第3話 声にできない本音
夜、杏珠の部屋。
海の匂いがまだ髪に残ったまま、玄関の灯りだけが薄く灯っている。
ドアを開けると、胡桃は少し震えながら立っていた。
寒さではなく、期待と不安の入り混じった震え。
「……ほんとに来ちゃった」
「来ていいって言ったの、杏珠さんでしょ?」
胡桃は微笑みながら、靴を脱ぐでもなく、
杏珠の胸元に額をそっと押し当てる。
甘えるわけでも、泣くわけでもない。
ただ――触れていたい、という強い意思だけ。
杏珠はそっと肩を抱いた。
「……怖くなかった? こんな時間」
「怖いのは外じゃなくて、杏珠さんがいなくなること」
その答えに、胸が強く締めつけられる。
胡桃は顔を上げ、
手のひらで杏珠の頬を包みこんだ。
指先が熱い。
その熱が杏珠の皮膚をゆっくり溶かしていくようだった。
「ねぇ……どうしてそんな優しい顔するの?」
「胡桃ちゃんが、不安そうだったから」
「そういうとこ……ほんとにずるい」
胡桃は杏珠の唇すれすれまで顔を寄せる。
触れない。
触れないのに、杏珠の心臓が重い音を立てる。
「こうすると、誰か思い出す?」
杏珠は一瞬で呼吸を失った。
胡桃のその角度――目の下の影――
亡くなった夫と重なって見えた。
「……どうしてそんなこと訊くの?」
震えた声で問うと、胡桃は杏珠の胸に指を滑らせる。
恋人の触れ方。
けれど、もっと深い。
「だって……杏珠さん、昨日ずっと“悲しい人の目”してた」
「そんな目だった?」
「うん。
わたし以外の誰かを思ってるみたいで、悔しくて……」
胡桃の声が少しだけ震える。
嫉妬と独占の混ざった震え。
杏珠は、胡桃の肩をそっと抱いた。
抱き寄せたつもりが、逆に抱きしめられてしまう。
「……胡桃ちゃん、苦しい思いさせてごめん」
胡桃は杏珠の胸に口元を寄せ、囁く。
「ねぇ杏珠さん。
わたし……前にもあなたのこと、抱きしめた気がする」
杏珠の背筋が冷たくなる。
「ずっと前ね。
名前も、顔も違うのに……
あなたをひとりにしたくない気持ちだけ残ってるみたい」
夫の面影。
声の響き。
飾らない言い方。
杏珠の喉が熱くなる。
「胡桃ちゃん……それって、まるで」
胡桃は杏珠の胸元をつかみ、少しだけ引き寄せた。
目が真っ直ぐで、逃げ道を作らない。
「生まれ変わりって言ったら重い?」
杏珠は息を呑んだまま、言葉を失う。
胡桃は続けた。
「もしわたしが、杏珠さんの大切な人の“続き”だったら……
嫌?」
杏珠の目が熱くなる。
悲しさでも、喜びでもない。
救われるような痛みだった。
「……嫌じゃない。
むしろ、少し……怖いくらいに、嬉しい」
胡桃は安堵の息を吐き、杏珠の首元に手を回した。
「じゃあ……ねぇ、ちょっとだけ近くにいさせて?」
杏珠は小さく頷いた。
その瞬間、胡桃は杏珠の肩に唇を寄せた。
キスではない。
ただ触れるだけ。
それでも、全身が熱を持つ。
「杏珠さん……
お願い、わたしから離れないで」
杏珠は胡桃の背に腕を回し、そっと抱きしめた。
「離れないよ。
今は、もう……」
胡桃はその言葉に震えた声で応える。
「……じゃあ、眠るまで隣にいて」
二人はそのまま玄関の灯りの下、
呼吸を合わせるように抱き合った。
夜の海の音より静かに。




