第87話:神宮寺麻里
――胸が焼けるようだった。
呼吸をしているだけで、心臓を握りつぶされるように痛い。
(私は……なんてことをしてしまったんだろう)
直也は、あの頃のままだった。
私が愛した時のまま――あまりにもピュアで、愚直なほどに誠実で、限界まで走ろうとする人だった。
何も変わっていなかった。
むしろ、その根幹の清さは年月を経て、ますます研ぎ澄まされていた。
それなのに私は。
自分の目で確かめようともせず。
耳で言葉を聞こうとすらせず。
ただ一瞬の光景を「裏切り」と決めつけ、怒りに任せて詰り、責め、彼を憎しみの対象にしてきた。
(全部……全部、私が間違っていたんだ)
悔恨が波のように押し寄せる。
胸の奥から堰を切ったようにあふれ出して、もう抑えきれなかった。
「……イーサン」
私は震える声で、彼に向き直った。
「私……全部、あなたに正直に話さなければなりません」
言葉が途切れ途切れになる。
けれど、吐き出さなければならなかった。
自分の罪を隠したままでは、一歩も前に進めない。
「私は……直也を愛していると言いながら……実際には何ひとつ理解していなかったんです。彼の心を、彼の誠実さを……信じもしなかった。勝手に思い込み、勝手に傷ついて、勝手に恨んで……」
嗚咽が声を歪める。
涙が視界を揺らし、頬を濡らす。
「……私は愚かでした。本当に愚かだった。直也を責める資格なんて、最初からなかったのに……!」
イーサンは黙って聞いていた。
その沈黙がかえって重くのしかかる。
だが逃げることは許されなかった。
「イーサン……あなたの言った通りです。直也は、真に信頼できる人物でした。その根底にあるのは、曇りひとつないノーブルな価値観……。彼はいつだって“世界を良くする”ことだけを見据えていて、何も間違っていなかった。間違っていたのは……私なんです」
言葉を絞り出すたびに、胸の奥で何かが崩れていく。
自分の愚かさを告白するたびに、心がえぐられる。
でも、それが当然の報いだった。
「だから……どうか、お願いします」
私は涙で濡れた手を握りしめ、必死に続けた。
「EGSを商用化に乗せるために必要な技術……AI TLSの開発と実用化。そのために、DeepFuture AIにぜひ協力してほしいのです。あの人が進めるプロジェクトのために。未来のために」
その願いを告げたあと、胸に重く沈んでいた最後の言葉を吐き出す時が来た。
「……でも……」
声が震え、喉が焼けるように痛む。
「こんな愚かな間違いを犯した私には……DeepFuture AIに残る資格はありません。信じるべき時に信じず、支えるべき時に支えられなかった私は……もう、この場所にいる資格など何一つないんです……!」
言い切った瞬間、膝が崩れそうになった。
涙が止めどなく溢れ、嗚咽が喉を突き上げる。
――もう、取り返しはつかない。
その絶望だけが、私の胸に残っていた。
涙に濡れた私の視界の中で、イーサンの声が低く響いた。
「それは違うぞ、麻里」
その言葉に、私は顔を上げた。
イーサンの瞳はいつもの冷徹な分析の光を帯びていたが、その奥には揺るぎない確信があった。
「君は直也をまっとうに支えた。……そう、当初の直也のプランなら、米国が本当にOKしたかは疑問だ」
「……え?」
信じられない気持ちで呟いた。
イーサンは腕を組み、短く頷いた。
「先程、直也本人からも連絡を受けた。米国政府は修正されたプランに沿って支援を決定したらしい。正式には来週発表されるようだが、もう既定路線だ」
動悸が大きくなる。
あの直也の途方もなく大きなプランが――本当に動いた?
「その修正案を作成するよう促したのは君だよ、麻里」
イーサンの声が、胸の奥に突き刺さった。
「確かに君の根底には、直也に対する感情的な要素があったかもしれない。だが君が主張したこと自体は、オレが直也に指摘したいと考えていた内容そのものだった」
息が詰まる。
愚かだと、邪魔をしただけだと、そう思い込んでいた自分に――「違う」と言い切られる。
「……イーサン……」
「EGSを商用化に乗せるために必要な技術……AI TLSの開発と実用化については、もちろん引き受ける」
彼の言葉は即断だった。
「こういうことはウチだけでやっても仕方がない。AACや、それこそGBCのような大手と一緒に進めても構わない。日本人が大好きな“共創”ってヤツさ」
私は息を呑んだ。
――DeepFuture AIだけでなく、AACやGBCまで。
それはつまり、世界規模の協力体制を築くということ。
イーサンは続ける。
「直也が凄いのはな……その根幹にあるのはノーブルな精神であっても、同時に戦略的に強かに考え、そして自分のプランに持っていけるところだ」
ノーブルでありながら、強か。
清廉さと現実的な利害調整が、矛盾なく同居する存在。
「しかもそれを“無償の善意”なんていう曖昧なものではなく、まっとうな範囲で、自分にとって――五井にとって意味がある形にして周囲を納得させる」
その一言に、私は深く打たれた。
私は直也を「理想ばかりで現実を見ない人間」だと思い込んでいた。
けれど違った。
理想と現実を両立させるからこそ、彼は周囲を動かせるのだ。
イーサンの表情がわずかに和らいだ。
「強欲なだけの奴ならいくらでもいる。無償の善意を唱える奴も山ほどいる。だが――直也は違う。あいつは、本当に強かだ。……本当にあいつが日本人なのか、オレにはそれが一番分からないくらいだ」
私はただ呆然と聞いていた。
イーサンの口から「頼もしい」と「手強い」が同時に語られるその矛盾。
けれど、それこそが直也の本質なのだと、痛いほど分かった。
そしてイーサンは、まっすぐに私を見つめて言った。
「君にやってもらいたい仕事がある。……多分、君にしかできない仕事だ」
その瞬間、涙で濡れた胸の奥に、強く熱い灯がともった。
「資格がない」と思っていた自分に――「君しかできない」と告げられる、その重さ。
私は、嗚咽をこらえながら、小さく頷いていた。




