第6話 指先にキスを
海からの湿った風がカフェの窓を揺らし、夜の店内は二人の呼吸音だけで満たされていた。
胡桃は閉店後のカウンターに座り、杏珠のエプロンの紐を指で弄んでいる。
「ねぇ杏珠さん……どうして避けるの?」
低く甘えた声。
杏珠は振り返れない。振り返ったら、限界を越えてしまうと知っていた。
「胡桃、今日は距離が近すぎるの。あなたはまだ――」
「十九歳だよ。女だよ。もう子どもじゃない。」
胡桃がそっと杏珠の腰に腕をまわす。
その抱き寄せ方が、亡き夫の癖とまったく同じで、杏珠の心は一瞬で乱れた。
「……それ、旦那さんの癖なんでしょ?」
「どうして……」
「わかるよ。だって……ずっと見てるもん。あなたが私を見るとき、誰を見てるか。」
胡桃の指が杏珠の頬に触れる。
触れ方は優しいのに、背後に“奪いたい”衝動が滲んでいた。
「私ね……杏珠さんに触れられると、全部溶けるの。壊れてもいいって思うの。」
「そんなこと言わないで……胡桃を壊すつもりなんて――」
「壊されたっていいよ。だって……もう杏珠さんなしじゃ生きられないから。」
杏珠の胸が痛む。
母性と禁忌の境界線の上で、胡桃の言葉は甘く、危険で、美しかった。
「……胡桃、あなたは私を愛してるの?」
杏珠が震える声で問うと、胡桃は迷いもなく答えた。
「愛してる。恋してる。奪いたいくらいに。」
そして唇が触れそうな距離で囁く。
「……ねぇ、杏珠さん。どうして逃げるの?
私が“旦那さんの生まれ変わり”だから?
それとも……“女の子”だから?」
杏珠は答えられない。
心が、体が、胡桃に傾く自分を認めることが怖かった。
胡桃は杏珠の手を取り、その指先にそっとキスを落とす。
「大丈夫。私、逃げないよ。
たとえ、杏珠さんが私を拒んでも――
ずっと、ここにいる。」
その瞳は、愛と執着と孤独が溶け合った深い闇。
杏珠は息を呑んだ。
この子は私を救うのか、壊すのか。
それとも……私がこの子を壊すのか。
夜のカフェに、危うい静寂が沈んだ。




