第24話:一ノ瀬保奈美
――眠れない夜だった。
普段なら参考書や問題集を開いて、少し勉強して、あとは寝間着に着替えると自然に眠りに落ちている。そんな毎日なのに、昨晩だけは違っていた。
「出発する前日は、あまり寝ないようにした方がいいよ」
直也さんにそう言われた。時差ボケをできるだけ軽くするためだという。だから私は、素直に従って、深夜まで机に向かっていた。ペンを持つ手がふらふらして、ノートに書いた字はだんだん曲がっていったけれど、それでも眠らなかった。
窓の外が薄い青に変わるころ、私はベッドに横たわり、ほんのわずかだけ目を閉じた。数十分か、せいぜい一時間。それで十分だと自分に言い聞かせた。
目覚まし時計の音で目が覚めた。
いよいよ今日、出発だ!
まだ朝の7時過ぎ。けれども私はもう家を出る事にした。玄関の戸締まりを三度も確認する。電気のスイッチ、ガスの元栓、カーテンの隙間まで気にして、ようやく外に出た。鍵を握りしめる手が震えていた。
莉子さんの家へ向かう。渡米前の挨拶をどうしてもしておきたかった。
「行ってらっしゃい」
莉子さんはもう実家のお店の前の掃除を始めていた。私が挨拶すると優しい笑顔を見せてくれた。手を振って見送ってくれる莉子さんを背中に受け止めながら、私は一路、羽田空港へ向かった。
※※※
羽田空港。
巨大な吹き抜けのエントランスに入った瞬間、私は立ち尽くした。天井まで届くガラス越しに広がる光、行き交う人の波。スーツケースを押す家族、リュックを背負った若者、ビジネスマンらしき人たち。誰もがせかせかと歩き、立ち止まる暇などない。
――もし、直也さんが案内の資料を作ってくれていなかったら。
私は絶対に迷っていたに違いない。
出発ロビーの地図、搭乗手続きの流れ、カウンターの番号、セキュリティチェックの注意点。直也さんが作ってくれたA4一枚の簡単な案内を、私は何度も取り出して確認した。そのたびに胸の奥がじんわりと温かくなる。直也さんのキレイな字で分かりやすいメモが付いていたので、迷う事なく進む事ができた。
直也さんから事前に、ゲートインは早めにしないと搭乗出来なくなると注意を受けていたので、私は時間にまだ余裕があっても「早く、早く」と自分を急かした。
チェックインカウンター。
緊張してパスポートを差し出すと、スタッフがにこやかに対応してくれる。座席番号が書かれた搭乗券を受け取り、手荷物を預ける。預けたキャリーケースがベルトコンベアに吸い込まれていくのを見て、不思議と胸がきゅっと締めつけられた。――これで本当に、しばらく日本を離れるのだ。
その後、保安検査場へ。金属探知ゲートを通るとき、ポケットに小銭を入れっぱなしにしていて、慌てて取り出した。係員が微笑みながら「大丈夫ですよ」と言ってくれたけれど、顔が赤くなるほど恥ずかしかった。
出国審査。カウンターに立つと、パスポートを開く手が震えた。審査官に「良いご旅行を」と日本語で言われた瞬間、じわっと熱いものが広がった。
――本当に、行くんだな。
アメリカへ。
直也さんが今いる場所へ。
※※※
免税店の並ぶ通路を歩きながらも、私は買い物をする気分になれなかった。化粧品もブランドバッグも、今の私には関係ない。ただひたすら、搭乗ゲートを目指す。
「ここを左に行けばいいんだよね」
資料の指示通りに歩いていくと、思った以上にスムーズに辿り着けた。ゲート前の椅子に腰掛けて、深く息をつく。ここまで来られた。直也さんのおかげだ。
思っていた以上に早く到着できた。
――良かった、もう、ここまで来れば大丈夫だ。
ようやく少しだけ落ち着いた私は、水分だけ少し補給した。
直也さんから事前に飛行機に乗る際は、あまり食べすぎず、水分補給だけはきちんとしておくように言われていたからだ。
ようやく、自分の便の搭乗開始のアナウンス。人々が次々と列を作って並び始める。私も搭乗券を握りしめ、その列に加わった。係員に搭乗券をスキャンされ、ゲートをくぐった瞬間、胸が高鳴った。
――さあ、いよいよアメリカに行くんだ。
※※※
機内に入った。
自分の座席はすぐに見つかった。窓際。外の景色がよく見える場所。私は腰を下ろし、ベルトを締めた。窓の向こうには滑走路と、遠くに朝の光を浴びた東京湾が広がっていた。
隣の席にはまだ誰も来ていない。ひとりで窓に顔を寄せる。
雲の上に出たら、どんな景色が見えるのだろう。――そう思うだけで胸が高鳴る。
けれど、同時に小さな不安が残っていた。
この数日、直也さんからのチャットは、どこか元気がなかった。文章の端々に覇気がないように思えた。疲れているのか、心配事があるのか。私にはわからない。でも、気になって仕方がなかった。
《何かあったの?直也さんが何か元気ない感じで少し心配です》
心配のあまり一度だけチャットしてみた。
《大丈夫だよ》
直也さんはチャットではいつも少ししか話してくれない。
だからこそ、私は願う。
――早く会いたい。
観光なんて、どうだっていい。ディスティニーランドも、スタジアム観戦も、ハリウッドも。そんなものは全部なくて構わない。
直也さんが、そこにいてくれるだけでいい。
それだけで、私は幸せになれるから。
飛行機のドアが閉まり、機内が静かになる。
機内アナウンスがあり、定刻どおりの出発となると案内があった。
エンジンの音が低く唸り始め、機体がゆっくりと動き出す。私は窓の外を見つめながら、ぎゅっと両手を重ねた。
――もうすぐ。
あと少しで、直也さんに会える。
胸の奥が熱くなり、目の奥が潤んだ。けれど、それは涙ではなく、確かな希望だった。
私は窓の外の青空を見上げ、小さく囁いた。
「直也さん……」
そして、飛行機は大きく滑走路を走り出した。




