悪役令嬢の前日譚
王立学園の石造りの高い壁は、数世紀にわたり、この国の最高位の貴族の子弟たちだけを迎え入れてきた「聖域」だった。しかし、その聖域は今、初めての大きな変化を迎えようとしていた。
セシリア・フォスター公爵令嬢は、学園の正門を見下ろす北棟の窓辺に立っていた。深い群青色のローブを纏ったその姿は、一分の隙もなく完璧だった。窓の外は、十月にしては珍しく澄んだ青空が広がり、石壁に刻まれた数百年の歴史を鮮やかに照らしていたが、セシリアの心には一点の曇りもない、冷たい冬の朝のような静寂があった。彼女の視線の先には、新しい波――平民の入学者たち――が、畏れと希望を抱きながら、緊張した面持ちで列をなしている。
「下級貴族とのパイプ? 面倒なことだわ」
セシリアの口元に浮かぶのは、賛同でも拒絶でもない、冷たい計算の笑みだった。貴族の社交とは、元より複雑な綱引きと虚飾の応酬だ。そこに金を持った商人や、出自のない平民を混ぜるなど、火薬庫に火種を投げ込むようなものだと、彼女は冷静に分析していた。
フォスター公爵家は、この国の王家に次ぐ権勢を誇る家門であり、セシリアは次期王太子妃の座を確約された者。幼い頃から、「完璧であること」を宿命として生き、そのために血の滲むような努力を続けてきた。彼女の人生は、常に「義務」と「品格」という名の分厚いマニュアルに沿って組み立てられていた。
彼女の不満は、ただの「不純物」が混じることだけではなかった。その「不純物」の中に、ひときわ異彩を放つ存在がいたからだ。 彼女の視線が、新入生の列の一点で止まった。
ソフィア・エヴァンス。
寒村の生まれでありながら、その手から湧き出るという「慈愛の光」で、平民初の聖女として認定された少女。彼女もまた、この学園に特別枠で招かれていた。
ソフィアが身に着けているのは、教会の威光を借りて新調された上等な服だろう。しかし、セシリアの訓練された目から見れば、その服はソフィアの素朴な体に馴染んでいない。まるで借りてきた衣裳のように。だが、彼女の佇まいは、周囲の貴族の冷たい視線を受け付けないかのように、穏やかで慈愛に満ちていた。その瞳は、濁りのない泉のように周囲を映し、貴族たちの硬質な視線を、いとも簡単に弾き返していた。
「慈愛と博愛を体現したような少女」——それは、セシリアが幼い頃から、どれほど努力し、完璧に演じようと務めても、本質的には手に入れることができなかった、王太子妃に求められる「理想の資質」そのものだった。
(あのようなものが、なぜ、何の努力もなしに、わたくしが命懸けで守ろうとしている王子の隣に立つ資格を持つと言われるのか)
セシリアは、貴族の義務として、人前では決して見せない感情を胸の奥底に押し込めた。彼女の「完璧さ」は、彼女自身の生まれ持った血筋ではなく、血を吐くような努力で積み上げられたものだ。貴族社会とは、努力と階級のルールで守られた、自分だけの庭だった。ソフィアは、その庭に、ルールも努力も関係なく、ただ「天性のもの」だけで踏み込もうとしている。
その瞬間、セシリアの心に、これまで完璧に抑え込んできた「不公平感」という名の、小さな毒が注入された。その毒は、彼女の冷徹な理性で濾過されることなく、直接、胸の奥深くを蝕んだ。
学園生活が始まると、貴族と平民の間の溝は、教育カリキュラムの中でも明確に浮き彫りになった。
セシリアにとって、知識や礼儀作法は呼吸と同じだったが、護身術としての棍術は、肉体的努力の結晶だった。彼女は幼少から父のスパルタ教育を受け、その全てにおいて、常に学年トップクラスの実力を維持してきた。
ある日の棍術の合同訓練。ソフィアは、ぎこちなく木製の棍棒を握り、貴族の生徒たちの冷ややかな視線を集めていた。訓練場の空気は、湿った土の匂いと、張り詰めた緊張で重く沈んでいた。
教官が、習得に数ヶ月を要する応用技の『風車払い』を実演した。
ソフィアは、ただじっと教官の動きを見ていた。そして、一度目を閉じると、ゆっくりと棍棒を構え、流れるような動作でそれを再現してみせた。風を切り裂く「ヒュッ」という音が、訓練場に響く。それは、見事に再現された『風車払い』だった。その動きには、力任せの剛さではなく、風に舞う木の葉のような、驚くほどのしなやかさがあった。
「素晴らしい! ソフィア君! 初めての経験とは思えない!」
教官の驚きと称賛の声が、セシリアの耳に突き刺さった。それは、長年磨き上げてきた鏡に、突如、ひびが入ったような、甲高い、不快な音だった。
(わたくしがその技を完璧にするために、どれほどの時間、手の皮を剥き、痣を作りながら努力したか。その血の滲むような努力が、この娘の『天性の勘』の前に、ものの数分で無価値になった)
セシリアは、喉の奥が張り付くような感覚を覚えた。舌の奥に、鉄錆のような苦みが広がった。彼女の積み重ねた「努力の鎧」が、ソフィアの「天性の光」によって、たやすく透過されてしまったのだ。
貴族たちは、ソフィアの才能に驚愕したが、同時に不満を募らせた。
しかし、誰もが表立ってソフィアを貶めることはできない。彼女は『聖女』であり、その背後には教会の絶大な威光と、平民を歓迎する王家の方針があるからだ。彼女に不当な扱いをすれば、それは「教会への侮辱」と見なされかねない。
ソフィアは、そんな貴族たちの視線にも気づかないふりをして、朗らかに笑う。
「セシリア様! さすがですね。打ち込みがすごく綺麗で、力強いです。私、セシリア様の動きを参考にさせてもらいます!」
訓練後、ソフィアは屈託のない笑顔でセシリアに近づき、心からの称賛の言葉を投げかけた。その言葉の裏に、何の悪意も計算もないことをセシリアは理解した。だからこそ、その言葉は毒のようにセシリアの胸に突き刺さった。ソフィアの純粋な称賛は、セシリアの完璧な努力を「目標」ではなく、あくまで「お手本」という一段低い位置に固定した。
(あなたの、その何の努力も経ていない才能の前では、わたくしの全ては、ただの「綺麗なお遊戯」に過ぎないというの?)
セシリアは、貴族のプライドを完璧に保ったまま、冷たく答えた。
「参考になさるならどうぞ。ですが、天性の才に溺れて、基礎をおろそかにしないようになさって」
そう言い放ったセシリアの周りから、貴族たちも静かに遠ざかっていった。彼らはソフィアの才能に嫉妬しているが、威光を恐れて対立しない。結果、ソフィアに冷たい態度を取り続けるセシリアが、学園の中で徐々に「孤高」という名の孤立を深めていくことになる。冷たい風が、セシリアのローブの裾を僅かに揺らした。彼女は、自ら選んだその冷たい孤立の中に、かえって安堵を覚えていた。他人の計算に晒されない、安全な場所。
学園生活が進むにつれ、派閥の線引きは鮮明になった。
ソフィアの周りは、純粋な「憧れの集合体」だった。笑い声が絶えず、背景を詮索しない「平等」という心地よい幻想が満ちていた。そこだけが、学園の古めかしい石壁とは無縁の、柔らかな光に包まれた別世界のように見えた。
一方、セシリア派は、外面こそ華やかだが、その内実は打算と欲と、家の方針に塗れた魔窟だった。彼女たちは、セシリアの地位を崇拝し、同時にその座を虎視眈々と狙っていた。セシリア自身、誰が本当に忠実で、誰が計算高いのかを見極め、冷徹に振る舞うことを強要されていた。
(わたくしの周りには、誰もわたくし自身を見ていない。見ているのは、フォスター公爵家という「看板」だけだ)
ある日、セシリアが図書室で資料整理をしていると、向かいの中庭からソフィア派の楽しげな笑い声が聞こえてきた。図書室の分厚いガラス窓が、その音をわずかに、遠い幻聴のように歪めていた。セシリアは、ガラス窓越しに、その自由で楽しげな空気を、どこか羨むような、渇望するような視線で追ってしまった。
その時、彼女は気づいた。自分と同じように、ガラス窓越しにソフィア派を見つめているもう一人の人物がいることに。
それは、彼女の婚約者であり、この国の次期国王——アルフォンス王太子だった。
アルフォンス王太子は、セシリアと同様、孤独の中で育った。王位継承者という重圧は、彼から友人や自由な感情を持つ機会を奪い去った。
彼の隣には常にセシリアがいた。彼女は完璧な婚約者だった。しかし、セシリアの完璧さは、アルフォンス自身の孤独な努力の鏡でもあった。彼女といる時、彼は安らぎではなく、互いの義務を確認し合う重圧を感じていた。
だが、ソフィアは違った。ソフィアの周りにある、素朴で飾り気のない笑い。天性の才能を持ちながらも、それを鼻にかけることなく、純粋に周囲を照らす光。それは、アルフォンスが持つことが許されなかった、「温かい、普通の学園生活」そのものの体現だった。
彼の瞳は、セシリアの目にはっきりと映るほど、強い憧れを宿していた。王太子としての義務から解放された、一人の少年としての無垢な渇望。それは、まるで遠い夜空に輝く星を見上げるような、触れられないものへの強い願いだった。
セシリアの胸の奥で、嫉妬ではない、より複雑な、そして決定的な感情が芽生える。それは、自身が努力と犠牲を払って守ってきた全てが、王太子にとってさえも「重荷」であり、「憧れの対象」ではないという、残酷な事実の認識だった。
完璧な婚約者としてではなく、一人の女性として、彼女は王太子に選ばれなかったのかもしれない。セシリアの心に、「失われた愛情」と、それを奪い去ろうとしている「天性の光」への、凍てつく憎悪が固まり始めた。胸の奥に出来たその憎悪の塊は、触れるものすべてを砕き、凍らせるような冷たさだった。
王太子の関心は、無意識のうちにソフィアを追いかけていた。それは、初めて恋をする少年のような、まっすぐで、しかし隠しきれない熱情だった。
セシリアは、その様子を見て、初めて貴族社会のレトリックではない、生々しい「女の嫉妬」を覚えた。その嫉妬は、公爵令嬢としての品格の甲冑を突き破り、彼女の剥き出しの心臓を鷲掴みにした。
数日後、公務を兼ねた二人きりの食事会が持たれた。セシリアが準備してきた緻密な提言を、王太子は上の空で頷くだけだった。しかし、ソフィアの話題に触れた瞬間、彼の目は輝きを取り戻した。ディナーの銀食器が、王太子の顔の横で冷たく輝いた。セシリアの完璧な笑顔は、テーブルに置かれた冷えた薔薇のように、微動だにしなかった。
「ソフィアは本当に素晴らしいな。剣術もそうだ。セシリア、君が時間をかけて習得したあの難度の高い技を、彼女はすぐにものにしてしまった。まるで天から与えられた『才能の塊』だ。私は、あんなにも純粋に輝く人間を初めて見たよ」
彼の口から出てくるのは、ソフィアを称賛する言葉ばかり。それは、セシリアが長年かけて築き上げた「完璧さ」と「努力」を、根底から否定する言葉だった。
(あなたの隣で、完璧を演じるために、どれほど孤独に耐えてきたか。あなたが、私と国の未来について議論すべきこの場で、なぜ、あの娘の雑多な功績ばかりを語るの!?)
食事会は、セシリアの完璧な平静の中で、無事に終わった。しかし、護衛を伴った馬車に一人乗り込んだ瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
馬車の重厚なカーテンが閉ざされた暗闇の中、セシリアは無様に涙を流し始めた。馬車の外では、夜風が吹き荒れ、御者の手綱が鞭のように空を切る音が、セシリアの苦しい呼吸音に混じった。
「なぜ……? なぜ、わたくしを見てくださらないの……?」
嗚咽が喉を締め付け、呼吸すら困難になる。彼女は自分の胸を強く掴み、その苦しみの正体に名前を付けようと必死だった。これは、彼女が学んだどの教科書にも記されていなかった、純粋で、狂気に近い嫉妬だった。
セシリアは声を殺して泣き続けた。完璧な令嬢としての全てを捨てて、一人の少女として泣いた。
この夜、馬車の窓の向こうの暗闇は、彼女の心の闇を映し出していた。彼女の心に、「ソフィアという光を消さなければ、自分の全てが闇に葬られる」という、冷たい確信が刻まれた。その確信は、涙の熱で溶けることなく、彼女の心臓の最も冷たい場所に、氷の刃となって研ぎ澄まされた。
*
号泣した翌日、セシリアの目には腫れが残っていたが、顔には再び鉄の仮面が戻っていた。仮面の下で、昨夜の涙の跡は乾き、皮膚はひび割れた大地のように硬く張り詰めていた。彼女はフォスター公爵邸の執務室で、父である公爵に呼び出された。
公爵は、一切の感情を排した声で、冷徹な事実を娘に突きつけた。
「セシリア。お前の婚約者としての地位が、危うくなっている」
公爵は、教会、そして一部の新興貴族や商人の後ろ盾を持つ勢力が、聖女ソフィアを王太子妃、あるいは王太子の正妻として迎え入れようと画策していることを告げた。彼らは、ソフィアの持つ「平民の人気」と「教会の威光」を、王家に取り込ませることで、自らの権益を確保しようとしている。
「王家は国を安定させるため、その力を取り込みたがっている。そして、殿下自身も、あの娘に目を奪われている。それは愚かだが、事実だ」
公爵は、セシリアが幼少から受けてきた教育の費用、フォスター家が王家との関係維持に投じた巨額の資金と労力を記した書類を娘の前に滑らせた。書類には、フォスター家の何百年にもわたる歴史が、冷たい数字と文字の羅列として重くのしかかっていた。
「お前に与えるミッションは一つだ。殿下の心をつなぎとめること。殿下に、お前こそが最も価値ある婚約者だと、肌で理解させるのだ。それが、お前がフォスター公爵家の血を引く者としての、ただ一つの義務だ」
セシリアは無言で頷いた。彼女の感情は既に凍り付いていた。執務室の窓の外、分厚い雲が太陽の光を遮り、部屋には常に陰が落ちていた。この瞬間、彼女と王太子の関係は、愛ではなく、家門存続のための「契約」として再定義された。彼女の努力は、愛のためではなく、義務とプライドのために捧げられる。彼女が欲しかった愛は、もはやこの世界には存在しないことを受け入れたのだ。
セシリアは、父の命令に従い、王太子との時間を作ろうと試みた。しかし、アルフォンス王太子は、公務や派閥の集まり、そして何よりもソフィアとの交友を理由に、セシリアの誘いを立て続けに断った。
王太子は、ソフィアと共に貧しい地区への慈善活動に参加したり、学園で平民の生徒たちと気軽に語らったりする時間が増えていた。それは、セシリアという完璧な婚約者との、冷徹で息苦しい時間とは正反対の、「心地よい自由」だったのだろう。
彼の態度は、セシリアへの愛情の減退を示す以上に、セシリアとの関係を「重い義務」と見なしていることを示していた。彼の瞳から、セシリアの存在は「王太子妃の椅子」でしかなくなっている。セシリアは、その残酷な事実に、心をさらに硬く閉ざした。
ある日の夕暮れ。セシリアは王太子に贈る予定だった公文書を届けに、彼の私室近くを訪れた。使用人たちの休憩所である、中庭の隅を通った時、壁の向こうから王太子と、彼の親しい友人である侯爵令息たちの声が聞こえてきた。夕焼けが学園の石壁を赤く染め、影を長く伸ばしていた。その美しい景色の裏側で、醜い感情が交わされていた。
内容は、すぐにセシリアへの陰口だと理解できた。
「……セシリア公爵令嬢は、完璧すぎて息が詰まる。あの女は、人間ではなく、王太子妃という名の彫像だ」
「ああ、わかる。彼女といると、全ての行動に意味と結果を求められるようで疲れる。彼女の頭の中は、政務と計算でできている」
笑い声が起こる。セシリアは、心臓が凍り付くのを感じた。一瞬、肺の中の空気が全て凍り、呼吸が止まった。これまで全身全霊をかけて演じてきた「完璧さ」が、彼にとっては「息苦しさ」でしかなかったという事実。
そして、王太子の、酔いが回ったような、しかし確信に満ちた声が響いた。
「だが、ソフィアは違う。彼女の光は、私の心を安らげる。彼女こそが、私が本当に求めていたものだ」
セシリアは、握りしめた公文書がぐしゃりと潰れる音を聞いた。紙の繊維が悲鳴を上げ、セシリアの耳に、自身の砕ける音として響いた。
「ただ、あの女は平民だ。王妃にはなれない……だが、構わない。私は、彼女を王妃ではなく、愛妾として宮廷に迎え入れるつもりだ。彼女の光を、私の手の届く範囲に置いておきたい」
愛妾。
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの頭の中で、昨日までの「嫉妬」も「義務」も、全てが粉々に砕け散った。彼女が命を削って守ろうとしていた「王太子妃」という地位は、殿下にとって、愛する者を迎え入れるための単なる「飾り台」でしかなかった。セシリアの人生全てが、ソフィアの光を飾るための冷たい石の台座に過ぎなかった。
セシリアは、顔から全ての血の気を引かせたまま、その場を後にした。彼女の完璧な努力は、「王太子妃の彫像」と嘲笑され、ソフィアの天性の光は、「愛妾」という形で、殿下の心を独占する。
この瞬間、セシリア・フォスターは、己の全てを捧げた世界に裏切られた。彼女の目標は、殿下の心をつなぎとめることから、殿下が求める全てを破壊することへと、静かに、しかし決定的に変貌した。彼女の胸の奥で、かつての傷が凍りつき、純粋な、冷たい氷の復讐心が形成された。
復讐へと舵を切ったセシリアは、ソフィアを陥れるための周到な計画を練りながら、同時に誰もが予期しない「戦略」を始めた。
(あの御方は、わたくしを『彫像』だと嘲笑した。ならば、わたくしは、その『彫像』を、誰よりも官能的な『肉』に変えて差し上げましょう)
セシリアは、公爵令嬢としての衣装の規律を破った。王太子と二人きりになる機会、特に私的な語らいの場では、デコルテを深く見せるドレスや、透ける素材のストールなど、これまでのセシリアなら決して選ばなかった、はしたないギリギリのラインを攻めた衣装を選んだ。
王太子の反応は、劇的だった。彼はセシリアを「彫像」だと評したが、その彫像が、突如として血の通った、手の届きそうな「女」へと変貌したのだ。これまで完璧に抑圧されていたセシリアの美貌と、公爵令嬢としての高貴さが持つ官能的な魅力は、彼の理性をたやすく吹き飛ばした。
王太子は、ソフィアへの「憧れ」と、セシリアへの「肉欲」という、二つの異なる感情に引き裂かれ、ソフィアの話を口にすることは減り、代わりにセシリアの部屋を訪れる回数が増えた。
ある夜、王太子は強い酒を飲み、セシリアを王宮の離れの応接室に呼び出した。
「セシリア。君と私は、既に国に誓い合ったのだ。私は今、君を、一人の女として求めている」
王太子は、婚前交渉への誘いを口にした。貴族社会、特に王族にとって許されない蛮行。しかし、彼がその禁を破ってまで自分を求めているという事実は、セシリアの歪んだ心に、わずかな勝利感をもたらした。その勝利は、彼女が長年渇望した「愛」の代わりとして、冷たく彼女を満足させた。
(これで、いい。これで、わたくしは殿下の『義務』と『欲』を握った。そして、ソフィアが持つ『愛』の幻想を、永遠に排除する材料が整った)
セシリアの口元に浮かんだのは、愛の微笑みではなく、獲物を追い詰めた悪役令嬢の、冷たく歪んだ微笑だった。
「……喜んで、アルフォンス殿下」
その言葉は、愛の告白ではなかった。「復讐」の計画が、最終段階に入ったという、静かな宣言だった。応接室のランプの光が、セシリアの瞳の奥で、鋭い刃のように瞬いた。
彼の野蛮な行為に血を流したセシリアの初体験。彼女は痛みを必死で隠しながら、日常を送っていた。しかし、その夜の記憶は、彼女の心の冷たさを一層深めた。肉体の痛みは、心の傷を隠すための、新たな鎧となった。
そんなとき、セシリアの異変に気づいたのは、彼女が最も憎むべき相手、ソフィア・エヴァンスだった。
ある日、人気の少ない庭園で、書類を読みながら微かに顔を顰めていたセシリアに、ソフィアはそっと近づいてきた。庭園の空気は、春先の穏やかな日差しに包まれ、花々の甘い香りが漂っていた。その温かい空気が、セシリアの周囲だけを避けているようだった。
「セシリア様。少し、お顔の色が優れませんね」
ソフィアは、セシリアの手を取り、掌から柔らかな治癒の光を湧き出させた。温かい、純粋な光は、セシリアの凍てついた心を貫いた。
「うっ……ううっ……」
セシリアは、突如として制御を失い、顔を伏せて嗚咽を漏らした。長期間の抑圧と、屈辱的な夜に耐え続けた、孤独と痛みから解き放たれた、意味のない涙だった。涙は、乾いた砂に落ちる水のように、セシリアの張り詰めた頬を伝った。
ソフィアは、セシリアの肩が震えているのを見て、ただ優しく、しかし確信に満ちた言葉を紡いだ。
「誰も、セシリア様に、完璧であることを永遠に強要していいわけじゃない。時には休んで、弱音を吐いて、誰かに頼ってもいいんですよ。ずっと頑張る必要はないんです」
セシリアは顔を上げることができなかった。ソフィアの言葉は、まるで彼女の過去の努力と、今の復讐心を否定する、甘い毒のようだった。もし、この優しさを受け入れてしまえば、彼女の全ての努力と犠牲が無意味になってしまう。
セシリアは、涙の残る顔を拭い、再び鉄の仮面を被った。その仮面は、涙の塩分で、わずかに光沢を増していた。
「お戯れを。わたくしは、自分の義務を果たしているだけ。あなたのような、何の責任も知らない平民とは違う」
そう突き放し、セシリアは立ち去った。ソフィアの優しさは、彼女の心の奥深くにあった「善性」を揺さぶったが、それは同時に、セシリアに「この光を受け入れたら、私は破滅する」という強い危機感を抱かせた。
ソフィアの光は、セシリアにとって、最も危険で、最も排除しなければならないものへと変わった瞬間だった。セシリアは、庭園の明るさから離れ、冷たい建物の影の中へと、急速に姿を消した。
*
ソフィアの優しさを振り払った後、セシリアはソフィアが教会関係者から陰湿ないじめを受けていることを知った。この情報は、セシリアにとって、ソフィア排除計画の格好の「火種」だった。セシリアの胸の氷の塊は、その情報によって火力を得た。
その日の夜、セシリアはアルフォンス王太子に呼ばれた。しかし、二人の夜は、前にも増して空虚だった。王太子はセシリアの体を求めながら、行為の最中、熱にうなされているように、違う女の話をした。
「ソフィアの……あの、恐れを知らない、まっすぐな瞳」
「ソフィアは……あんなにも純粋なのに、なぜ皆、彼女を傷つけようとするのだ」
彼の瞳には、セシリアへの愛の光はなく、あるのはただ、自らの満たされない憧れと、目の前の女の肌がもたらす「快楽」への渇望だけ。セシリアの胸にあった最後の「恋心」は、完全に凍り付いた。彼女の肌は熱を帯びていたが、心臓は脈動を止め、石のように冷たかった。王太子は、ただの「計画を遂行するための駒」でしかなかった。
行為が終わった後も、王太子はセシリアを抱きしめたまま、うわ言のようにソフィアへの憐憫を口にし、セシリアが用意していた避妊の薬を不機嫌そうに払い除けた。
「余計なことはするな。私は王族だ。子をなすことは、義務だ」
(彼は、わたくしの身体を使いながら、ソフィアを思い、その結果生まれるかもしれない子の責任すら、義務という言葉で片付けている。彼は、自分自身の快楽と、無責任な義務感にしか興味がない、子供だわ)
セシリアは、もはや王太子に対し憎しみではなく、冷めた優越感だけを抱いた。彼女は、ベッドの暗闇の中で、王太子の卑小さを見下ろしていた。
そして、ソフィアへの感情は、もはや「憎しみ」ではなく、奇妙な同情へと変わっていた。自分と同じ、あるいはそれ以上に、理不尽な運命と、自己中心的な男たちに振り回されている存在。
「哀れな、虫ね」
セシリアの口から出た言葉は、ソフィアを完全に「人間」として見ることをやめた、悪役令嬢としての冷たい優越感だった。
ある日、セシリアは学園の裏庭で、下級貴族の令嬢たちがソフィアに汚水を浴びせかけ、彼女を立派な噴水の水盤に押し倒している光景を目撃した。噴水から勢いよく吹き上がる水の音は、令嬢たちの甲高い笑い声に掻き消されていた。濡れて肌に張り付いたソフィアの「あられもない姿」に、アルフォンス王太子は、隠そうともしない発情の色を浮かべ、現場に駆けつけた。
王太子は令嬢たちを叱責し、ソフィアを抱き上げようとしたが、連れて行った離宮の一室で、彼はソフィアを押し倒さなかった。
「汚すな! ソフィアは、この醜い世界で唯一の、清らかな光なのだ!」
「ソフィア! 何をする、悪魔に近づいては危ない!」
王太子は、懺悔するかのようにソフィアの前に跪いた。
「済まなかった、ソフィア。私のような醜い者たちが、君のような可憐な女性に、ひどいことをするのを、私は守れずにいた」
彼の瞳は、純粋な憐憫と、自己嫌悪、そして愛惜の光に満ちていた。彼はソフィアを、清らかな光として、汚すことなく見送った。
その夜、セシリアは王宮で王太子と二人きりになった。王太子は荒れていた。酒を煽り、そしてセシリアを求めた。彼の行為は、昨日にも増して粗野で、早く終わらせたいという焦燥に満ちていた。
セシリアは、彼の荒い呼吸と、皮膚の熱を感じながら、静かに悟った。
(あの御方は……ソフィア様を『可憐な光』として大切にし、その後に生まれた抑えきれない肉欲を、わたくしという『彫像』にぶつけている)
ソフィアは、殿下が心から愛を傾ける「守るべき可憐な光」として大切にされた。セシリアは、殿下の愛のない発情と、自らの性欲を鎮めるための、「性処理の道具」として使われたのだ。
セシリアの心に、もはや痛みも悲しみもなかった。あるのは、「この茶番を終わらせる」という、鋼のような決意だけだった。その決意は、彼女の血液よりも冷たく、血管の中を流れていた。
セシリアのソフィア襲撃計画が幕を開けた。貴族令嬢を使い執拗にいじめたあと、セシリアはソフィアを誰もいない学園の廃墟へと呼び出した。廃墟の石壁は夜の冷気を吸い込み、月明かりが瓦礫の影を不気味に作り出していた。背中に短剣を隠し持ったまま、ソフィアを殺そうと近づいていく。
「あなたにしてきたことの、『結末』をつけに来たのよ、ソフィア」
セシリアがあと一歩で、隠し持った短剣を振り下ろせる距離に達した、その瞬間。ソフィアは、ふいに、はにかむような、小さな笑顔を見せた。
「セシリアさん」
彼女は、セシリアを「様」ではなく、「さん」と呼んだ。その声は、震えていながらも、どこか親愛と諦念が混じっていた。
「わたくし、怖いですよ。セシリアさんの、そういうお顔」
その瞬間、魔力による衝撃波がセシリアの手を打ち、短剣が弾き飛ばされた。短剣は、乾いた石畳に甲高い音を立てて落ちた。
「ようやく見つけたぞ。悪魔め」
背後から響いたのは、怒りに満ちた王太子の声だった。彼の隣には、彼の仲間たちと、いじめに加担した貴族令嬢たちが並んでいた。セシリアの計画は、逆に王太子派に利用され、「悪役令嬢による聖女への襲撃」という、最もドラマティックな形で露見させられたのだ。
「言い逃れは許さぬ、セシリア!」
王太子の言葉は、断罪の始まりだった。しかし、セシリアをかばったのは、ソフィア本人だった。
「殿下、わたくしはセシリア様を訴えません。彼女が苦しんでいたのは知っています。彼女の心は、ずっと、ずっと痛みに耐えていました」
ソフィアは、セシリアの悪意ではなく、彼女の「孤独」に、慈悲の手を差し伸べた。その慈悲の光は、セシリアの闇を優しく照らしたが、それは同時に、セシリアのプライドを粉砕した。この聖女による「慈悲」は、セシリアにとって最大の救済であると同時に、最大の屈辱だった。
セシリアは、ソフィアの背中を見つめながら、静かに、そして完全に、「悪役令嬢」として未来を生きることを決意した。
(わたくしの『孤独』を、勝手に憐れみ、貴族としての『義務』を否定した。その優しさが、どれほど残酷で、どれほどこの世界を歪ませているか。ソフィア・エヴァンス……わたくしは、あなたのその『慈愛』を、この手で完全に汚して差し上げましょう)
セシリアの心の中で、真の「悪役令嬢」が、憎しみに満ちた微笑みを浮かべながら、再誕したのだった。彼女の瞳は、廃墟の暗闇の中で、一対の冷たい宝石のように輝いていた。
*
物語は、華やかな王立学園のダンスパーティー会場で、終焉を迎えた。シャンデリアの光が、会場を埋め尽くす貴族たちの宝石と絹のドレスに反射し、眩いほどに輝いていた。
アルフォンス王太子はバルコニーに立ち、セシリアの悪行を全て暴露し、婚約破棄を宣言した。
「セシリア・フォスター公爵令嬢! お前の魂は、権力欲と憎悪に蝕まれている! よって、私はここに、お前との婚約を破棄する!」
そして、王太子はソフィアの手を取り、聴衆に向けて高々と掲げた。
「そして、私はここに、この国と国民に最も相応しい、慈愛に満ちたソフィア嬢を、正式な王太子妃として迎えることを宣言する!」
セシリアは、その光景を冷めた目で見つめていた。彼女の背後には、フォスター家の紋章が誇らしげに掲げられていたが、セシリア自身は、その紋章の重みから解放されていた。
(殿下は最後まで、『正義の主人公』の役割を選んだ。そして、ソフィアは、『慈愛に満ちたヒロイン』の役割。ならば、わたくしに与えられた役割は、ただ一つ)
セシリアの顔に浮かんだのは、全てを理解し、嘲笑するような、狂ったような笑みだった。その笑みは、完璧な仮面の下に隠されていた、純粋な狂気の解放だった。
「おほほほほ! 殿下、そしてソフィア様。素晴らしい舞台でしたわ!」
高らかな笑い声が会場に響き渡る。彼女はドレスの隠しポケットに回収していた短剣に、震えることなく手を伸ばした。
そして、その短剣を、自らの胸元、心臓がある場所に、強く突き立てた。
ズブッ、という鈍い音と、飛び散る鮮血。床に敷かれた純白の絨毯が、一瞬で、鮮烈な赤に染まった。セシリアは、驚愕に満ちた王太子とソフィアの顔を見つめ、血を吐きながら、最期の言葉を絞り出した。
「これで、いい。これが、悪役の、終わり方だもの」
彼女の体は、床に崩れ落ちた。その瞳は、狂気に満ちた笑みを残したまま、静かに光を失っていく。
(わたくしの『孤独』も、『愛のない夜』も、『復讐の計画』も、全て、このフィナーレのためだった。さあ、殿下。これで、あなた方の物語は『完璧』になったでしょう?)
セシリアが自ら幕を引いたことで、王太子の断罪は、「聖女を守った英雄の物語」として、永遠に語り継がれるだろう。しかし、彼女の最後の狂気と血の跡は、主人公たちの幸福という名の、最も甘美で、最も欺瞞に満ちた『物語』を完成させた、最大の犠牲となった。シャンデリアの光は、セシリアの冷たい遺体を照らし続け、彼女の最期の笑みが、その場にいるすべての者に、永遠に忘れられない幻影として焼き付いた。




