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第11話 壊れていく場所

胡桃が「ここに住む」と決めた夜。

杏珠は心に張っていた薄い膜が音を立てて破れるのを感じていた。

寂しいはずの部屋が、胡桃の足音ひとつで満たされる。

食器棚を開ける音、シャワーの水が流れる音、

それらが全部、当たり前になる。

——当たり前になってはいけないのに。

胡桃はタオルで髪を拭きながら現れた。

濡れた前髪から一滴が頬を伝い落ちる。

杏珠の視線に気づくと、その雫を指で拭って微笑んだ。

「そんな顔しないでよ。

追い出された子犬みたいな顔。」

「……違う」

杏珠は目を逸らす。

胸が、ずきりと痛む。

本当はわかっている。

胡桃がそばにいると、

自分は誰よりも醜く、弱くなる。

胡桃は杏珠に近づき、

彼女の背中に腕を回した。

「怖いの?私がここにいるの」

杏珠は少し呼吸が乱れた。

「怖いのは……

胡桃ちゃんがいない場所で生きる未来のほうだよ」

胡桃の腕がびくりと震えた。

言葉の意味を理解してしまったから。

「……ごめん、嬉しい」

胡桃は杏珠の肩に頬を押し当てる。

呼吸が混ざる。

その近さが、依存の形。

「杏珠さん」

囁きは、か細いのに震えるほど真っ直ぐだった。

「私……こんな幸せ信じていいの?

いつも奪われてばかりだったから。」

それを聞いた瞬間、

杏珠は彼女を抱きしめ返していた。

「信じて。

胡桃ちゃんはここにいていい。」

胡桃は杏珠の心臓の上に手を置く。

「杏珠さんのここ……

わたしが安心できる音してる。」

杏珠の胸が熱を帯びる。

嘘や遠慮ではない言葉。

欲と愛情の境界線。

「……ずるいね、胡桃ちゃん」

「杏珠さんが教えてくれたんだよ。

好きになっていいって。」

「言ってない」

「言ってる」

胡桃は杏珠の顔を両手で支えた。

「ここに住んでって言うの、

恋人にしか言わないでしょ?」

杏珠の心臓が跳ねる。

それを見て、胡桃は満足そうに目を細める。

「答えはもう出てる」

杏珠は視線を伏せたまま、

逃げる場所を探していた。

でも——

指を絡め取られた瞬間、

その逃げ道は消える。

「杏珠さん。

今日から私たち、ひとつの家族だよ。」

その言葉は優しく、残酷だった。

家族という名の檻。

檻という名の救い。

杏珠はそっと目を閉じた。

「……おやすみ、胡桃ちゃん」

「おやすみ。

ちゃんと隣にいるから。」

ベッドが沈む気配。

シーツ越しの体温。

鼓動と鼓動が、ゆっくり同じリズムになっていく。

杏珠はすぐに眠れなかった。

胡桃が隣にいると、呼吸が落ち着きすぎてしまう。

逆に眠るのが惜しくなるほどに。

(明日も、その先も、

この温度で眠れるのかな。)

期待と恐怖が同じ熱になって、

杏珠は静かに目を閉じた。

壊れていく。

でも、幸福の形で。

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