第2話:宮本玲奈
会議室を出た瞬間、冷房の風が頬を撫でた。熱を帯びた議論の余韻がまだ体の奥に残っている。廊下には既に何人かの若手社員が集まっていて、ファイルを抱えながら小声でやり取りしていた。
「やっぱり一ノ瀬さんってすごいですね……」
その声が耳に入った。発したのは、新卒で入ったばかりの女性社員。目を輝かせながら、同僚に囁いている。口調は控えめにしているつもりなのだろうが、興奮は隠し切れていなかった。
——そうでしょうね。あの人は特別。議論の中心でなくても、気づけばみんなの目線を集めてしまう。
私は歩を緩めずに通り過ぎようとした。だが、胸の奥がわずかにざらつく。誇らしいのに、同時に苛立つ。直也が評価されるのは当然のことなのに、どうして他の女性からの賛美を耳にすると、こんなにも落ち着かなくなるのだろう。
「……玲奈」
背後から声をかけられ、振り向くと亜紀さんが並んでいた。
「さっきのROIの件、少し冷たく聞こえたかもしれないわね」
「いいえ。あれが私の役割ですから」
努めて淡々と答える。だが亜紀さんの瞳には、確かな誇らしさが浮かんでいた。直也への信頼と尊敬が滲み出ている。
私は視線を前に戻した。胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残る。——結局、亜紀さんもまた、直也を見ているのだ。私と同じ方向に。
オフィスに戻り、端末を立ち上げる。AIダッシュボードを開くと、会議では出てこなかった現場の声がチャット断片として流れ込んでいた。
【自治体内部チャンネル】
「議会内の一部で“観光資源を壊すプロジェクトだ”という声が強まっている」
「市長は推進派だが、反対派議員が住民向けにビラを配布」
【候補地調整チャンネル】
「盛岡近郊の水利権問題。農業組合が“地下水に影響が出る”と主張」
「候補地の一つは寺院所有地で、宗教法人理事会との調整が難航」
私は画面をスクロールしながら、思わず溜め息を漏らす。机上で積み上げたシナリオは美しい。だが、現実の声はいつだって泥臭い。
その中で、直也のコメントが目に留まった。
「赤や黄色があるのは当然だ。抱えたままでも、進めるべきところから進める。止まらないことが一番大事だ」
簡潔だが、迷いのない言葉。会議室で語った声と同じ力がそこにあった。
私は背もたれに体を預け、無意識に目を閉じる。
誇らしい。彼のような存在が同じチームにいることは、この上ない安心でもある。
——なのに。
なぜだろう。あの新人社員の「すごいですね」という声が、耳の奥にずっと残っている。
「すごい」? そんなことはわかっている。私だって投資家対応の最前線で、直也がどれほど評価されているか、何度も肌で感じてきた。
けれど、女性の口から無邪気にその言葉を聞くと、どうしようもなく苛立つ。
——彼は私の目の前で“特別”であってほしい。誰にとっても特別な人であることは理解しているのに、その事実が胸をざらつかせる。
机に置いた手が自然と強く握りしめられていた。私は静かに息を吐き、画面に視線を戻す。
直也はきっと、この赤と黄色の項目を、また緑に変えてしまうだろう。
それを知っているからこそ、周囲はさらに彼を賛美する。
そして私自身も、その魅力に抗えない。
「……困ったヤツね、ほんと」
声にならない独白が唇から零れた。
オフィスに戻ったあとも、私は端末の画面から目を離せなかった。
赤と黄色のアイコンが並ぶAIダッシュボード。そこに「データセンター候補地:未確定」と表示されているのが、視界の片隅で点滅を続けている。
会議中、直也が口にした言葉が耳から離れない。
――エコAIデータセンター。地熱発電と直結させ、持続可能な拠点として実現したい。
ROIに対する懸念は、確かに投資家として当然の視点だ。地方の土地に膨大な資金を投じれば、資産効率は下がる。私自身、会議では冷静にそう指摘した。
だが、その一方で、直也の目の奥に宿っていた熱を思い返すと、胸の奥に小さなざわめきが広がる。
――あの人は、本気でやり遂げようとしている。
私は端末の検索窓に「盛岡 産業団地 空き地」と打ち込んでいた。AIが瞬時に候補地をリストアップする。
「東北新幹線盛岡駅から車で30分圏内」「送電網接続済み」「地熱発電プラントとの直通パイプライン計画区域に近接」……。
スクロールするうちに、いくつかの有力候補が浮かび上がった。
――ここなら、直也の理想と投資家の納得を両立できるかもしれない。
私は自分の端末に映るシミュレーションシートを睨みつけていた。
——盛岡周辺、候補地A・B・C。
地熱プラントとの距離、新幹線駅からのアクセス、送電網の改修コスト。
AIは入力条件を反映してROIをはじき出す。
《候補A:IRR 7.3%》《候補B:IRR 6.8%》《候補C:IRR 8.1%》
一見するとCが最も優れている。だが、備考欄には小さく「水利権調整リスク大」と赤字が点滅していた。
「……やっぱりね」私は無意識に息を吐いた。
ROIは高くても、合意形成に数年かかれば意味がない。むしろAの「既存産業団地を活用できる案」の方が、地元との折衝は短期で片が付きやすい。
数字の裏に潜むリスクを一つひとつ見極め、重み付けしていく。
手元のノートに、私は直也への報告用の草稿を書き始めた。
【JV内部メモ(草稿)】
•候補A(産業団地内)
メリット:既存送電網あり、地元自治体の支援表明済
デメリット:ROI 7.3%、投資家へのインパクト弱
•候補B(農地転用予定地)
メリット:地熱プラント直結ルート至近
デメリット:IRR低、農業組合からの反対運動リスク大
•候補C(山間部)
メリット:ROI 8.1%、長期的には最も収益性高
デメリット:水利権・宗教法人所有地。合意形成は長期化必至
「直也に見せるなら……Aを軸に提案、Cを将来オプションとして添えるのが現実的ね」
そう口に出した瞬間、胸の奥にちくりと痛みが走った。
――オプションなんて言葉じゃなくて、彼の理想を“本命”に据えてあげたいのに。
それでも、数字は嘘をつかない。
私は再び画面を見つめる。
直也が目指すエコAIデータセンター——盛岡を拠点に、地熱発電と直結する持続可能な未来。その絵を現実にするのは、結局はこの手元にある数字の積み重ねだ。
「……私が形にしてみせる」
小さな声でそう呟き、次のシミュレーションを回し始めた。




