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第8話 欲しいのに言えなくて

杏珠は、自分の呼吸が乱れていることに気づいていた。

胡桃に触れられているわけじゃない。

けれど――触れられる前の時間が、いちばん危険だった。


胡桃は、あえて距離を取っていた。

半歩分。

その半歩が、杏珠の神経を削る。


「……杏珠さん」


呼ばれただけで、身体が反応してしまう。

声が、喉の奥に引っかかる。


胡桃は杏珠を見つめる。

獲物を見る目ではない。

祈るようで、縋るようで、それでも欲を隠しきれない目。


(だめだ、そんな目で見ないで)


杏珠はそう思うのに、

同時に、その目でしか見られたくないと思ってしまう。


胡桃が一歩、近づく。


触れない。

でも、杏珠の胸の奥がざわつく。


「杏珠さんってさ……

触れられる前から、もう……全部、許してるよね」


その言葉に、心臓が跳ねる。


「なに、言って……」


「拒む言葉を選ぶ前に、

“どう触れられるか”を考えてる顔してる」


胡桃の声は静かで、残酷なほど優しい。


「……違う」


否定は、弱々しかった。


胡桃は首を傾ける。


「じゃあ、どうして……

私が近づくと、そんなに息が浅くなるの?」


杏珠は答えられない。

だって、それは――


(欲しい、って思ってるから)


夫を失ってから、

欲望なんて、死んだと思っていた。


誰かに触れられたい気持ちも、

抱きしめたい衝動も、

すべて「もう終わったもの」だと信じていた。


なのに。


胡桃がいるだけで、

視線を落とされるだけで、

名前を呼ばれるだけで、

身体が思い出してしまう。


生きていることを。


胡桃は、杏珠の指先を見つめる。


「……ねぇ。

その手、ずっと握りしめてるけど……

誰に触れたいの?」


杏珠は、ゆっくりと指を開いた。

無意識だった。


「……胡桃、やめて」


「やめたら……杏珠さん、壊れるでしょ」


胡桃はそう言って、

初めて、杏珠の指先に触れた。


ほんの一瞬。

でも、その一瞬が、長すぎた。


「っ……」


杏珠の喉から、小さな声が漏れる。


触れ方は、恋人よりも慎重で、

親よりも親密だった。


「ね……

こうしてるとさ、私……

杏珠さんの中に入り込めた気がする」


その言葉に、背筋が震える。


侵入。

でも、拒絶できない侵入。


「……胡桃……」


「杏珠さん」


胡桃は杏珠の額に、自分の額をそっと預けた。

唇が触れそうで、触れない距離。


「私ね、杏珠さんの“迷い”がいちばん好き」


「……どうして」


「だって、迷ってるってことは……

もう、私を欲しがってる証拠だから」


杏珠は、目を閉じた。


逃げたい。

でも、逃げたくない。


母性でも、恋でも、

名前なんてもうどうでもよかった。


ただ――


(この子に、選ばれていたい)


胡桃の指が、杏珠の手首を包む。


「大丈夫。

まだ、最後までは触れない」


囁きが甘い。


「でもね……

“欲しい”って気持ちだけは、

一緒に堕ちよう?」


杏珠は、抵抗をやめてしまった。


ゆっくりと、胡桃の肩に額を預ける。


「……ずるいよ」


「知ってる」


胡桃は微笑んだ。

勝ちを確信した、静かな笑みだった。


二人の距離は、もう測れない。

触れていないのに、

心は深く絡み合っている。

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