第9話 身体が先に、
杏珠は、自分の呼吸の音がうるさいことに気づいていた。
吸うたびに浅く、吐くたびに熱を含む。
胡桃は、何もしていない。
ただ、目の前に立っているだけだ。
それなのに――
胸の奥が、じわじわと熱を持ちはじめる。
(おかしい……)
脈が速い。
耳の奥で、どく、どく、と音がする。
胡桃が、ゆっくり瞬きをする。
そのたびに、杏珠の喉が勝手に鳴る。
「……杏珠さん」
名前を呼ばれただけで、
肺がうまく膨らまなくなる。
「呼吸……乱れてる」
胡桃の声は低く、観察するみたいだった。
「だ、大丈夫……」
大丈夫じゃない。
胸が、重い。
押しつぶされるみたいに。
胡桃は一歩も動かない。
なのに、杏珠の体温は確実に上がっていく。
背中に、じんわり汗が滲む。
指先が、ひどく冷たい。
(近づいてないのに……)
胡桃の視線が、杏珠の喉元に落ちる。
「……脈、速い」
杏珠は思わず、喉に手を当てた。
その動作すら、胡桃は見逃さない。
「そこ。
触れると、もっとわかるよ」
胡桃はそう言うけれど、触れない。
触れないからこそ、
杏珠の神経はそこに集中してしまう。
どく、どく、どく。
自分の身体の音が、
胡桃に聞こえてしまいそうで怖い。
「……見ないで」
「見てるよ。
だって、杏珠さんの身体が……
私に反応してる」
その言葉で、胸の奥がぎゅっと縮む。
否定したいのに、
息が追いつかない。
胡桃が、ほんの少しだけ顔を近づける。
その瞬間――
杏珠の呼吸が止まった。
酸素が足りない。
頭が、ふわっとする。
「ほら……」
胡桃は囁く。
「今、息するの忘れた」
杏珠は、ゆっくりと息を吸おうとする。
でも、うまくできない。
肺が、胡桃の存在でいっぱいだ。
「……杏珠さん」
声が近い。
熱が、近い。
触れていないのに、
皮膚の内側が、じくじくと熱を持つ。
「体、熱いでしょ」
胡桃の指が、空気越しに杏珠の腕のラインをなぞる。
触れない。
でも、なぞられた“気がする”。
杏珠の腕に、鳥肌が立つ。
「……やめ……」
声が、かすれていた。
胡桃は、ようやく気づいたように目を細める。
「声、震えてる。
喉も、胸も……全部」
杏珠は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、暴れている。
「……変なの。
触られてないのに……」
「触れられてるよ」
胡桃は静かに言う。
「私に、見られてる」
その言葉で、
杏珠の体が、すとんと納得してしまう。
そうだ。
これは“触れられる前”の反応。
期待。
恐怖。
欲。
それらが混ざって、
身体だけが正直になる。
胡桃は、杏珠の額に自分の額を預けた。
ひんやりとした皮膚。
その対比で、杏珠の内側の熱が、より強く自覚される。
「ね……」
胡桃が囁く。
「今、触れたら……
杏珠さん、耐えられない」
杏珠は、返事をしなかった。
できなかった。
代わりに、
胡桃の服の裾を、無意識に掴んでいた。
その瞬間、
胡桃の呼吸も、少しだけ乱れる。
初めて。
「……ほら」
胡桃の声が、わずかに低くなる。
「私も、反応してる」
二人の呼吸が、
同じ速さになっていく。
触れていないのに、
身体はもう、絡み合っていた。
杏珠は理解する。
(もう……この子の前じゃ、
身体をごまかせない)
依存は、心より先に、
身体に刻まれてしまったのだと。




