第75話:立派な人(一ノ瀬保奈美)
――丘の上に吹く風は、少し冷たかった。
草の香りと、遠くで鳴く鳥の声。
どこか静謐で、それでいて、優しい空気に包まれていた。
透子さんのお墓は、なだらかな丘陵の一角にあった。
白い石に刻まれた名前の前で、直也さんはただ一人、黙って立っていた。
背筋を伸ばし、動かず、ただそこに佇む姿。
その横顔を見た瞬間、私は言葉を失った。
(直也さんに……こんな事があったなんて……)
隣で水樹さんのお父様が、静かに口を開いた。
「もしよろしければ、皆さんも透子の墓標に……どうぞ。
あの子は賑やかなのが好きでしたから」
頷くしかなかった。
私たちは一列になって、草を踏みしめながら丘を登っていく。
お母様が花を供え、お父様が手を合わせる。
その横で麻里さんが、小さく肩を震わせていた。
「……本当に……ごめんなさい」
絞り出すような声とともに、嗚咽が漏れた。
その姿を見て、胸が締め付けられる。
直也さんは、振り返りもせずに言った。
「もういいんだ。……もう全部終わったことだよ」
その声は静かで、でも深い影を背負っていた。
※※※
やがて水樹さんご夫妻が、直也さんに一枚のカードを差し出した。
「直也さん。……透子から、あなたに残したものです」
「亡くなる前、まだペンを握る力がある間に書くと言って、それを書いたんです。
――ずっとあなたにお渡ししたくて、それだけを願っていました」
受け取った直也さんは、膝をつき、震える指でカードを開いた。
そこには、お台場で撮影された写真――。
笑顔の透子さんが、直也さんの隣に寄り添って映っている。
写真の裏には、短いメッセージが残されていた。
《立派になって。信じている。》
風が吹いた。
カードが震え、直也さんの肩も震えた。
「……オレの母も、透子さんと同じ病気で亡くなったんです」
低い声で直也さんが語り始めた。
「オレが高校生の年の瀬でした。
亡くなる直前、母は……もう死を覚悟していたのに……オレに言ったんです」
涙を堪えるように、唇を噛む直也さん。
「『立派になって』……って。最後に、そう言われました」
彼は視線を落とし、墓標に向かって言葉を続ける。
「それからずっと考えてきました。
立派になるとは何か。
どうすれば立派になれるのか。
――でも、未だに答えは分からない。
ただ……世界を少しでも良くすることができればと……そう思って、至らないなりに、それでも必死にやってきたんです」
声が震え、膝に置かれた手が強く握りしめられる。
それでも直也さんは泣かなかった。
堪えに堪えて、必死に前を向こうとしていた。
私は、もう見ていられなかった。
胸が張り裂けそうで、ただ駆け寄っていた。
「……直也さん」
気づけば私は、彼の頭をそっと抱きしめていた。
肩に頬を寄せ、泣きながら、でも笑みを浮かべながら。
「大丈夫。……もう直也さんは立派だよ。
私はいつまでも、ずっとそばにいるから。
だからもう、一人で苦しまないで」
その瞬間、直也さんの肩が大きく震えた。
堪えていた涙が、静かに頬を伝って落ちていくのが分かった。
墓標の前で響く嗚咽。
水樹夫妻は目を閉じ、麻里さんは声を押し殺して泣いていた。
亜紀さんと玲奈さんも、それから秀介さんも美沙さんも、ただ静かに目元を押さえていた。
風が吹き抜け、木々の葉がざわめく。
その音がまるで、透子さんの笑顔の余韻のように聞こえた。
私は強く思った。
――この人を、絶対に支えていこう。
どんな過去も、どんな重荷も、抱えたまま生きる直也さんを。
抱きしめた腕に、力を込めた。
涙で霞む視界の中で、私は笑っていた。
(透子さん。そしてお母様。直也さんは、立派な人になりましたよ)
――そう、心から伝えたかった。




