第99話:新堂亜紀
――いよいよ、日本に帰る日が来た。
式典という大きな山を越えても、仕事はむしろこれからが本番だ。
プロジェクトは日米をまたぎ、国の思惑まで絡む巨大なものへと姿を変えた。
けれど、まずは先行している日本のJVにおいて、停滞していた足元の課題を一つひとつ解決していかなければならない。
これから開始されるアメリカの方が先に進んでしまえば――それは日本のメンツや信用問題に関わる。
だからこそ、直也くんも私も玲奈も、まずは帰国して日本で腰を据えて動くことを決めていた。
※※※
出発前の数日間、直也くんはAACの大田夫妻や、DeepFuture AIのイーサンとの面会を慌ただしく済ませていった。
大田夫妻には「今後とも継続的に連携させてください」と深く頭を下げた。保奈美ちゃんのショートホームステイについても直也くんは深く感謝した。秀介さんと直也くんは固く握手した。もう二人は深い信頼と友情で結びついたように思う。
DeepFuture AIのイーサンは最後に意味深な笑みを浮かべて言った。
「Naoya、Aki、Reina――君たちに素敵なプレゼントを用意してある。もうすぐのお楽しみだ」
あのイーサンが“プレゼント”などと口にするのは珍しい。
どんな仕掛けをしているのか――正直、少しだけ不安でもある。
※※※
帰国当日。
私たちはサンノゼから車で空港へ向かい、サンフランシスコ国際空港の特別ラウンジに入った。
大きな窓からは滑走路が一望でき、国際線の大型機が次々と発着していく。
一週間前までは想像もしなかった日々を思い返し、胸の奥がまだざわついていた。
「……直也くん、本当に日本に戻っちゃうんだね」
つい、そんな言葉が口をついて出た。
「戻らなきゃ始まらないですからね。むしろここからですよ」
直也くんは疲れをにじませながらも、変わらぬ穏やかな口調でそう答えた。
保奈美ちゃんはソファに座り込み、旅の疲れで少し眠そうにしている。
玲奈は端末を広げ、日本のJV準備に関するメモを整理していた。
……その光景に、ようやく少し日常が戻ってきたような気がして、私は小さく笑みをこぼした。
その時だった。
ラウンジの入口に人影が現れ、こちらに向かって歩いてきた。
――麻里さん。
彼女の姿を見て、私も玲奈も思わず顔を見合わせた。
数日前、サンタローザの丘で崩れ落ち、涙ながらに懺悔していた彼女の姿が脳裏に蘇る。
(……どうしてここに?)
――これから、何を語るつもりなのか。ラウンジの空気が一瞬、張り詰めた。
麻里さんがまっすぐに直也くんの方へ歩み寄ってくる。その表情は、かつての尖った鋭さではなく、柔らかさを帯びていた。
(……あの麻里さんが、こんな顔をするなんて)
驚きと同時に、胸の奥が少し温かくなった。
彼女は直也くんの前で立ち止まり、深々と頭を下げた。
「直也……本当に、ごめんなさい」
声が震えていた。けれど、その響きは真剣で、心の奥から絞り出すようだった。
「全部、私の愚かさが招いたことなの。あなたを信じ続けることができなかった私自身の弱さ……それを、本当に悔やんでいます」
その言葉は飾り気がなく、ただただ真心がこもっていた。
過去のとげとげしい言葉も、憎しみにすがっていた表情も、すべて消え去っていた。
直也くんは静かに頷き、優しい声で応えた。
「サンタローザでも言った通り、もう全部終わったことだよ。だから、もう気にしないでいい」
「……じゃあ、本当に許してくれるの?」
麻里さんの声はか細く、それでいて必死だった。
「もちろんだよ」
直也くんは迷いなく言い切った。
「もう過去を水に流して、仲直りしよう」
直也くんは握手を差し出した。
その瞬間、麻里さんの瞳から大粒の涙があふれた。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます……!」
麻里さんは手を両手で握り、二人は握手した。
喜びで崩れるように涙を流す姿を、私はただ見守った。
玲奈も、保奈美ちゃんも、微笑みながら彼女を見つめていた。
ラウンジの柔らかな灯りの下、あの日の痛みも、長く続いた誤解も――静かに解けていくのを、私は確かに感じていた。
(……これでようやく、前に進めるんだね)
そう心の中で呟きながら、私もまた微笑んでいた。
――麻里さんの涙はようやく落ち着きを見せた。
けれど彼女はまだ直也くんの手を離さず、震える声で言葉を続けた。
「……亜紀さん、玲奈さん。あなたたちにも、私はずいぶん……きつく当たってしまった。
あんな態度を取って、本当に……ごめんなさい」
真っすぐに見つめられて、私は小さく瞬きをした。
過去のことが頭をかすめる。会議でのぶつかり合い、冷たい視線、刺すような言葉。
でも――。
「いいの、麻里さん」
私は柔らかく笑って、首を横に振った。
「全然、気にしてないから。ね、玲奈?」
玲奈も頷き、口角を上げた。
「ええ。終わったことです。むしろ、こうして一緒に未来を進めるなら、それで十分ですよ」
麻里さんの肩がふっと落ち、安堵の息が零れた。
その様子を、保奈美ちゃんが微笑んで見守っていた。
――けれど、彼女はふと表情を曇らせた。
「……あの、直也さん」
「ん?」
「大統領閣下から、二つ……何かもらってましたよね。コインと、それから……小さな封筒? あれって、なんですか?」
直也くんは一瞬だけ目を細め、やがてスーツの内ポケットに手を伸ばした。
そこから取り出したのは――あの夜、私も横で目にした二つの品。
ひとつは、ずしりと重みを持つチャレンジコイン。
もうひとつは、封筒に収められた小さなカード。
「これはね……」
直也くんは穏やかな声で言った。
「チャレンジコイン。大統領閣下から直々に授与されたものだ。米国では、軍やシークレットサービスが特別な功績を讃える時に授けるものなんだ」
彼が手のひらに転がすと、金色の紋章が柔らかい光を反射した。
保奈美ちゃんの瞳がまん丸に見開かれる。
「えっ……そんな、すごいものだったんですか……」
「そしてもうひとつ」
直也くんは小さなカードを指で軽く示した。
「これは、シークレットサービスの連絡コード。もしどうしようもない事態があったとき、ここに連絡すれば、米国政府が即時動く」
「……っ!」
保奈美ちゃんの息が止まった。
驚いて声も出せないでいる彼女の横で、麻里さんも目を大きく見開いていた。
「それってつまり、アメリカ合衆国がバックアップするってことじゃないの……?」
その声には、専門家らしい冷静さではなく、純然たる衝撃が混じっていた。
彼女がこれほど驚いた表情を浮かべるのを、私は初めて見た。
「……そんなものを……あなたが……直也……」
呆然と呟く麻里さん。
私は横で、こっそりと息を整えた。
(そうよ。これが、私たちの“直也くん”なんだから)
誇らしさで胸がいっぱいになった。
玲奈と視線が合った。
お互いに同じ気持ちだったのだろう。
自然と二人して、鼻を高くしてしまう。
「ね、玲奈」
「ええ。うちの直也、すごいでしょう?」
からかい混じりに言うと、玲奈も小さく微笑んだ。
保奈美ちゃんはまだ信じられないといった顔で直也くんを見つめていたけれど――その瞳には尊敬と誇りの光が宿っていた。
ラウンジの空気は、一瞬で温かく、そして誇らしいものに変わっていた。
――私と玲奈は甘かった。