということはあれは私じゃない?
やめよう。
悪いことを考えると悪いものを呼び寄せると言うし。
私は昨日あまり眠れなかったせいか、そのまま眠りについた。
昼は夢一つ見ずにぐっすり眠れた。
やっぱり、たまたまだったのね。
と思いながらやはり不安だった私はアンにお願いして、今日だけ一緒に寝てもらうことにした。
「こうしてお嬢様と寝るのも小さい頃以来ですね」
「……ごめんね。やっぱり夜が怖くて」
「大丈夫です。何だか久しぶりで嬉しいです」
アンが嫌がらずに一緒に寝てくれてホッとする。
「あまり不安ならリアン様に相談してみるのも良いかもしれませんよ」
「……そうね。もしこれが……」
続くようならと言いかけてやめる。
やめよう。もう悪夢を見ることはないんだから。
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
アンの寝息が聞こえてくる。
それにつられるように私も眠りに落ちた。
ピトッ
またあの音が聞こえる。
でも、水は感じない。
何なのよいったい。
私が一体何したって言うのよ。
思いきって目を開ける。
目の前には何もいない。
アンが寝息をたてて寝ている。
ホッと胸をなでおろすと、もう一度目を閉じた。
ピトッ
またも音が聞こえる。
今度はさっきよりも、音が大きく聞こえた。
……もしかして近づいている?
怖くなって、目を閉じたままアンを揺するが、アンは身じろぎもしない。
ピトッ
今度はすぐ後ろで音が聞こえた。
怖いのになぜか、目が開いた。そして恐る恐る後ろを振り返る。
びしょ濡れになった赤髪の女性がすぐ後ろにいた。
金縛りにあったかのように身体が動かない。
アンを起こそうにも声もでない。
私は硬直したまま女と目が合った。
「……やめておきなさい」
やめるって何が……?
「私みたいになりたくないなら」
そう言って赤髪の女性は髪を持ち上げた。
ひっ。
首に絞められた痕がくっきりと浮かんでいる。
ピトッ
その音とともに女性はいつの間にか消えていた。
女性が消えるとともに金縛りもとけた。声も出せる。
「アン、アン起きて!!」
「……お嬢様、どうなさったのですか?」
私は涙でぐちゃぐちゃになった顔でアンに叫ぶ。
「出たのよ、赤髪の幽霊が!!あそこに」
私が指差したところは不自然に濡れていた。
「……確かに濡れています。天井にも特に変化もありませんし……どうして……」
アンも私の言葉に怯えた表情を見せる。
「やめておきなさいって、私みたいになりたくないならって……」
私は幽霊に言われた言葉を復唱する。
少し冷静になってくると、幽霊に言われた言葉が気になってくる。
やめるって、何を?
私みたいになりたくないならって、殺されるっていうこと?
ものすごく怖かったけれど、幽霊は私に何かを伝えようとしていたようにも思える。
ただ、何についてかが、分からない。
「よく分かりませんね。お嬢様にだけ見えるのも何か意味があるんでしょうか?」
同じ部屋にいたのに、アンには見えなかったのはなぜ?
思考がうまくまとまらない。
ただ、恐怖のせいか震えが止まらなかった。
「お嬢様、やはり明日リアン様に相談しましょう」
私はこくこくと頷いた。
とにかく誰でも良いから、助けてほしい。
リアン様はいろいろな方と繋がりがあるので、もしかしたら私のような状況の人への対処をしてくださる方をご存知かもしれない。
私はそのまま眠れず一夜を過ごした。
「セレナ、どうしたんですか?顔色が悪い。体調が悪いなら無理せずに出かけるのは後日にしても大丈夫ですよ」
待ち合わせ場所で私の顔を見た途端、リアン様はすぐに声をかけてくださった。
自分でも自覚しているけれどかなり私の顔色は悪い。
「いえ……実は今日はご相談したいことがありまして……」
「とりあえず、個室に入りましょう。今にも倒れそうだ」
リアン様は予約してくださっていたお店に私をエスコートしながらすぐに連れて入ってくださった。
「……ここなら、他に聞かれることもありません。ご相談とは……?」
「実は……」
ピトッ
私が相談内容を言おうと口を開きかけたその時、あの音が聞こえてきた。
雨も降っていないのに目の前のガラスは濡れていた。
そしてあの幽霊の姿が映る。
「あ、あ、あ……」
私は恐怖のあまり続きの声がでない。
「セレナ、どうしましたか?」
リアン様は気遣わしげに私を見つめる。
幽霊の女はゆっくり、リアン様を指差した。
リアン様?
そう言えば……
あの夢の中で見えた髪色は銀髪だった。
指輪……
目の前に光るエメラルドの指輪が見える。
あの夢の中の指輪は……
つまり……リアン様は……
私は別の意味で震えが止まらなくなった。
ガラスに映っていた女性はいつの間にか消え、水滴だけが滴っている。
「……リアン様……申し訳ありません。私には貴方様の婚約者は荷が重すぎます。今回の話は無かったことにしてください」
「セレナ!!」
私はリアン様の顔を見ずにそう告げると、引き止める声を振り切って個室を出た。
「馬車を出して!!」
侍従に命じてすぐに馬車を出す。
あまりに慌てすぎて、控室にいたアンを置いて来てしまった。
申し訳ないけれど、あの場に戻る勇気は無い。
きっとアンなら辻馬車を拾って帰って来てくれるはず。
私は震える身体を抱えながら、確信していた。
もう幽霊を見ることは無いと。
◇ ◇ ◇ ◇
「振られちゃったよ。せっかく君が勧めてくれたのに」
リアンは目の前に座る人物に肩をすくめて見せた。
「お嬢様はなぜか、赤髪の女を気にしていたから」
「もしかして僕と君の関係がバレてた?」
「それは無いわね。もしバレてたら直接私に何か言うはずだから……せっかく貴方と一緒にいられる良い方法だと思ったのに……」
「怖い女だね。自分の主をだまそうなんて」
「だってあの人が私とずっと一緒にいたいって言ったのよ。だから一緒にいられる案を提案してあげたのに。……妙な幽霊話で台無し。それに貴方だって人のことは言えないじゃない。私の案に嬉々としてのったくせに」
「そりゃあ君と一緒にいられるなら良い案だと思っただけだよ……でも案を変更しないとな……」
リアンは少し難しい顔で考えこんだ後、輝くばかりの笑顔を浮かべた。
「相変わらず君の赤髪は美しいね……惜しいな……でも仕方がないか……」
リアンはアンの髪を見てうっとりしながら呟く。最後の言葉は小さくてアンには聞こえなかった。
「ありがとう。本当にあなたももの好きよね。赤髪にしか好意を抱けないなんて。家のお嬢様世間一般では絶世の美女よ」
「でも赤髪じゃない」
「もう。いっつも髪ばかり褒めるんだから」
「まぁ、仕方がない。次はまた別の人にしよう。せっかく個室をとったから好きなだけ飲んで構わないよ。こんな機会二度とないだろうし。男爵家には君が体調を崩して、休んで帰ると早馬で伝えておこう」
「ありがとう。さすが伯爵様気が利くわね」
「ああ。さ、じゃんじゃん飲んでくれ……酔っても僕が送って帰るから……」
「ありがとう」
お酒も入り2人の会話は親密さを増していく。
ピトッ
どこかで水滴の落ちる音がした。
だが、会話に夢中の2人にその音が聞こえることは無かった。
「……貴方なら構わないわね……だって赤髪だもの……」
1人に見えた姿は2重にも3重にも重なって見える。
女たちはガラスごしにニヤリと微笑んだ。




