1 黒の書が選んだ少年
朝の光が、書架の隙間から差し込んでいた。
正確には、光ではない。天井に吊るされた『光灯書』——太陽を称える詩が綴られた小さな文庫本——が、夜明けとともに輝度を上げ、図書館の内部をやわらかな橙色に染めているのだ。
この世界では、本がすべてだ。
光も、熱も、水も——すべて本の力で成り立っている。街灯の代わりに光る本が道を照らし、コンロの代わりに燃える本が料理の火を生み、水道の代わりに湧き出す本がシャワーの水を吐き出す。本とは、この世界における資源そのものだった。
文倉トウジは、いつものように脚立に登り、最上段の書架に手を伸ばしていた。
「……『風紋の旅路・改訂版』、と。よし、これで修繕が必要な本は全部だな」
古びた革装丁の本を抱え、脚立を降りる。埃っぽいエプロンの胸ポケットには栞が三本、腰には革の道具入れ。十七歳にしては随分と所帯じみた格好だが、これが文倉家の代々受け継がれてきた司書の正装だった。
この図書館は、辺境の村ルスティカにただ一つ存在する大規模書庫である。
村の規模に対してあまりに不釣り合いなほど巨大で、三階建ての書架が迷路のように連なり、数万冊の蔵書を抱えている。なぜこんな辺鄙な村にこれほどの図書館があるのか、住民のほとんどは深く考えない。ただ文倉家が代々守ってきたのだから、そういうものなのだろうと。
トウジだけが、その理由を知っていた。
——正確には、理由そのものを毎日見ていた。いや、見られていると言った方が正しいか。
「お兄! 朝ごはんできたよー!」
明るい声が図書館に響き、トウジは我に返った。
「ああ、今行く」
振り返ると、図書館の入口から妹のマシロが顔を覗かせていた。亜麻色の髪を二つに結んだ十四歳の少女は、燃える本——『焔書』で温めたばかりのスープ鍋を持っている。
「今日でしょ? 試験の人が来る日」
「……ああ」
「絶対受かるよ。お兄、本のこと誰よりも知ってるもん」
マシロは疑いもなくそう言い切る。その純粋さが、トウジには少し眩しかった。
その眩しさのせいで視線をそらすと、自然と図書館の最奥に視線が映る。自然というより、いつも見られているからなのかもしれないが。
図書館の最奥。書架が途切れ、薄暗い通路を抜けた先に、それはある。
天井を突き破るほどの巨大な石柱。灰色の岩肌に無数の紋様が刻まれ、その中央に——真っ黒な装丁の本が、表紙だけを晒すようにして埋め込まれていた。
黒の書。
タイトルはない。著者もない。ただ底なしの闇のような黒だけが、そこに在る。
幼い頃からトウジはこの柱の前に立つたびに、背筋がざわつくのを感じていた。恐怖ではない。まるで、この本がこちらを見ているような——そんな感覚だ。
「いただきます」
マシロの作ったスープを啜りながら、トウジは窓の外を眺めた。村の通りには光る本の街灯が並び、屋台の親父が燃える本の上で団子を焼いている。小さな村だが、本の恩恵は隅々まで行き渡っていた。
「いやあ、しっかし、とうとうお兄が禁書回収者ですか。妹としては嬉しいものです!」
「まだ試験受けてないから、受かったわけじゃないぞ」
「お兄なら大丈夫でしょ。だって、禁書回収者に成りたいって思ってからずっと訓練してきたんだから」
そう。マシロの言う通り、トウジがこの道を志してから、もう九年が経つ。
八つの時だった。村の近くに「禁書」が漂着し、その影響で村人たちが次々と倒れた。
幼いトウジもマシロも例外ではなく、高熱にうなされ、このまま死ぬのだと思った。そのとき現れたのが、一人の禁書回収者だった。
禁書回収者は、トウジたちを優しく助け、禁書を回収して封印し、そして去っていった。朦朧とする意識の中で見たその背中が、格好良かった。ただ、それだけの理由だ。ありきたりで、単純で——だからこそ、揺るがない。
禁書回収者。本で悪事を働く蝕書者を排除し、禁書を回収する——命がけで本と人を守る存在。あの日からトウジは、その背中を追い続けてきた。
雨の日も、雪の日も、どんな日だろうと。本の力を引き出す訓練を、一日も欠かさなかった。司書としての仕事を終えた後、村外れの草原で日が暮れるまで。指先がかじかんで本が開けなくなっても、熱で頭がぼうっとしても、やめなかった。
「だから大丈夫。お兄は絶対なれるよ」
「……ありがとな」
「それにさ」
マシロはスープの鍋を置いて、少し照れくさそうに笑った。
「お兄が禁書回収者になって旅に出ても、心配しないでね。この図書館は——私が継ぐから」
「……マシロ」
「文倉家の司書でしょ、私だって。まだまだ半人前だけど、お兄がいない間にちゃんと一人前になるから。だから安心して、行ってきなよ」
トウジは妹の顔を見つめた。いつの間にか、こんなことを言えるようになっていたのか。
「——ああ。任せるよ」
その穏やかな村に——場違いな来客が現れたのは、昼過ぎのことだった。
─────
「お兄、試験管の人来た?」
「いや、まだ───」
その瞬間だった。
図書館の重い木製扉が、外から蹴り飛ばされるように開いた。マシロが小さく悲鳴を上げ、トウジが咄嗟に身構える。
扉の向こうから入ってきたのは——膝ほどの高さの、小さな影だった。
「……子供?」
「子供とはなんじゃ、失礼な小僧じゃのぅ」
身長は百三十センチほど。銀髪を短く刈り込み、だぼだぼの外套を引きずるように纏った——どう見ても十歳前後の少女が、図書館の前に立っていた。
背中に、焦げ茶色の革装丁の本を一冊、鎖で括りつけている。
「ワシは禁書回収者の試験官、ハイジじゃ。——ああ、今はこんな姿じゃが、やるときはやるから安心せい」
ハイジは外套の裾を引きずりながらずかずかと図書館に入り込み、勝手に書架を眺め始めた。トウジとマシロは顔を見合わせる。
「あの……本当に、禁書回収者の方、ですか?」
「疑り深い小僧じゃのう。まあよい、証拠はそのうち嫌でも見ることになるわ」
ハイジは一通り書架を見回した後、くるりとトウジの方を向いた。
「さて。試験方法は試験官によりけりでの、ワシのやり方はちと変わっておる。——小僧、この村を案内せい」
「案内?」
「散歩じゃよ、散歩。歩きながら色々と見せてもらう。ワシはこの村に来るのは初めてじゃからな。ついでに団子でも食いたい。図書館に来る途中で見かけたんでな」
「団子……」
トウジは呆気に取られた。
禁書回収者の試験と聞いて、もっと厳格な——たとえば筆記試験とか、戦闘訓練とか、そういうものを想像していた。しかし予想とは裏腹に、行われるのは散歩らしい。
「さっさとせんか。ワシは腹が減っておるんじゃ」
そうして、禁書回収者の試験は——村の散策から始まった
─────
ハイジは団子を食っていた。
屋台の長椅子に座り、短い足をぶらぶらさせながら、串に刺さった団子を頬張っている。見た目は完全に、おやつを楽しむ子供だ。
「うむ、美味いのう。——して、小僧。あの屋台の火、何の本を使っておるかわかるか?」
トウジは屋台の炎を見つめた。安定した火力。揺らぎが少なく、熱量の割に煤が出ない。
「『赤竜の吐息・第三巻』の写本ですね。火持ちがいいんです。初版だともっと火力が出るんですが、団子を焼くには写本の方が扱いやすい」
「ほう」
「ちなみに、あっちの鍛冶屋は『溶鉱炉の怒号』を使ってます。温度が段違いなので。あと、街灯は村の予算の関係で全部『朝日の短歌集』の量産版です。光量は弱いけど、寿命が長いからコストパフォーマンスがいい」
ハイジは団子を咥えたまま、じっとトウジの顔を見ていた。
「……な、なにか間違ってましたか?」
「いや。知識は申し分ないのう。さすが代々の司書じゃ」
それだけ言って、ハイジは次の団子に手を伸ばした。
散策は続いた。ハイジは歩きながら、矢継ぎ早に問いかけてくる。
「あそこの家の壁、本の力で強化しとるな。何の本じゃ?」
「『石壁の誓い』です。壁の強度を上げる力があって——」
「子供たちが遊んでおるあれは?」
「『虹色しゃぼんの魔法使い』。児童書ですけど、ちゃんとした力を持ってます。触れても害はないので遊び道具として——」
「この村の中心にある本は?」
「『安息の詩集』です。この村の住民が穏やかなのは、その本の影響で——」
各地の街や村には、それぞれの共同体の中心に一冊の本が安置されている。その本が土地に恩恵を与え、住民に影響を及ぼす。だから同じ国でも、街ごとに人々の気質は微妙に違う。
そうして街を巡って図書館に戻ってきた。
図書館ではマシロが懸命に作業していた。マシロは、トウジの存在に気付いて目を遣ったが、試験中なのを思い出し、声を掛けずに再び作業に戻った。
「では、あの柱の中に封じられた本は?」
トウジは、一瞬言葉に詰まった。
「……黒の書」
「うむ。——あれが何か、お前は知っておるか」
「かつて世界を破滅させかけた禁書です。禁書の中でも、別格中の別格。それを止めた本があったけれど、破壊することも動かすこともできなかった。それでこの村にそのまま封印されたと——文倉家には代々、そう伝わっています」
「そうじゃ。お前の家系は、あれの墓守よ。動かせぬ災厄を、ただ見張り続ける役割。——なればこそ、あの本には絶対に触れるな。誰にも触れさせるな。よいな」
ハイジの声に、初めて重みが宿った。
「はい」
「よろしい。——さて、知識はもう十分じゃ」
ハイジは手に持っていた焼き芋の皮を屑箱に放り込み、指先の灰を外套で拭った。道中の屋台で買い足したものだが、いったいいつの間に食べ終えたのか
「次は、力を見せてもらおうか」
─────
村の外れ、枯れた草原。試験会場は人気のない場所へと移った。
本の力を自分の意志で引き出し、戦闘に使える人間がいる。禁書回収者も蝕書者も、そして一般人の中にも稀に——そうした力を持つ者が存在する。
トウジもその一人だった。
トウジは自分の本を両手で開いた。『初歩の風操術』——幼い頃に素養があると気づき、九年間使い込んできた一冊だ。
大した威力はない。だが、この本と過ごした時間だけは、誰にも負けない自信がある。
「ルールは簡単じゃ。ワシに一撃入れてみぃ」
ハイジは両手を後ろに組み、欠伸をしている。
トウジは本を構えたが——ふと、目の前の小さな身体を見て、手を止めた。
「あの……ハイジさん。本当に、大丈夫ですか? 俺、一応それなりに訓練は——」
「ほう? ワシの心配をしてくれるか。優しい小僧じゃのう」
ハイジがにやりと笑った。
次の瞬間——ハイジが片手を空に向けて、無造作に振り上げた。
その指先から、蒼白い光の奔流がまっすぐ天へと昇り、文字通り「轟」と空気が震える。
見上げたトウジの目に映ったのは、空を覆っていた厚い雲が——真ん中から左右にぶわりと裂けていく光景だった。まるで巨人が両手で雲を引き剥がしたように、青空が丸く抉り取られ、日光が草原に降り注ぐ。
「——は」
トウジは口を開けたまま固まった。
「安心したか?」
ハイジは何事もなかったかのように、再び両手を後ろに組んだ。
「さ、遠慮なくかかってこい。ワシが怪我する心配は、せんでええぞ」
トウジは、乾いた笑いを一つ漏らした。心配する相手を完全に間違えていたと内省し、心を入れ替えた。
「——行きます!」
本を掲げ、力を込める。九年間、毎日積み上げてきた全てを叩きつけるつもりで。
本から風が噴き出す。砂埃を巻き上げ、ハイジに向かって渦巻く突風が襲いかかる。
ハイジは指一本で、それを弾いた。
人差し指をぴんと立てて、風の塊を横に逸らしただけだ。草原の草が一方向になぎ倒される。
「……っ!」
わかっていた。一発で通るとは思っていない。だから——
「もう一発!」
間髪入れず、今度は低い位置から地を這うような風を放つ。足元を掬う狙いだ。
ハイジが軽く跳んで躱す——その着地の瞬間を狙い、三発目の風刃を頭上から叩き込む。
「ほう、考えてはおるな」
ハイジは跳んだまま空中で身を捻り、三発目をかわした。着地すらしない。トウジの攻撃が、まるで計算に入っていないかのように。
それでも、やめない。
角度を変え、タイミングをずらし、フェイントを挟む。右から、左から、背後から。本のページを捲る速度を上げ、一度に二つの風を同時に走らせる。これが今のトウジの全力——九年かけて編み出した、『初歩の風操術』の限界だった。
ハイジは片手を後ろに組んだまま、残った片手だけで全てをいなしていく。表情は変わらない。まるで、風に吹かれて散歩をしているだけのように。
「もうよい」
十五分後、トウジは膝をついていた。本の力を使いすぎて、頭がぐらぐらする。
「知識はある。素養もある。じゃが、戦闘能力は話にならん。あの程度の風では、敵の出す化け物一匹倒せんわ」
「で、でも、もっと強い本があれば——」
「本のせいにするか?」
ハイジの声が、冷たくなった。
「……いえ。すみません」
「最後に、一つだけ聞く」
ハイジはトウジの前に立ち、見上げるほど小さな体で、しかし見下ろすような圧を纏って言った。
「お前の最も大切な人間と、世界で最も大切な書物。——そのどちらかしか助けられなかったら、どうする?」
トウジは、固まった。
「……え?」
「どちらかを選べ。人か、本か」
「そんなの……選べるわけ——」
「駄目じゃな」
ハイジは背を向けた。
「ワシら禁書回収者は、本がすべてじゃ。人の命よりも本を優先する。一冊の本が失われれば街が滅び、禁書が野に放たれれば、何千、何万という命が消える。目の前の一人を切り捨ててでも、本を守る。それが禁書回収者じゃ」
「でも——」
「不合格じゃ」
それだけ言って、ハイジは歩き去った。短い足が枯れ草を踏む音だけが、やけに大きく響いた。
「それができんお前ごときが、背負える重さじゃない。——諦めな」
─────
夕暮れ。
トウジは図書館の書架に背を預け、天井を見上げていた。
不合格。
わかっていた。戦闘力が足りないことも、自分の本が弱いことも。
でも、最後の問いだけは——あの答えにだけは、どうしても納得できなかった。
ふと、マシロの顔が浮かぶ。兄を信じて送り出してくれたあの笑顔。
『本を選べ。人を捨てろ。』
それが禁書回収者の覚悟だと言うなら。
「——俺には、なれないのかな」
独り言が、静かな図書館に吸い込まれた。
そのとき——空気が変わった。
図書館の外から悲鳴が聞こえた。
─────
村が燃えていた。
いや、正確には、燃えているのではない。街灯の光る本が次々と暴走し、過剰な光を放って砕け散っている。
屋台の燃える本が制御を失い、炎が建物に燃え移る。
その混乱の中心に、黒ずくめの集団がいた。
蝕書者だ。
五人、十人——いや、それ以上。統率された動きで村を制圧していく。彼らの手元では禁書が禍々しい光を放ち、そこから這い出た化け物——腐肉でできた狼のような獣が、逃げ惑う村人に襲いかかっていた。
「な——」
トウジがなんとかしようと、図書館を飛び出したとき、上空から轟音が降ってきた。
突然、蝕書者の一人が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
その背後に、いや、上空には──。
人影があった。
銀髪の長身。百八十五センチはある身体を外套に包み、右手に焦げ茶色の革装丁の本を開いて持っている。蝕書者を見る目は氷のように冷たい。
「排除だ。一行残らず。全員ぶちのめす」
そう、その人影はハイジだった。
あの子供の姿ではない。
本の力を全開にしたことで、本来の姿——大人の女性の姿に戻っていた。声も、口調も、纏う空気も、まるで別人だ。
「焚刑のハイジ……!? なぜこんな辺境に——」
「理由を語る義務はねぇ」
ハイジの本が輝く。
「——灰燼と化せ」
ページから噴き出した蒼い炎が、蝕書者たちを薙ぎ払う。
燃え盛り、苦しみもがく蝕書者の身体から禁書がこぼれ落ち、ハイジがそれを回収していく。
圧倒的だった。
トウジはようやく、ハイジの言っていた「やるときはやる」という意味が分かった。彼女は──ハイジは圧倒的な強者だ。
それはまるで、トウジの憧れの禁書回収者のように。
しかし、相手の数が多すぎた。
倒しても倒しても、蝕書者は現れる。
ハイジを足止めすることだけが目的であるかのように、次々と使い捨ての兵が突っ込んでくる。
「チッ——陽動か」
ハイジが舌打ちした瞬間、トウジは気づいた。
蝕書者の本隊は、二手に分かれていた。
一方は、村を荒らしながらハイジを拘束する囮部隊。
そしてもう一方は——図書館へ向かっていた。
「黒の書だ——!」
トウジは走った。図書館に向かって、全力で。
奴らの狙いは間違いなく黒の書だ。だって、黒の書があれば、この街は、この国は、いやこの世界全てを滅ぼすことだってできる。黒の書は、悪人の蝕書者にとって願ったり叶ったりだ。
しかし、村の広場を横切ったとき、トウジの足が止まった。
「お兄ちゃん!!」
マシロが追い詰められていた。
禁書から這い出た腐肉の狼が三匹。牙を剥き、涎を垂らしながら、壁際の少女に迫っている。マシロは腰が抜けて動けない。
その手には壊れた光る本の残骸——もう光すら出ない。
「マシロ!」
トウジは足を止めた。
それと同時に、図書館の方から破壊音が響いた。
封印の柱が、砕かれている音だ。蝕書者たちが、黒の書を引き剥がそうとしている。
「小僧!」
ハイジの声が、戦場の向こうから飛んできた。蝕書者数人と同時に戦いながら、血走った目でトウジを見ている。
「本を守れ! 妹は諦めろ! 黒の書が奪われれば、この村どころか世界が終わる!」
昼間の問いが、脳裏で轟いた。
——お前の最も大切な人間と、世界で最も大切な書物。そのどちらかしか助けられなかったらどうする?
マシロが泣いている。獣の牙が、あと数歩の距離に迫っている。このまま助けなければ、きっとマシロは死ぬ。
図書館の奥で、封印の紋様が一つ、また一つと砕ける音がする。蝕書者が黒の書を手にすれば世界がどうなるか全く分からない。
どちらかしか助けられない。
本か、人か。
禁書回収者なら、本を選ぶ。ハイジはそう言った。それが正しいのだと。それができない人間には、禁書回収者は、背負える重さではないのだと。
——だから。
「——ふざけるな」
トウジの足が動いた。
マシロに向かって走りながら叫んだ。
「どっちも諦めるなんて、そんな結末は認めない!」
獣の前に飛び込む。『初歩の風操術』を開き、渦巻く風で狼を押し返す——が、三匹には足りない。一匹の牙がトウジの肩を裂き、血が飛び散る。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だ……大丈夫だから——」
大丈夫ではない。風は弱まり、獣が再び迫る。図書館からは、封印が完全に砕ける音——
そのとき。
トウジの胸の奥で、何かが脈打った。
鼓動ではない。もっと深い場所——魂の底から響く、低い振動。まるで、分厚い本のページが一斉にめくれるような音。
図書館の最奥で、封印の柱に亀裂が走った。
だが、蝕書者たちが引き剥がしたのではない。
黒の書が——自ら柱から抜け出したのだ。
真っ黒な装丁の本が宙に浮き、一直線にトウジのもとへ飛来する。
蝕書者たちが絶叫した。
「何だ!? 本が、本が勝手に——」
黒の書がトウジの右手に収まった。
その本は氷のように冷たかった。
だが同時に、不思議と手に馴染んだ。まるで最初からそこにあったかのように。トウジのための本であるかのように。
本が開く。一ページ目に黒い文字が浮かび上がる。
見たことのない言語だ。意味も文法も何も分からない未知の言語。だが、トウジにはそれが読めた。他の誰にも読めなかったはずの、この本の最初の一文が。
「——無極地対」
トウジの持つ書物から黒い衝撃波が放たれた。
獣が消えた。塗りつぶされるように存在ごと。牙も、腐肉も、唸り声も。何もかもがなかったことになり、漆黒の粒子となって霧散した。
ただの消滅ではない。攻撃を打ち消したのでもない。存在そのものを抹消したのだ。
黒の書。それは、世界に破滅をもたらす書物。
それ故、その能力はシンプル。
——破壊。
図書館に突入していた蝕書者たちが、恐怖に顔を歪めた。
「黒の書が……あいつを選んだだと!? ありえない! あの本は誰にも——」
「うるさい」
トウジは立ち上がった。肩から血を流し、右手に黒の書を握りしめたまま。
黒い文字が、右腕を這い上がるように浮かび上がっている。本の力がトウジの身体を侵していく。だが今は、そんなことはどうでもよかった。
「俺の村を荒らして、俺の妹を傷つけようとして、図書館の本を奪おうとした」
黒の書が脈動する。白い文字が渦を巻く。
「——全部、帳消しだ」
漆黒のインクが空間を塗りつぶすように広がり、蝕書者たちの放った攻撃——炎も、氷も、禁書の化け物も——すべてを飲み込んで消し去った。
蝕書者の一団は壊走した。
これ以上は無理だと判断したのだろう。残党が夜の闇に溶けるように消えていく。
トウジは膝をついた。全身が鉛のように重い。視界がぐらつく。右腕の黒い文字がじくじくと痛む。
「お兄! お兄!」
マシロが駆け寄り、トウジの身体を支えた。
「大丈夫だ……マシロ。怪我は……ないか」
「私は平気! でもお兄の腕……」
「ああ……なんか、模様が出てるな。かっこいいだろ」
「かっこよくないよ……!」
マシロが泣きながら笑った。トウジも少しだけ笑った。
そんな二人に足音が近づいた。
振り向くと、そこにはハイジが立っていた。
ハイジはもう子供の姿に戻っていた。だぼだぼの外套を引きずりながら、トウジの前に来て、黒の書を見つめた。
「……あの本が、お前を選んだのか」
「……ハイジさん」
「長い歴史の中で、あの本は一度たりとも誰の力にもならなかった。あらゆる者を拒絶し続けてきた。その本が──黒の書がお前に応えた」
ハイジの表情は複雑だった。驚き、困惑、そしてほんの僅かな、感嘆。
「お前は試験中に言うたな。『選べるわけがない』と」
「……はい」
「そして実際に、どちらも諦めなかった」
「はい」
「……あの答えは、不合格じゃ。禁書回収者としてはな」
トウジは俯いた。
「——じゃが」
ハイジが、右手を差し出した。小さな、子供の手だ。
「黒の書の持ち主を野放しにはできん。監視の名目で、お前をワシに同行させる。今日からお前は——ワシの見習いじゃ」
「……それって」
「合格とは言うておらん。勘違いするなよ、小僧。お前はまだ何一つ証明しておらんから禁書回収者ではないからな」
トウジがその手を掴んで立ちあがった。
「——ありがとうございます」
「……いつまで握ってるんじゃ! 離せ」
「ついて行きます。どこまでも」
「だから離せと言うておるじゃろうが」
マシロが二人のやり取りを見て、涙を拭いて、そして笑った。
「お兄ちゃん。行ってらっしゃい」
「……マシロ」
「必ず戻ってきてね。立派な禁書回収者になるんだよ、お兄」
トウジは頷いた。強く、深く。
「ああ。約束する」
夜明けが近い。東の空が、うっすらと白んでいる。
文倉トウジ、十七歳。
禁書回収者見習い。その手に握られた一冊は——世界に破滅をもたらすとされる禁書中の禁書、黒の書。
これが、この少年の物語の始まりだった。
───
村から二つの影が遠ざかっていく。
「大きいのと、小さいの。えーと、名前は何て言ったかな。ハイジとトウジだっけかな」
二人は言い争いながら、朝焼けの道を歩いていく。
誰もいなくなった図書館の前。
瓦礫の上に一つの影が、ぽつりと現れた。
それは目隠しをした少女。その少女は、身体の輪郭が時折ノイズのように揺らいでいる。まるでこの世界に完全には存在していないかのように。
「だめじゃないか、トウジ君」
その少女が、破壊された封印の柱を蹴った。
蹴られた瓦礫は、物理法則を無視して——デジタルの塵のように粒子状に分解されて消えた。
「君は、禁書回収者と関わっちゃ駄目って決まってるのになぁ」
少女が首を傾げる。楽しげだが、目は笑っていない。
「全く、『調和違反』もほどほどにしてほしいもんだぜ。第一話からシナリオ改変なんて」
少女は、手元の分厚い手帳に赤いインクで何かを書き込んでいた。ページを捲る音だけが静寂に響く。
ふと。
少女が——《《こちら》》を見た。
あなたのいるこちら側を。
「あれれ?」
少女がにっと笑う。
「君、なんでこっちを見てるんだい?」
指がパチンと鳴った。
「——ここから先は、のぞき見厳禁だぜ」
視界が黒く塗りつぶされる。真っ黒なのインクのように——。




