第23話:神宮寺麻里
今、私の目の前に、私が絶対に許せない人が座っている。
――一ノ瀬直也。
あの日、お台場の商業施設で彼が別の女と手を繋いでいるのを見た瞬間から、私の中の世界は色を変えた。誠実だと信じていた男が、同時に誰かを愛しているとは思えなかった。要するに私はおもちゃにされ、彼に弄ばれただけだったのだ。以来、彼に抱いていた「信頼」は、彼に対する大きな「怒り」に変わっていったのだ。
私はビッグテックの日本法人に就職した。クラウドの最前線で働き、サービス設計や市場導入の仕事に明け暮れる日々。数字は上昇を続け、リリースされるサービスプロダクトは市場に大きなインパクトを与えた。けれども、決定の重みはいつも向こうの本社――米国の会議室にあった。重要な投資の舵取り、AI事業の方向性、優先度を決める場は、私の手の届かない場所にあり続けた。どれだけ現地市場を分析して正しい判断を出しても、それは「ローカル」から寄せられるユニークな意見以上の扱いにはならない。
それが悔しかった。歯がゆかった。
私は「直也を凌駕する自分」にならなければならないと、静かに決意した。彼が五井物産で注目を浴び、若くして大きな案件を動かしているという噂を聞くたびに、その決意は強まった。私はただの「現地担当」では終わらない。もっと根本的に意思決定の場に居座る人間にならなければ、と。
だから、渡米の道を選んだ。ビッグテック本国のスタッフ──意思決定の中心に近い場所で働くことに転籍した。サンノゼの空気は刺激的だった。夜遅くまで続くミーティング、短期間で結果を求められるタスク、成功に対する即時の評価。仕事は確かに厳しかったが、私は燃えた。ここで力をつければ、彼にとって代わる存在になれる。そう信じていた。
だが現実は冷たい。ビッグテックの意思決定は、私が想像していたほどに柔軟ではなかった。AIはクラウドの一つの「機能」として扱われ、会社の大きな戦略は財務や既存ビジネスの延長線上で決まる。資本市場からの要求は全てに優先するのだ。
尖ったアイデアは、誰かの承認のために何度も薄められて戻ってくる。私は「世界そのものと向き合うビジネス」を夢見てここに来たはずなのに、目の前にあるのは枝葉の最適化ばかりだった。
――世界そのものと向き合うビジネス。
直也がかつて私に言っていた彼の希望とするあり方……。
そんな折、ネットワークの場でイーサン・クラークに出会った。彼は違った。言葉の端々に未来にかける執着を感じさせ、動きは速く、判断は大胆だった。彼と話すたびに、私の胸は覚醒していった。イーサンは私の直感とスキルを見抜き、DeepFuture AIへの参加を誘ってくれた。「ここなら、決定の重心が動く場にいられるかもしれない」。私は迷いなく手を伸ばした。
転籍の手続きは慌ただしく進み、気がつけば私はDeepFuture AIのオフィスで働く一員になっていた。初めのころは希望に満ちていた。イーサンは約束通り挑戦的なプロジェクトを任せてくれ、私は実戦で力を試した。だが、その矢先の出来事が、私の中の何かを壊した。
イーサンが、五井物産が主導するJVへの参画を発表したという知らせを聞いたとき、まずは驚きが来た。次いで冷たい波が全身を走った。なぜ、五井物産なのか。そして、そのメイン担当――一ノ瀬直也――という名前が耳に入った瞬間、私の心臓はざわつき、言葉を失った。私がこれまで抱えてきた怒り、努力、誇りが、一挙に湧き上がってきたのだ。
参画が正式に発表される前夜、私は自分に問いかけた。なぜここまで心が乱れるのか。答えははっきりしていた。あの直也による裏切りは、私という一人の人間の尊厳を深く傷つけた。私は、自分自身を裏切られた気分だったのだ。誰かに選ばれる側ではなく、選ぶ側になりたかった。なのに彼は、私が目指す場所で、私の前に立つ。許せるはずがない。
そして現実が、私の前に突きつけられた。イーサンに「彼に会わせたい」と言われ、会議室の扉が開いた瞬間。そこに彼が座っていた。目が合った瞬間、時間が止まるような感覚を覚えた。過去が、切り取られたように現在に重なった。胸が締めつけられ、怒りと不意の弱さが同時に押し寄せる。
彼は変わらず、整った佇まいで、ただそこにいる。私の中で渦巻く言葉が、喉の奥で固まる。どうしてここにいるのだろう――昔の暖かさが、今では毒のように感じられる。私は冷静を装いながら、頭の中で計算を始めていた。感情に流されてはならない。ここはビジネスの場だ。私はプロとして、彼に向き合わなければならない。
でも正直に言えば、全てが計算だけで収まるわけではない。彼が何を考え、何をしてきたのかを知りたいという欲もある。あの日の断片を、直接問いただしたいという衝動もある。だが、それを今することは、私の目的を危うくする。私は復讐者である前に、長期的な戦略家でありたい。感情に負けて矮小化することだけは、絶対に避けなければならない。
イーサンは私の胸の揺れを知らない。彼は軽く笑い、場を和ませる。だが、その笑顔の裏で、私は静かに誓う。――私はここで力をつける。一ノ瀬直也を越える力を。私はもう一度、同じ弱さを抱かない。今なお、私の部屋にしまっている「赤い手袋」の記憶を胸に、私は冷たい決意を固めたのだ。
「今、私の前にいるのは、かつて私が愛した人。そして、今、私が絶対に許せない人なのだ」――その認識が、私を駆り立てる燃料になる。私の仕事は世界を動かすことだ。私の復讐は、声高に罵ることではなく、彼を土俵の外に置くほどの実績を築き上げることだ。
会議が再開された。一ノ瀬直也が現在進めていて、日米両政権を巻き込む壮大なプランを共有されても、私のこの思いには比肩し得ない。
「イーサンから許可をいただいています。今後の動向を詳細に把握し、必要に応じて迅速に判断できるように、こちらに滞在中は常に行動を共にさせて頂きます」
一ノ瀬直也は黙って私を見つめ、そして静かに頷いた。




