第11話:一ノ瀬保奈美
パスポートセンターの窓口で、何枚もの書類に署名をした。
証明写真を撮られる時、私は妙に緊張して、ぎこちない顔になってしまった気がする。
――これが、初めての海外。
手続きは思っていた以上に時間がかかったけれど、10日前後で受け取れると聞いて胸をなで下ろした。
次は英語。
「空港でのチェックイン」「買い物のやり取り」――。
直也さんに迷惑をかけないように、最低限の会話はできなきゃ。
スマホにAI英会話アプリを入れて、イヤホンを耳に差し込む。
「Hello, boarding pass please.」
「Here you are.」
……うう、舌が回らない。
でも繰り返すうちに、少しずつ「出来るかも」と思える瞬間が増えてきて、胸が温かくなった。
※※※
夕飯どき。
直也さんから早い時間に、「今日は外で食事する」と連絡があったので、私は冷蔵庫に残っていた野菜と卵で簡単な炒め物を作って済ませた。
でも……味気ない。
直也さんに食べてもらうために工夫する料理と違って、自分一人のご飯はどうしてこんなに色褪せて見えるんだろう。
私は直也さんの為に食事を作っている。
直也さんに喜んで欲しいから。
直也さんがいつまでも元気でいて欲しいから。
箸を置いた後、しばらくテーブルの上をぼんやり見つめてしまった。
※※※
夜も遅くなって、玄関の鍵が回る音がした。
「おかえりなさい」
立ち上がると、直也さんは少し疲れた表情でスーツの上着を脱ぎながら言った。
「義妹ちゃん……思っていた以上に早く、渡米することになるかもしれない」
「え……」
心臓がどくんと跳ねる。
「まだ、出張計画もこれからだから、不透明だけど、もしかしたらオレが先に出発して、その一週間後くらいに義妹ちゃんだけで渡米してもらうことになるかもしれない。その場合はLAで落ち合おうと思う」
「えー! ……そんなの無理だよ」
思わず声が大きくなる。成田から一人で飛行機に乗って、しかもアメリカなんて……想像するだけで怖い。
「大丈夫だよ」
直也さんは穏やかに言い、私の頭を軽く撫でた。
「義妹ちゃんはもうパスポートの手続きもしたし、英語の勉強も始めてるんだろ? 航空チケットは予めオレが買っておくよ。なるべく日系企業の航空会社にしておく。日本語が使えるからね。そして成田から直行便に乗れば、あとはオレがLAで待っているようにするから、大丈夫だ」
「でも……」
不安でいっぱいになる。飛行機の乗り方だって、私は一度も経験したことがないのに。
だけど――直也さんが「大丈夫」と言ってくれると、不思議と心の奥が少しだけ軽くなる。
「義妹ちゃんは、いつもちゃんとやってこれたよ。オレはいつも感心していたんだ。だから義妹ちゃんも自分自身を信じないと」
その声に、胸の奥が熱くなる。
――信じてくれている。
私のことを「できる」と思ってくれている。
「……はい」
小さな声で答えると、直也さんはにこりと笑った。
――怖い。でも、楽しみ。
今まで一度も行けなかった外国。知らない空の下、直也さんと一緒に歩ける日が来るなんて。
ソファに座った後も胸の鼓動はなかなか収まらなかった。
“直也さんに会うために、飛行機に一人で乗って渡米する”――。
考えるだけで不安でいっぱいになるのに、同時に頬が熱を帯びてしまう。
きっと大丈夫。
直也さんが待っていてくれるなら。
私は絶対に乗り越えられる。
「……アメリカに行くんだ。私が」
ぽつりと呟いた声は、夜の静けさに溶けて消えていった。
※※※
シャワーを浴びた直也さんが寝室に入っていったあと、私は自分の部屋でスマホを手に取った。
――今日のこと、誰かに話したくて仕方がなかった。
「ふふっ……」
指が勝手にグループチャットを開く。
相手は同じクラスの仲良し三人組。
私:
《ねえ、実は……この夏、アメリカに行くことになったの!》
既読が一気に三つ。すぐに返信が返ってきた。
真央:
《えっ!? 海外デビュー!? どこどこ!?》
私:
《ロサンゼルス……らしい》
美里:
《えー!すごい!セレブじゃん!》
佳代:
《ちょっと待って。LAって……お義兄さんの出張でしょ?》
私:
《う、うん……(汗)》
真央:
《じゃあつまり……お義兄さんに会いにLAに行くってこと!?》
私:
《ち、違っ……そうじゃなくて……えっと……》
指が震えてうまく打てない。
美里:
《なんかもう新婚旅行じゃない?それ(笑)》
佳代:
《だよねwww 「旦那さんの出張についてきた奥さん」感すごいw》
「なっ……な、何言ってるのよ!!」
思わず声が漏れて、慌てて口を塞いだ。頬がカッと熱くなる。
私:
《ち、ちがうもん!私は一人で飛行機に乗って行くだけで……》
真央:
《一人で飛行機乗ってでも行くって……やっぱ愛じゃん(笑)》
美里:
《やば、ドラマみたい。空港でハグとかしちゃうんでしょ?》
私:
《ちょっ、やめて……!///》
布団に顔を埋める。
――やっぱり話すんじゃなかった。
でも……胸の奥がほんのり甘くて、じんわり嬉しい。
私がそんなふうに見られていることが、どこか誇らしい気持ちになってしまうから。
スマホを握りしめ、私は小さく呟いた。
「……新婚旅行なんかじゃないもん。でも……」
もし本当にそうだったら。
そんな妄想が頭をよぎって、ますます顔が熱くなった。
チャットはさらに盛り上がっていった。
佳代:
《てかLA行くなら……本場のディスティニー行くでしょ!?》
真央:
《お土産は絶対チョコね!ハーシーズの特大のやつ!》
美里:
《あと「I ♡ LA」って書いてあるTシャツ!義兄さんとお揃いで着てね♡》
「ちょっ……!!」
布団の上で転げ回る。顔が熱すぎて爆発しそう。
私:
《ちがうってば!観光とかじゃないの!直也さんはお仕事なんだし、私は……私はその、勉強のために……》
真央:
《えー勉強ってw ディスティニー英語システム!?》
美里:
《いいなー。パスポートに初スタンプ押されるのって、なんかキラキラするよね》
佳代:
《で、義兄さんとイチャイチャ写真撮って、SNSには載せないんでしょ?w》
「……あぅぅ……」
頬を覆ってゴロゴロ転がる。
言い返したいけど、否定すればするほど余計にからかわれるのは目に見えている。
でも……。
直也さんとディスティニー。直也さんとお揃いのTシャツ。
想像してしまって――心臓がバクバクして止まらなくなった。
私:
《……お土産、考えておくから……もう寝る!》
送信ボタンを押してスマホを伏せた。
画面の向こうで笑い転げている友達の姿が目に浮かぶ。
「新婚旅行なんて……ちがう、ちがうもん……」
でも、頬の熱はいつまでも冷めなかった。