1-5 喪失
『赤い結界』の中は文字通り、赤い炎に支配された世界だった。
赤い炎は水をぶちまけたように伸びており、建物も植物も例外なく、その姿形を崩壊させている最中だ。蛇のように上へ伸びる黒煙へ眼線を動かすと、そこに青空は無く、赤い膜が張られたように空は赤く染まっていた。
というか……
「あっつ……」
無意識のうちに言葉が零れる。
この結界内、暑すぎる……入ったばかりなのに、既に汗が止まらないんですけど……
制服のシャツがじんわりと濡れる。
この暑さで頭が少しクラクラするが、この状況でそんな弱音は吐けない。
「……暁理さん、ありました」
ふと、隣のシロアがそう言いながら空を指差す。
俺はその指の先に眼線を動かすと、そこには、空まで伸びる『赤い柱』があった。まるで、この結界を支える背骨のように。
「あれが『赤い柱』?」
「はい。あの柱の根本に『デザイア』がある筈です」
「なるほどな……じゃあ、行くか」
俺のその言葉に、シロアは何も言わずに深く頷いた。
それが合図かのように、俺とシロアは連動するように脚を前に動かす。そして、そのまま俺達は燃える地獄の中を進みはじめ────
「救けて!!」
正面から、女性の叫び声が聞こえた。
「お願い!救けて!!ねえ!!」
それは、オフィスカジュアルを着た30代ぐらいの女性だった。その女性は必死に、何かに追われているかのように俺達の方へ走って来ている。何が起きてるか分からないが、俺はとりあえず女性へ向かって叫ぶ。
「どうしましたか!?大丈夫ですか!?」
すると、女性は恐怖から一転して安堵の表情を浮かべながら、
「やった……私は、私はた────」
女性の言葉は、それ以上紡がれる事は無かった。
「キャアアアアアアア!!!」
女性の身体が、一瞬で赤い炎に包まれる。
結界内に悲鳴が響き渡る。
それが、女性が生きた最後の証というように。
瞬間、
「ダメッ……!」
と、隣のシロアがそう零しながら走り始める。その行動は間違い無く、女性を救けようとしていた為の行動だ。
「なっ!?」
俺は反射的にシロアの手を掴んでしまう。
「暁理さんっ、離して……!」
シロアのその声は、焦燥と悲痛に塗れていた。だからこそ、この手は離せない。
「だめだ!だって……!」
だって、眼の前の女性は既に女性じゃない。
シロアが走りだしたその時には、ただの炎に包まれた黒い肉塊になっていた。
そして、
「────ア、ア、ァ」
その叫びを最後に、女性は赤黒い肉塊となって道路に倒れ、そのまま永遠に動かなくなった。
悲鳴はもう聞こえない。
耳障りな叫び声は、もう。
「────あ」
腹がズキズキと激痛を呼び起こす。
何かが、胃の中でぐるぐると回る。
俺は口を塞いで、それが出るのを必死に塞ぐ。
死んだ。
人間が、死んだ。
そして、俺はそれを見殺しにした。
手遅れだった。仕方なかった。
でも、俺はあの日と同じように、また見殺しにした。
分かってた。ここが地獄なのは。
でも逃げようとすれば、俺も死ぬ。
結界の外に出ようとしたら、俺もシロアもこの人と同じように燃えて死ぬ。
だから、駄目だ。
その現実を受け止めないといけないのに受け止められなくて、俺は何かに縋るようにシロアの方へ眼線を向ける。
しかし、そこいたシロアの表情はこの赤い世界に反するように真っ青だった。更に、握っている手は確かに小さく震えていた。
「シロア……?」
俺がそう声をかけると、シロアは肩を小さく揺らす。そして、ゆっくりとこちらの方へ顔を向ける。
「……大丈夫です」
そう言う彼女の顔は、やはり真っ青で汗が止まっていない。どう考えても俺より大丈夫じゃない。そんな様子を見て、ぐちゃぐちゃの頭と胃が少しだけ冷静さを取り戻す。
いくら自身が混乱していようと、更に混乱している人が周りにいると落ち着く現象が起きている気がする。
俺は握った手を、ギュっと強く握りなおしてから口を開く。
「シロア、ごめんな……」
「……えっ」
「いや、あの人を救けようとしてたの止めて」
「……いえ、分かってました。あの人がもう救からないのを」
そう言うシロアの顔は、後悔と悲痛に塗れていた。
「それでも、ごめん」
「……」
シロアは少しの沈黙の後、小さく息を吐いた。
そして、俺の顔を直視しながらゆっくりと口を開く。
「……赤い炎には近づかないでください」
「赤い炎って、あれ?地面とか建物にある」
「はい。赤い炎に触れれる程に近づいたら、先程の女性のように燃やされます」
「そうなの?詳しいな」
「……私は一度、これを体験しています」
衝撃が疾る。
こんなものを、一度経験しているのか?俺と歳が殆ど変わらない女の子が?
「マジで……?」
「はい。だから、結界の止め方も知っています」
「……なるほど」
色々合点がいく。
結界について、やけに詳しいと思っていたらそういう事か。
「時間がありません。早く行きましょう」
そう言うシロアの顔は、変わらず真っ青だった。
「これ以上、死人を増やしたくありません」
しかし、その眼には結界に入る前と同じように覚悟と決心が灯っていた。
「……そうだな」
その眼に答える。それが今の俺に出来る最善だ。
俺とシロアはその言葉を合図に、今度こそ赤い地獄の中を走り始めた。
走り初めて、5分程度経ったはずだ。
結界内は何も変わらず阿鼻叫喚が結界内に響き渡る。
この5分間で、眼の前で沢山死んだ。
沢山の人を見捨てて、沢山の人を見殺しにした。
シロアの言うように、赤い炎は近くにいる人間を捕食するように襲いかかってくる。そして、その炎は獲物である人間を燃やし尽くすまで追尾する。
「ギャアアアアアアアアア!!」
右側から悲鳴が聞こえる。
その声に呼応するように顔を向けると、そこにいたのはやはり赤い炎に襲われ、焼き尽くされている最中の人間だった。
俺達は後ろ髪を引かれるよう思いに満ちる心を押し殺して、前へ進む。
手遅れなんだ。だから、進め。
この結界を解除する事が、一番の最善だ。
そう自分に言い聞かせて。
道路には赤黒い肉塊が、至極当たり前のように無造作に転がっている。
全身が赤黒く爛れた人間達は、涙を流しながら何かに縋るように地面を張っていた。
電柱にぶつかって壊れた車の近くには、内臓をぶちまけながらぐちゃぐちゃに潰れた焼死体。
倒壊した建物付近には、赤黒く焼き尽くされた上半身と焼かれず綺麗に残った下半身。
公園の中には、人間の赤子の形をした赤黒い何かを抱き抱えながら泣き叫ぶ母親。
地獄絵図。それ以上の言葉は無い。
全ての悲痛も悲鳴も無視して、俺達は『赤い柱』に向かって炎の海を掻き分けながら走り抜ける。
道に這っていた赤い炎を避けて、建物に流れた炎を避けて、炎を避けて避けて避けて走り、20分ほど経っただろうか。
俺達はついに『赤い柱』付近へ辿り着く。
しかし、『赤い柱』がある場所は、あんまりにも見慣れた場所だった。
「学校かよ……」
走りながらつい、溜め息混じりな言葉が零れてしまう。
途中から嫌な予感はしていたが、まさか自分が通う高校とは思わなかった……しかも、あの『赤い柱』の位置的に中庭にあるな……
そんな事を考えながら、俺達は裏門から学校へ入る。
その瞬間、一つ違和感に気がつく。
「人がいない……?」
隣を走るシロアがそう零す。どうやら、シロアも同じ違和感を持ったらしい。
そうだ、今この学校にはどこにも人がいない。
みんな炎に焼かれたなら、最悪だが納得はいく。
しかし、そもそも『死体も無い』のだ。街中ではあれだけ見たのに、学校だけ死体が一つもないなんて、ありえるのか……?
そんな違和感を抱えながら渡り廊下を走っていた瞬間、『それ』は見えた。
「あれは……?」
この学校の渡り廊下の右側には教員用の駐車場があり、左側には中庭がある。
そんな左側の中庭には、予想通り『赤い柱』があった。
同時に、その『赤い柱』の中に『黒い剣』が剥き出しになりながら埋め込まれていた。黒い剣は柱の根元付近にある為、脚立とかが無くても取れそうだ
柱に埋め込まれている黒い剣は、刃が異常な程にボロボロに欠けており、鍔が無く、握り手も異質な程に細い。あれを剣として使用するには、あまりにも不便ではなかろうか。
そう思いつつ、俺は柱を指差しながらシロアに問いかける。
「シロア……あの黒い剣が『デザイア』?」
「……はい!あれです!あれが『デザイア』です!」
「あれが……」
とりあえず、見つかって良かった。あとは、あれを取ればこの結界を止められる。なんとかなりそうだ。
「暁理さん」
ふと、隣からシロア声が聞こえる。
「『デザイア』を取ってきます。危ないので、暁理さんはここにいてください」
そう言うシロアの顔は、俺からの許可を待っていた。
とはいっても、シロアはこの結界を一度経験しており、止め方も知っている。なら、俺のような素人が出しゃばって事故起こすより、シロアに任せた方がいいだろう。
俺はシロアの眼を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「……分かった。頼む」
「はい、いってきます」
隣にいたシロアはそう言うと、『デザイア』へ向かって走り始め……
────ザクッ
「……え」
無機質な音が響く。
音が鳴った方向にいたシロアの腹部は、ずっぷりと白い剣で貫かれていた。
「────」
声が出せなかった。
シロアの剣に貫かれた腹からはゆっくり血が流れ、それに共鳴するように、口からは「ゴポッ」っと吐き出すように血が溢れる。
剣が引き抜かれた瞬間、シロアは何も言わずに膝から崩れ落ち、そのまま地面に倒れる。
「シロア!?」
俺は倒れていくシロアの肩を掴んで支え、意思疎通を図る。しかし、シロアは苦痛に顔を歪める事が限界のようだった。
ぼたぼたと、腹部と口から血が落ちる。
無気力に、無秩序に落ちる。
思考がクラッシュする。
次の事なんて考えられなかった。
何が起きたか、俺は理解出来なくて────
「邪魔」
背後から、そんな男の声が聞こえた。
刹那、
────ドゴオッ!
衝撃が、身体に伝わる。
鉄のバッドで殴られたような、衝撃が身体に疾る。
「────ッ!?」
衝撃によって、シロアの腕と肩を掴んでいた手が離れる。俺は衝撃と重力に抵抗できず、そのまま右側である教員の駐車場の方に地面に倒れてしまう。シロアも同様に、俺の支えが無くなった事でそのまま成す術なく地面に倒れる。
「やっぱり来たか、クズが」
その言葉が聞こえた先へ、俺は反射的に地面から顔を上げる。
そこいたのは、何の装飾も無い黒い仮面を被った男だった。
仮面の男は、黒色の軍服のようなものを着ており、腰回りには黒いマントと剣を収納する鞘のようなものが備え付けられていた。また、その右手に握られている白く輝いた剣には、シロアの真っ赤な血が滴っていた。
その姿は異常そのものだ。2024年の日本では、異常でしかない。
しかし、最も異常なのはその男の左手だった。
その腕はまるで丸太のように巨大化しており、その腕には赤黒い蛆虫のようなものが大量に纏わりついていた。鎧のように纏っている赤黒い蛆虫は、カサカサと音が聞こえるかのように蠢いている。
気持ちが悪い。ただただ純粋に気持ちが悪い。
吐き気が止まらない。
俺は無意識のうちに口を手で塞いでいた。
「邪魔しかしないな、お前は」
仮面の男は腐敗した声で、シロアと知り合いかのような言葉を呟くと、地面に転がったシロアの顔面を、
────ドゴォッ!!
と、鈍い音が鳴る程に勢いよく蹴り上げた。
「────ッ!」
シロアは蹴られた衝撃で、身体が半回転する。
苦痛に歪むその顔からは、鼻血がダラダラと零れ落ち、頬は赤く腫れ、口からは血が変わらず流れている。
ダメだ。
あれは、あのままでは死んでしまう。
頭は混乱している。冷静なんてどこにも無い。
後先なんて一切考えず、俺は腕に力を込めて地面を押し、立ちあがろうとした。
「シロア!」
俺がそう叫んだ瞬間、
「だめだめ」
────ガシッ!
唐突に背後から締めるように腕を掴まれ、そのまま地面に押しつけられる。
「ゔっ!?」
その衝撃に何一つ抵抗できず、俺は地面に叩きつけられる。
「あれ?こいつ人間か」
「『サテライト』の連中じゃないみたいだな。ラッキー」
「とりあえず抑えとけ、殺すのは後でな」
「えー今じゃだめー?」
地面に押さえつけられた俺の後ろから、複数の人間の声が聞こえる。
俺は反抗するように顔を上げると、そこには、シロアを刺した男と同じように、黒い軍服と黒い仮面を付けた人間達が十数人以上いた。後ろからも、大量の足音と笑い声が聞こえる。
厭な予感がする。もしかして、この仮面達の数は二桁では無く、三桁ではないかと。
「おい、お前ら見てろ」
男は血が滴る剣を鞘にしまいながら、挑発的に言葉を発する。反射的にその声に反応してしまい、シロアがいる正面へ顔を向ける。シロアの腹部からは、変わらず無機質に血がダラダラと流れる。仮面の男の左手は、さっきの赤黒い蛆虫はおらず、いつのまにか普通の人間と同じような形をしていた。
男は仰向けになっているシロアの上に乗ってマウントの体勢になり、予定調和のようにシロアの髪を掴んで引っ張り、そのまま、
────ゴッ!
殴る。
────ゴッ!ゴッ!
殴る。殴る。
────ゴッ!ゴッ!ゴッ!
殴る。殴る。殴る。
「ほら!どうしたよ!前みたいに抵抗してみろよ!」
男は上機嫌に叫びながら、シロアの顔面を殴り続ける。
「ギャハハハハ!!」
「ざまあみろ!!」
「やれ!!潰せ潰せ!!」
シロアを殴り続ける男の周囲には、黒い仮面を被った数十人の人間達が、リンチを楽しむかのようにヤジを飛ばす。その笑いは奇妙な仮面に反するように、残虐な賊の笑い方だった。
────ゴッ!ゴッ!ゴッ!
何度も、何度も殴る。
シロアの顔が打ち付けられる厭な音が、何度も何度も世界に鳴り響く。
「……ッ!……ッ!」
シロアはその暴力に抵抗する事なく、殴られる瞬間に、ただ口から苦痛を零すだけしか出来なかった。
俺はそんな暴行の現場を、ただただ見ている事しか出来ない。
怖い。
身体の震えと、暑さによるものではない汗が止まらない。
怖い。怖くてたまらない。
これから眼の前で、シロアが殺される事が。
「おい」
唐突に、敵意がこちらを向く。
「何見てんだ?」
仮面の男はシロアの髪を引っ張りながら、挑発的に問いかけてくる。
「あ……いや……」
恐怖で呂律が回らない。
言葉が出ない。紡げない。描けない。
「びっくりするよなぁ。この世界の人間にとっては」
仮面の男は俺を嘲笑うように、馬鹿にするような声でそう言うと、シロアの髪から手を離してゆっくりと立ち上がる。同時にシロアの頭は、重力に逆らう事なく無造作に地面に落ちる。
そして、シロアはそのまま動かなくなってしまった。
死人の顔に白い布を乗せるように、シロアの白く乱れた髪が顔を覆う。シロアの着ていた外套は、血によって赤黒く変色しており、本来の灰色を失っていた。
そこに呼吸は無い。動きも無い。
それが何を意味しているかは、混乱した頭でも理解できた。
────シロアは、死んだ
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