第73話:新堂亜紀
――静かな建物の中を歩いていた。
ホスピス――そう説明を受けたとき、私は頭では理解していた。
けれど実際に足を踏み入れると、そこは病院とも施設とも違う、言葉にしづらい温もりに満ちていた。
廊下の両脇には、大きな窓から光が差し込む居室が並んでいる。
ベッドに横たわる人、その傍らに寄り添う家族。
静かな笑い声、穏やかな読書の声、ゆっくりと流れる音楽。
人生の最期を迎える場所であるはずなのに――そこには、不思議なほど柔らかな空気が漂っていた。
(……こうして“終わり”を迎えるのか)
私も日本の医療や介護施設を見学した経験はある。
だがここは違う。
生を削るのではなく、残りの時間を慈しむために存在している。
それが空気の隅々から伝わってきた。
そんな中で、直也の言葉が胸を反芻していた。
――「君が知りたがっている答えもあるかもしれない」
(答え……? どういう意味なの、直也くん)
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着きを失っていた。
けれど、隣を歩く彼の横顔は静かで、どこか遠い場所を見ているようだった。
※※※
「……ここが、私たちの娘、透子が亡くなった部屋です」
水樹さんのお父様の声に、私たちは立ち止まった。
落ち着いた木目の扉。
特別に許可をいただいたというその部屋へ、一行は静かに足を踏み入れる。
カーテンの向こうに広がるのは、なだらかな丘陵。
窓の外には金色の草原が風に揺れて、遠くまで柔らかな稜線を描いていた。
直也は何も言わず、その景色を見つめていた。
背筋を伸ばし、静かに佇む姿。
――でも、私には分かる。
その瞳の奥には、深い痛みと記憶が隠れている。
(……声をかけたい。何か言葉を届けたいのに……)
喉まで出かかった言葉は、結局、形にならなかった。
彼の沈黙を壊すのが怖かった。
「直也さん」
水樹さんのお母様が、やさしい声で言った。
「……あの丘の先に、透子が眠っています。後で行ってあげてください。こちらに墓標の場所を書いておきました」
その瞬間、胸の奥に冷たい衝撃が走った。
透子――その名は、ここに来て初めて耳にした。
でも、この部屋、この空気、この沈黙の意味。
直也にとって、その女性がかけがえのない存在だったのは明らかだった。
(透子さん……。あなたは直也くんにとって、どういう人だったの?)
視界がかすかに滲む。
けれど私は必死に瞬きを繰り返し、涙を落とすことだけは堪えた。
まだ分からない。
けれど――確かに分かる。
この出来事が、直也くんを形作った“何か”であるということだけは。
私は窓の外の丘を見つめながら、胸の奥でそう呟いていた。
――ホスピスのラウンジに通された。
広い窓からは、柔らかな陽光が差し込み、花の香りが漂っている。
ソファに腰かけた私たちに向かって、水樹さんご夫妻がゆっくりと語り始めた。
「日本のホスピスは、どうしても“医療の延長”という色合いが強いのです」
穏やかな口調で話すお父様。
「治療を続けながら、その合間に安らぎを与える。……ですが、ここアメリカでは考え方が異なります。終末期にある方々が、“生きる最期の時間”をどう過ごしたいかを第一に考えるのです」
お母様がやさしく微笑んだ。
「透子も、ここで過ごせて良かったと……そう言っていました。医療行為よりも、人としての尊厳を大事にしてくださったから、と」
私は黙って頷いた。
医療制度の枠組み、保険の仕組み、社会の受け止め方。
頭の中では冷静に整理できる。けれど――この空気の温かさは、数字や制度の比較だけでは語り尽くせない。
そのとき、直也が立ち上がった。
「……すみません。オレは透子さんの墓標に伺わせて頂きます。――しばらく、一人にさせてください」
一瞬、空気が揺れた。
彼の声は淡々としていたが、その奥には深いものが隠れていた。
「丘の墓標に……行ってきます」
視線を下げていた保奈美ちゃんが、はっと顔を上げた。
でも、その唇は震えただけで、結局言葉にはならなかった。
彼女ですら、何も言えなかったのだ。
直也は背を向け、ゆっくりと歩き出した。
窓の外、丘陵へと続く小道へ。
その背中は、普段の彼よりもずっと大きく、そしてどこか遠い存在に見えた。
私は胸の奥に重たいものを抱えながら、残された仲間と共に静かに座っていた。
アメリカと日本のホスピスの違い――。
その説明の余韻と、直也が一人で向かう丘の光景が、頭の中で重なり合っていく。
(……直也くん。あなたは、何を背負ってきたの? そして、私たちはどこまで、その答えを知ることができるの……?)
言葉にできない思いが、胸の奥に沈んでいった。




