プロローグ:神宮寺麻里
私は一ノ瀬直也を絶対に許さない。
私は心底彼のことを愛していた。
――あの頃の私は、本気で彼を信じていた。
直也ほど誠実な男性はいない。そう思い込んでいた。いや、信じるというより、疑う理由がなかった。
東都大学に入って、公認サークルに所属していた私は、同じサークルにいる彼と出会った。その頃の彼は、既に別の女性と付き合っていて、だから駒場キャンパスにいた頃に私は彼との接点は、サークル活動以外はほとんど無かった。
彼は東都大学の理学部情報科学科で、いわゆる量子情報理論を研究対象としていた。大学院に行くつもりはないと、サークルの飲み会で話をしていたのを覚えている。
私と彼が所属していた公認サークルはフットサル同好会で、男性も女性も所属可能で、もちろんフットサルの練習はするが、競技として極めるというよりも、サークルの仲間で楽しくプレイするのを目的としていた。だから、夏になればフットサルだけでなくサークル仲間でダイビングに出かけるし、冬になればスキーやスノボを楽しむという、緩い活動団体だったのだ。
サークル内での人間関係はすごく良かった。だから暇な時にサークルのメンバーで集まるのはしばしばで、必然的に直也と接する機会は増えていった。
直也は本当に女性にモテる人だった。当時彼と付き合っていた女性は、学外の、他大学の女子生徒だったと聞いている。ただ、彼は大学での研究に忙しく、その合間にサークル活動などもしているので、必然的に付き合っている女性に割ける時間は少なくなる。
もっと自分に時間を割いて欲しいという相手に彼がウンザリしたとしても不思議はない。
だから、駒場の頃から数ヶ月程度で相手と別れるという事が続いていると噂は聞いていた。プレイボーイだという言い方をする人もいたが、私はそうは思わなかった。というのも声をかけてくるのはいつも女性からで、彼がシングルになったと噂になると、誰かが声をかけ、そしてしばらくすると彼の隣を歩くようになるという事だったからだ。
プレイボーイというのは、自分から能動的に女性に声をかける人の事で、彼の場合は、それには該当しない。ただ女性には不自由しないタイプというだけだ。
彼は公認サークル以外にも、いわゆるインカレサークル(異なる複数の大学生が所属する学外サークル)にも所属していたし、一方でその頃からもう複数のライセンス(公認会計士や中小企業診断士等)の取得に向けた準備にも忙しかったから、付き合っていた女性に割ける時間はどうしても少なくなる。
その一方で、彼のそうした事情を全く理解しようとしない女性は、彼の時間を独占しようとする。そうすれば必然としてすれ違いが増えていく。
数カ月もすれば彼はウンザリする。そして相手とは別れ、それを待っていたとばかりに別の女性がまた同じループにハマるのだ。駒場から本郷に場所が変わっても、その構造は変わらないと思っていた。
ところが私に、チャンスが到来したのだ。
本郷キャンパスのカフェテリアで、大学生協で取り寄せたばかりの重たい原書を抱えて座り込んでいた私を見つけて、「手伝おうか」と屈託なく声をかけてくれたのが直也だった。
周囲の男子学生がふざけ合って笑いながら通り過ぎる中、彼だけは違った。真剣に、誠実に、目の前の困っている人に手を差し伸べる人だった。
サークルで見かけた頃から、私は彼にずっと興味を持っていたのは事実だ。
でも、カフェテリアで困惑していた私にやさしく声をかけてくれた瞬間に、私は心を掴まれてしまったのかもしれない。
「同じサークルにいるよね。神宮寺麻里さん、だっけ?」
「うん。私はもうずっと前から知っていたよ。一ノ瀬直也さん」
それから程なくして、私たちは付き合い始めた。
彼がフリーになっていると聞いたばかりだった。待ち行列を形成している他の女の子を尻目に、私はズル込みしたようなものだが、文句を言われる筋合いはない。チャンスをものに出来るかどうか。それだけだ。
私はこれまで彼が付き合ってきた馬鹿な女達とは違う。
彼に一度か二度抱かれた程度で、彼の24時間が独占出来ると勘違いする方が馬鹿なのだ。彼には明確な目標があり、具体的な計画があり、それを遂行できる能力があるのだから、必然的に時間は過小となる。
でも、限られた時間を自分のために彼が費やしてくれるだけで私は幸せだった。
彼と話すと、どんなに不安だった心も静かになった。
私は同じ東都大学の工学部で、視覚認識技術の研究室に所属していた。直也も忙しいが、私もいつも時間に追われていた。
課題に追われ、夜遅くまで図書館で粘っていると、いつも直也が声をかけてくれた。
「遅くまで大変だな。駅まで送っていくよ」
そう言って、当たり前のように駅まで歩いて送ってくれる。ただ本当に心配だから、という態度。本当に紳士的で、それでいてフランクで話しやすい。
だから私は、彼に夢中になった。
湯島の長い坂道で、小さな子どもが道端で転んで泣いていたとき、迷わず駆け寄って膝をつき、擦りむいた膝を見て「大丈夫か?」と声をかけた姿を覚えている。
それは、本郷のカフェテリアで私に声をかけてくれた時と同じ、誠実さに満ちていた。
私は確信した。
――この人は、絶対に裏切らない。
世の中の多くの男たちは、浮ついた言葉を並べたり、軽薄な遊びを楽しんだりする。
でも直也は違う。
そんな世界とは無縁に、自分の信じる道を歩いている。
人を大切にし、約束を守り、誰に対しても誠実に向き合う。
「量子コンピュータの実現には、まだまだ課題が多いし、もう少し時間がかかるな」
彼は自分の専攻分野である量子情報理論について物語ってくれた事がある。
「その分野を極めたいと思わないの?」
「量子コンピュータは世界を大きく変えると思うけれど、オレが取り組みたいのは、その変わっていく世界そのものと向き合うビジネスだな」
彼はもうその頃から、総合商社で仕事する事を志していたように思う。
私は、そんな直也を心から愛するようになっていった。
彼のそばにいると、自分まで背筋が伸びるようだった。
弱い部分を見せてもいいと思える安心感と、同時に、彼に恥じない自分でありたいという気持ち。
それは、私にとって初めての感情だった。
直也と過ごした日々は、今思い返しても眩しい。
初めて二人で行った映画館でのデート。
暗闇の中、手を繋ごうかどうか迷いながら、結局最後まで繋げなかった。
でも、帰り道に彼が小さな声で「今日は楽しかったな」と言ってくれただけで、私は胸がいっぱいになった。
その年のクリスマスに、私たちは結ばれた。
私にとって直也は、はじめての男性だった。
私は直也がこれまでどんな女性遍歴だったのかは全然気にしない。
その女性たちは直也という人を理解する能力が無かっただけだと思っていた。
私はそんな馬鹿な女たちとは違う。
直也の24時間を独占する資格は、そんな女たちにある筈がない。私は直也がほんの少しの時間を、自分だけに費やしてくれれば、もうそれで本当に幸せだった。あとはたまにチャットで連絡を取り合ったり出来ればもう満足するべきなのだ。直也は忙しいのだし、彼がやりたい事を妨げるような存在には、私はなりたくない。
彼はやさしく私を抱いてくれた。
私は直也を信じているから、安心して身を任せていた。
直也は高校1年生の時に母親を亡くしたと聞いていた。だから彼にとって年末というのは、どうしても衰えていく母親を見守った辛い季節になってしまうのだろう。その思い出を話す彼の寂しそうな横顔を見て、もう私はそんな顔をさせたくなくなったのだ。
だから全身全霊で彼を慰めたのだ。
自分の体で彼が喜んでくれるならそれで私は幸せだった。
それは祈りのような行為だったと今でも思っている。
クリスマスプレゼントとして彼が選んでくれた赤い毛糸の手袋は、今でも引き出しの奥にしまってある。
使い古されて毛羽立ってしまったけれど、どうしても捨てられない。
あの頃の自分の「信じる心」の象徴のように思えるから。
私にとって直也は、光そのものだった。
彼のそばにいれば、自分は絶対に幸せになれる。
そんな確信があった。
年が変わる頃には、二度三度と私たちは体を重ね合わせていた。
私は直也に抱かれるのが嬉しかった。
直也が私を求めてくれるというだけで私は幸せだった。
女性としての喜びを直也は私に教えてくれた。
もう自分はいずれ直也と一緒になるのだと、そう思い込んでいた。彼は忙しいし、デートできる時間は限られているが、そんなのは全然問題にならない。むしろ彼を制約するなんてとんでもない事だ。だって彼は誠実で尊敬すべき人で、そんな彼のことを私は愛しているのだから。そして彼もまた私を愛してくれている。
周囲の友人から「麻里って幸せそうだよね」と言われるたびに、私は微笑んで答えた。
「うん、だって直也くんは、すごく誠実な人だから」
――誠実。
その言葉に、私は自分の想いのすべてを託していた。
彼を信じることで、私は自分自身も守られている気がした。
でも。
その「誠実」という言葉が、やがて私の中で最も重い裏切りの刃に変わるなんて——あの頃の私は、想像もしなかった。
あの日の衝撃を、私は今でも忘れられない。
それは胸の奥に刺さった棘のように、時間が経っても抜けないまま残っている。
その日、私は研究室での課題をようやく一段落させ、本郷三丁目から御茶ノ水に移動して明大通りの楽器店に寄っていた。私は中高一貫校出身だったが、小学生の頃からピアノをずっと続けていて、ピアノ楽曲の楽譜を探すのが趣味だったのだ。新しい曲集を手にして外へ出たとき、偶然にも――いや、偶然だからこそ残酷だったのかもしれない――直也の姿を見つけてしまった。
人混みの中でも、彼の姿はすぐに分かる。背筋をまっすぐに伸ばし、周囲を見渡すことなく迷いなく歩く。その佇まいはいつもと変わらない。だけど、その隣にいた女性の存在が、私の視界を一瞬で塗り潰した。
肩までの髪を軽く巻き、流行のワンピースを纏った女性。直也の腕に自然な距離で寄り添い、時折顔を上げては楽しげに微笑んでいた。
――その笑顔に応じるように、直也がふっと柔らかく笑うのを、私は確かに見てしまった。
心臓が大きな音を立てて跳ねた。手にしていた楽譜を落としそうになり、慌てて抱え直す。耳の奥がじんじんと熱を帯び、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
「違う……」
思わず小さく声に出ていた。
——違うはずだ。あれはきっと仕事の知り合いか、サークルの後輩か。偶然、横に並んで歩いているだけ。そうに決まっている。
けれど、現実は容赦なく私の目に飛び込んでくる。
信号待ちの横断歩道で、女性が小さく跳ねるように笑った瞬間、直也の手が自然に伸びて、その手を受け止めた。
……繋いでいた。はっきりと。
視界が揺れた。地面が沈むように感じた。
周囲の雑踏のざわめきが、遠くの音のように霞んでいく。
――嘘だ、嘘だ、嘘だ。
私は足を動かせなかった。追いかけることもできず、その場に立ち尽くすしかなかった。
背を向けて歩き出す二人の姿は、まるで残酷なスローモーションの映像みたいに、私の網膜に焼き付いて離れない。
必死に理屈を探した。
ただの知人、ただの手助け、一瞬の誤解。そう言い聞かせようとすればするほど、胸の奥に広がる冷たい感覚が強くなる。
――私は直也を信じていた。誰よりも。誠実な人だと、心の底から思っていた。
だけど。
もし、もしも、あれが本当に「裏切り」だとしたら。
私が信じていた「誠実」という言葉は、一瞬で砕け散ってしまう。
その夜、家に戻ってからも、私はベッドに横たわったまま眠れなかった。目を閉じると、繋がれた二人の手が何度も何度も脳裏に蘇る。吐き気がするほどに。
――私は信じたい。直也はそんな人じゃない、と。
でも、あの光景は、信じたい心を嘲笑うように焼き付いて離れない。
誠実さを愛したからこそ、その誠実さに疑いが生じた瞬間、私はどうしていいか分からなくなった。
あの日以来、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を抱えたまま、私は日々を過ごしていた。
直也と一緒にいるときは、そんな不安は嘘みたいに消えてしまう。彼は変わらず優しくて、誠実で、私を気遣ってくれる。――だけど、ひとりになった瞬間、その棘は疼きだすのだ。
「ねえ、麻里。……あんまり気にしない方がいいと思うけど」
ある日の放課後、サークル仲間の女子にそう言われた。私の表情に、不安が滲んでいたのかもしれない。
「直也くんってさ、もともとすごくモテる人だから。誰と歩いてるのを見たって、おかしくないんじゃない?」
その言葉に、私は曖昧に笑ってみせた。
「そう、かな……」
「うん。正直、あの人は狙ってる女子は多いよ。いちいち気にしてたらキリないって」
慰めのつもりなのだろう。けれど、私の心には逆に冷たい水が差し込んでいく。――やっぱり直也は、誰からも好かれる人なのだ。私ひとりが特別、なんて思う方がおかしいのだろうか。
さらに追い打ちをかけるように、思いもよらぬ人物からの声が耳に入った。
それは、直也と以前付き合っていたと噂されていた女性からだった。
その日はフットサル同好会としては珍しく、他大学の関係が深いフットサルサークルとの合同飲み会となったのだ。直也はその日は都合が悪いという事で欠席していた。
その相手側のサークルに彼女がいたのだ。にたまたま顔を出したその人は、ワイングラスを傾けながら、笑みを浮かべて言ったのだ。
「一ノ瀬くん? あの人はね……同時に何人もの女の子と遊んでる本当のプレイボーイよ。私のときだって、結局他にも付き合っている人が何人もいたんだから」
周囲は笑い飛ばしていた。
「えー、またまた」「彼って、……まぁモテそうではあるけれど、そこまで?」
――けれど私は、笑えなかった。胸の奥に、鋭い杭を打ち込まれたようだった。
「……それって、本当なんですか?」
気づけば、私は震える声で尋ねていた。
その女性はわざとらしく肩をすくめ、唇を吊り上げる。
「信じるかどうかはあなた次第。まぁでも、気をつけた方がいいわよ。あの人、見た目以上に器用だから」
笑い声とざわめきにかき消されながらも、その言葉は私の心にしっかりと残った。
――信じたい。直也は誠実だと。
でも、もし、もしも本当に、彼が複数の女性と同時に関係を持っているとしたら?
私は頭を振った。そんなはずない。彼は、あの日カフェテリアで困っていた私に優しく声をかけてくれた、あの誠実な直也なのだから。
だけど、「信じたい」という気持ちの裏で、「もしも」という声が次第に大きくなっていく。
家に帰ってからも、私は机に向かってノートを広げるふりをしながら、ずっと心が揺れていた。
赤い毛糸の手袋を取り出し、ぎゅっと握りしめる。
――大丈夫。直也は誠実な人だ。私を裏切るはずがない。
そう自分に言い聞かせるたびに、不安は逆に膨らんでいった。
私はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。
夜、布団の中で目を閉じても、サークルの友人や元カノの言葉が繰り返し響く。
「すごくモテる人だから仕方ない」
「同時に何人もの女の子と遊んでる本当のプレイボーイ」
まるで呪いのように、私の胸を締めつけて離さなかった。
その週末、私は友人たちと約束があってお台場のほうへ出かけていた。夕暮れ時の海風は心地よく、レインボーブリッジのシルエットがライトアップされて浮かんで見える。
友人のひとりが寄り道しようと言うので、ショッピングモールの外を歩いていると、ふと人混みの向こうに見覚えのある後ろ姿が目に入った。最初は目の錯覚だと思った──けれど、近づくにつれて、胸の奥が急に締めつけられていった。
目に入ってきたのは、直也の姿だった。遠目にもわかる、まっすぐな立ち姿。隣には、きれいに巻いた髪の女性がいて、ふたりは自然に並んで歩いていた。女性は流行のワンピースに身を包み、楽しげに話している。彼の顔がちらりと見え、その横顔はいつもの穏やかさをたたえていた。
でも次の瞬間、時間がスローモーションになった。グランド日航東京台場ホテルに向かってふたりが歩みを進める途上で、女性がふっと笑い、何気なく手を差し出した。彼の動きは一瞬だけためらったように見えたが、そのまま彼はその手を取った。──完全に、手を繋いでいた。
そしてふたりはグランド日航東京台場ホテルに入っていったのだった。
私の足は動かなかった。世界が白黒になったようで、人々の声や車の音が遠い雑音に変わる。胸がひどく痛んで、視界に涙がにじむ。手袋のこと、夜の駅まで送ってくれたこと、私が眠れずにいた夜に優しく話しかけてくれた声、そして私をやさしく抱いてくれた思い出が、頭の中で矛盾したまま渦を巻いた。
「あれは……仕事か何かの人かもしれない」
頭の中で、何度もそう言い聞かせる。けれど、手をつないで、その相手とホテルにそのまま入っていった現実が、どんな言葉よりも重い。
私はその場から逃げ出したくなった。足を引きずるようにして、雑踏の中へ吸い込まれる。友人は心配そうに声をかけるが、まともに応えられない。やがて、一瞬だけ背中に冷たい風が当たり、襟元がぞくりとするのを感じた。もう振り返る勇気は、どうしても湧かなかった。
家に戻ると、私はシャワーを浴びてみた。水は冷たく、肌に当たるたびに現実の輪郭が滲んでいくような気がした。だが熱が引くと、胸の痛みは残り、あの光景だけは逃げてくれない。私は赤い手袋を取り出して、それを握りしめた。彼がくれたものが、裏切りの烙印のように重く感じられる。
その夜、眠れずに窓の外を見ていたら、遠くに見える東京スカイツリーの灯が色を変えた。
私は決めた。問いただす。はっきりさせる。もし本当なら、そんな人とは一緒にいられないと。
でも、言葉は口の中で固く結ばれていた。どうやって、いつ、彼に言うべきか。胸の奥に渦巻く怒りと哀しみを、どう形にすればいいのか分からない。翌週、私は本郷のキャンパスで彼と会う約束をしていた。それが、答えを突きつける場になるのだと思うと、夜の静けさが一層冷たく感じた。
眠れないまま、私は一枚の紙に短くだけど決意を書き留めた。
「もう、きちんと話す。もしも本当ならば――私は直也と別れる。」
不安と怒りが混ざったその宣言を読み返しながら、涙が頬を伝った。私は自分の手で自分を守らなければならない。信じることと許すことは別だ。私は、その境界線を、自分の言葉で引く覚悟を固めていた。
週明けの本郷。赤門をくぐったときから、胸の奥がぎゅうっと締めつけられていた。
私は直也と会う約束をしていた。表向きは、サークルの定例ミーティングのあとに少し話をしよう、というだけの約束だ。けれど、私にとってはそれ以上の意味を持っていた。
あの日以来、眠れない夜が続いていた。台場で見た光景──彼が別の女性と手をつなぎ、そのままホテルへ入っていった姿が、頭の中から消えてくれない。夢の中でさえ、その映像が何度も何度も繰り返され、私は夜ごと胸の奥を引き裂かれるような思いをしていた。
「……今日こそ、はっきりさせる。」
心の中でそうつぶやいてみても、足取りは重い。赤門から工学部棟へと続く石畳は、こんなに長かっただろうか。通い慣れたはずのキャンパスが、今日は牢獄の回廊のように感じられる。
研究棟前の広場で待ち合わせていた直也は、いつもと変わらない穏やかな表情で立っていた。
シャツの袖をまくり、腕に分厚いテキストを抱えている姿は、私が知っている「誠実そのものの直也」だった。
その姿を見た瞬間、一瞬だけ「きっと誤解なんだ」と思いたくなる。けれど、胸の奥の冷たい棘がそれを許さない。
「麻里、待った?」
いつもの声。変わらない笑顔。
だけど私は笑えなかった。むしろ、その笑顔が裏切りの仮面に見えてしまう。
「……話があるの。」
吐き出すように言うと、直也の笑顔が少し曇った。
「どうした?」
私は深呼吸をした。胸が震えて、言葉が喉につかえる。けれど、ここで言わなければならない。
「あの日、お台場で見たの。……直也が、別の女の人と、手をつないでホテルに入っていくのを」
直也の顔色が変わった。
驚き、そして苦しそうに視線を逸らす。その仕草が、何よりの答えのように思えた。
「それは、……麻里。……オレにも、いろんな事情があるんだ……それは少し込み入っていて…」
必死に言葉を紡ごうとする直也。
でも私は首を振った。
「そんな言い訳、聞きたくない!」
声が震え、涙がこぼれそうになる。
「あなたは誠実な人だと信じてた。……ずっと、そう信じてたのに。……それなのに私を裏切るなんて、そんな酷いこと、どうしてできるの?」
「麻里……違う、本当に……」
「もう何を言っても無駄。私は、不誠実な人とは付き合えない」
吐き捨てるように言った瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
本当は叫びたい。『違うって言って!』『誤解だって抱きしめて!』
でも、その一言がどうしても信じられない。
直也は苦しそうに私を見つめていた。言葉にならない言葉が唇の端で震えている。
その顔を見るのが、余計につらかった。
「もういい……」
私は視線を逸らし、振り返った。涙が頬を伝う前に、走り出さなければならなかった。
本郷キャンパスの石畳を、ただ前だけを見て走る。視界が滲んで、行き交う学生たちの顔も景色も分からない。
背後から直也の声が追いかけてくるような気がした。けれど、振り返らなかった。振り返ったら、すべてを許してしまいそうだったから。
「……信じていた私が、馬鹿だったんだ」
走りながら、唇が勝手にそうつぶやいた。
正門を出たとき、涙が頬を熱く濡らしていた。
胸の奥にあった「誠実」という信念が音を立てて崩れていく。
あの日掴んだ赤い毛糸の手袋は、今では呪いのように私の心を締めつけていた。
それから大学のキャンパスで彼をすれ違う事があっても、私はもう目を合わさなくなった。彼は時折私を見て話しかけようとするのだが、私は頑なにそれを拒否し、彼もいつしか諦めるようになった。
私はサークルも辞め、彼との接点を無くすようにした。実際に大学の4年生にもなると就職活動と卒論に向けた研究に追われる事になる。忙しい時間を過ごす事で、直也との思い出を省みる事をしないで済むのは、私にとってむしろ救いにすらなっていた。
彼はしばらくすると、また、別の女性と付き合い始めたらしい。ただ、それが、あの『きれいに巻いた髪の女性』とは違ったタイプだったのは、釈然としなかつた。まぁ、あの女性もまた彼にとっての数ある「遊び」の相手だったのかも知れない。
やがて風の噂で、直也が当初からの志望通りに、五井物産にあっさりと内定を決めたと聞いた頃には、私もビッグテックの日本法人からの内定を取り付けていた。
総合商社マンになった直也というのは、すごく『様になる』気がする。そしてまた、その肩書で多くの女性をおもちゃのように扱い、『飽いては捨てる』を繰り返すのだろうかと思うと、彼に対するやりようのない憎しみのような感情がもたげてくる。
私は一ノ瀬直也を絶対に許さない。
いつか近い将来に、彼が私を捨てていった事を、彼に後悔させてやると誓ったのだ。
誠実だと信じた私をもてあそんだ彼を私は絶対に許さない。
そのためにも、日本トップの総合商社マンとなった直也を、打倒し、ひれ伏させる事ができるだけの実力を私は絶対に身につけるのだ。
※本編はカクヨムにも掲載しています。