第四話:「沈黙の部屋と、親父が残したもの」
ラファエル・クラインがノクトンという謎のシステムを追い始めてから、すでにいくつもの夜が過ぎ去っていた。ほんの断片的なファイルのヘッダや、取り出せないまま暗号化されているモジュール名をかき集めては、イーシスの壁に行く手を阻まれている日々だ。
ここのところ、彼はまともに眠ることもなく、机に突っ伏したままうとうとして、薄明りとともに目覚める、そんな生活を繰り返していた。壁のモニター群が放つ電子音と、冷えきったコロニーの朝が、いつもの景色になりつつある。
ある朝、いつものように頭痛を抱えながら起き上がったラファエルは、ふと、床に散乱した紙束の中に、親父の書いたメモが混じっていることに気づいた。
親父と呼ぶのは、ダークマター研究者と世間では評されていた男、シド・クライン。実父ではないが、幼少期に縁あってラファエルを養子として引き取った人物だ。血はつながっていなくとも、彼にとっては紛れもなく唯一無二の“親父”だった。
シドは極めて穏やかで、少し変わった発想を楽しむような男だった。表向きにはダークマター研究所の一員だとされていたし、実際に専門的な論文をいくつも集めていたが、一方で彼自身が書き残したノートには“アカシックレコード”をはじめとする一風変わった考察ばかりが目立つ。
ラファエルが幼いころは、シドのその奇妙な研究ノートを見ても意味がわからなかった。だが、大人になるにつれて、彼が語った断片のうちいくつかは案外筋が通っているらしいと気づきはじめた。
シドはダークマターの研究者という肩書きでありながら、実際には「宇宙の過去がどこかに記録されているはずだ」という思い込みに近い信念を持ち、いわゆるアカシックレコードをどう読み解くかというテーマに没頭していた。それを子供のラファエルは「親父は面白い人だ」としか受け止められなかったが、あのやわらかな笑顔と、どこか浮世離れしたまなざしを今でも鮮明に思い出せる。
いつかラファエルが素朴な疑問をぶつけたことがある。「どうして親父はそんな目に見えないものを研究してるの?」
するとシドは、ダークマターリアクターの複雑な図表を広げながら、「みんながダークマターに夢中になるのは大いなるエネルギーが得られるから。でも、その背後にはまだ誰も気づいてない仕組みがあるかもしれないよ」と言ってにこりと笑った。
「もしも宇宙の過去や時間そのものを再現できるなら、エネルギーよりずっと深い何かを見つけられるんじゃないかと思うんだ」
当時は難解すぎて意味が分からなかったが、今思えばシドは何か途方もない理論を追いかけていたのだろう。とはいえ、それがダークマターの実用化とは遠い発想だったからこそ、彼は周囲からは「よくわからない変人」「マッドサイエンティスト」などと呼ばれることもあった。
ラファエルは疲れた目をこすりながら、部屋の隅から親父の資料をいくつか引っぱり出す。ノクトンを探っているうちに、頭の片隅で「もしやアカシックレコードに近い何かが関わっているのでは」という妄想さえ芽生え始めていたからだ。
けれど、ノクトンはあくまでもEL取引の履歴を厳重に保管するシステムのようにしか見えない。ダークマターの影は見当たらないし、ましてやアカシックレコード的な要素など全く確認できない。
それでも、親父のノートを開くと、どことなく心が落ち着く自分がいた。ラファエルはしばらくモニターの電源を切り、懐かしい走り書きだらけのページを眺めながら思い出に浸ってみる。
シドはラファエルだけでなく、同じように境遇の厳しい子供たちを複数引き取り、ちょっとした私塾のように暮らしていた。家の中には論文や電子書籍が山積みで、子供たちは読みたい本を自由に手に取った。だが、養父が本当に力を注いでいたのは、ダークマターの最新理論よりも、むしろ過去や時間に関する大胆な仮説の方だった。
ちょっとした化学実験の道具や、興味深い機器もそろっていて、ラファエルたちは遊び感覚でそれらをいじり回していた。今にして思えば、あれが初めての「ハッキング体験」に近かったかもしれない、とラファエルは苦笑する。
だが、あの家はある日を境に崩れ去ってしまう。シドがいなくなったのだ。厳密にいえば行方不明であり、その行方や理由はわからないままだ。
残された研究資料と家財は四散し、子供たちはバラバラの道を行くことになった。ラファエルはなんとかこの辺境コロニーに腰を落ち着け、裏仕事をこなしながら生きていくしかなかった。親父が本当にどこへ行ったかを確かめる術もなく、ただ「いつかは自身の力で真実に近づく」という漠然とした想いにすがるのみだ。
彼がハッカーとして技術を磨いたのも、その延長にすぎないだろう。いずれシドの研究が示唆する何かに到達するため、あらゆるネットワークを覗ける手段を手に入れたかった。もちろん生活の糧を得るためでもあるが、心の底には常に「親父の残したピースを揃えたい」という大きな想いが渦巻いている。
ノクトンに執着するのも、もしかするとシドが愛した“見えない大理論”を垣間見るための扉かもしれない――そんな無意識の期待があるからこそ、ラファエルは命がけで探ろうとするのだ。
昼下がり、闇市から戻ったラファエルは、古いコンソールの前に腰を下ろす。昨晩仕込んでおいたスクリプトがログを収集していたはずなので、それを一つずつ検証する。
あいかわらずノクトンと思わしき通信は確認されず、ただイーシスの外郭サーバあたりで暗号の更新があった程度にとどまっている。手詰まりに近いが、やめる気になれない。
彼は小さく笑う。かつて親父シドが、結果の出ない研究を延々と続けられる執念を見せたのを思い出す。子供ながらに、「いつ終わるかもわからない努力を、どうしてそこまで続けられるの?」と不思議に思ったが、いまの自分も同じなのだと痛感する。
「へへっ、親父、あんたが見たら ‘無謀すぎる’ って笑うかもな」
誰にともなく呟き、ラファエルはコーヒーを口に運ぶ。コーヒーの粉は安物で苦みばかり強いが、この苦みに目が覚めるような気がする。
シドのノートをざっと再確認すると、そこに“ダークマターと時間の関係”を示唆するメモがいくつか書かれている。それを眺めていると、またふと「もしかするとノクトンは、この先に繋がるかも」という謎めいた連想が浮かんでしまうのだが、現状ではそれを裏付ける材料は欠片も手に入っていない。
何時間か経ち、コロニーの空が薄暗さを増すころ、ラファエルは思いついたようにノクトンへの迂回ハッキングを再開する。複数のプロキシを張り巡らせ、軍事系の接続ルートまで使う危険な方法だ。いままで何度も弾かれているが、そのたびにアップデートしたプログラムでテストを行っている。
「もし万が一、親父の言う ‘時間’ をどうこうする技術と繋がっていたら……いや、さすがに期待しすぎか」
彼は苦笑しながらダウンロードを試みるが、結局また通行止めを食らう。逆探知の兆候が濃厚になったところで慌てて回線を切るが、心臓が早鐘を打っているのを感じる。イーシスが本気を出せば、こんな小細工は一瞬で見破られるだろう。
それでも諦めないのは、やはり“奇妙な確信”があるからかもしれない。もし本当にノクトンが完全にEL取引を掌握しているなら、その力は凄まじい。もしかしたら、親父シドが夢見たような“過去の全記録”を連想させる何かだって秘めているかもしれない。
深夜になり、外は人通りも途絶え、コロニーの空気はしんと静まり返っていた。ラファエルはまた机に頬杖をつき、親父の資料に触れる。そこには何枚かの写真も残されていて、他の子供たちと一緒に笑顔で写っているシドの姿が映し出されている。
「親父……どこ行っちまったんだろうな」
思わず本音がこぼれる。いなくなって久しいが、たまに“フラッと帰ってきそう”な気がしてならないのだ。もし今ここに現れて「バカなことするな」と言ってくれたなら、ラファエルは少しは気持ちが楽になるかもしれない。
だがそれも叶わないなら、彼はこの道を進むしかないだろう。表沙汰にできない噂や情報を駆使して、ノクトンという闇の扉を開けてみせたい――その先で見つかるのは、どんな世界なのか。ラファエル自身にもわからないが、親父の背中を追うように、答えのない求道をやめる気はなかった。
「ただのEL履歴だってわかれば、それで納得するかもしれない。だけど、確かめずにはいられないんだよ」
そう独りごちて、彼は次の策を考える。いまはまだ直接的なハッキング以外にも、イーシス外郭の通信網に何らかの“情報の綻び”がないか調べようか。あるいは、時機を見て別のコロニーへ飛ぶのも手だ。それこそ親父に似て、常識を外れたやり方を厭わない性分だし、いざとなればこっそり撤退もできる。
これがラファエルの人間性の一面だ。強大な組織に立ち向かう無鉄砲さと、いつでも逃げられる柔軟さを併せ持つ。親父シドに倣ってか、自分の好奇心には素直で、それこそが生きる理由でもあるという気持ちを宿している。だから闇のハッカーと呼ばれる割に、どこか孤高な雰囲気をまとっているのだろう。
そして夜明け。再び眠気が襲ってきたラファエルは、モニターの電源を落とし、ベッドに倒れ込むように身体を投げ出す。そうして薄れゆく意識の中で思う。
「ノクトンが何であれ、いつか親父の残したものと繋がるかもしれない。あるいは、まったく無関係に終わるかも……」
答えはわからないが、少なくともラファエルが選ぶ道は一つだ。やり過ごすなんてまっぴら。どんなに危険でも、親父が示した“発想の限界を超える探求”を追体験したい。それこそが、彼の人生を彩る意地とも言える。
こうして眠りに落ちた朝、辺境コロニーの空は曇天に包まれ、イーシスのどこかでノクトンが今日も密やかに動いているかもしれない。ラファエルはまだ、その扉を開く鍵を見つけられずにいるが、諦める気配は微塵もなかった。
あとがき
◇ダークマター理論
本作の世界では、人類が宇宙へ進出する以前から、宇宙空間には暗黒物質が大量に存在しているという仮説が唱えられていました。ただし、その正体を解明するまでに非常に長い歳月を要し、理論の検証が困難だったため、当初は学界からも半ばオカルト扱いされていた時代があったのです。
しかし、ある天才的な研究者(歴史上のマリカ・マリック)によって「ダークマターの中には特殊なエネルギー成分が含まれており、適切な理論と技術を使えば抽出可能ではないか」という仮説が提示されました。この仮説がいわゆるダークマター理論の源流となります。
その後、多くの研究機関がこの理論を深め、膨大な資金と時間を注ぎ込んで実験を重ねた結果、ダークエネルギーを安定的に取り出す手法が確立されました。これがダークマターリアクターの誕生へつながった大きな一歩です。
理論の核心部分では、ダークマターが普段の物質や光を通さない“見えない存在”であるものの、特定の条件を整えれば内部に保持されたダークエネルギーを誘導・加速し、効率よく取り出すことができると説明されています。いわば未知の領域を数学と物理の交差点で“突破”したともいえる技術であり、本作の世界を支える大きな科学的基盤です。
◇ダークマターリアクター
ダークマター理論を基礎として、約4500年前に実用化された画期的エネルギー装置です。ほぼ無限に近いエネルギーを供給できるため、人類は一気に宇宙開発へと踏み出しました。それまで深刻だった資源やインフラの制約が解消され、軍事・経済・輸送などあらゆる分野が飛躍的に成長。ギャラクシーユニオンが成立した背景にも、この無尽蔵に等しいエネルギー供給が大きく影響しています。
ダークマターリアクターは、ダークマター内部のダークエネルギーを高速で抽出・変換する複雑な機構を持ちます。理論上は永続稼働できるとまで言われていますが、同時に安全管理は非常に難しく、建造には銀河規模の技術力と莫大なコストが必要とされています。
◇EL
銀河統一通貨。ギャラクシーユニオンが3000年前に誕生したのち、約2500年前から段階的に導入され、さらに1500年前に“完全固定価値”へと移行して現在に至ります。どの惑星でも同じ価値で流通する信用通貨であり、銀河規模の商取引を円滑にする基盤です。
エネルギーが豊富になったことで、惑星間の産業が拡大するにつれ、経済面の管理も複雑化しましたが、ELの存在が星々を一つの市場へと繋ぎ止める大きな役割を果たしています。
◇ELライブラリー
ギャラクシーユニオンによって設置された、分散型データセンターの総称。天の川銀河の五つの腕それぞれに拠点が置かれ、ELの取引履歴(EL・ログ)を相互補完的に保管しています。
もとは一か所で集中的に管理していた取引記録ですが、取引量が爆発的に増加したため、より強固かつ拡張しやすい分散管理へ移行しました。かつてのブロックチェーン技術を大幅に発展させ、改ざんを防ぎながら膨大な記録を効率よく保存しています。
◇EL・ログ
ELに関する全取引を記録する巨大データベース。銀行や証券、惑星間貿易など、銀河規模で行われるあらゆる取引が蓄積され、定期的にチェックサムが作られながら改ざんを防いでいます。
表向きは誰でも自分の取引履歴を閲覧できるようになっていますが、過去の全データに深くアクセスするには、高度な権限が必要です。現在はイーシスや専門家だけが“完全な”EL・ログを読み解けるとされています。
◇ノクトン
EL・ログの監視や解析を高度化させるための最先端技術ないしシステム。従来の分散管理をさらに一歩進め、改ざんや不正取引の痕跡をいち早く検知する能力を持つと噂されています。
イーシスの最高機密とされているため、その詳細は公表されていません。物語の舞台では、“実在するらしい”というレベルの極秘システムとして登場することが多く、その解析技術の正体は謎に包まれている状態です。
◇ギャラクシーユニオン
全銀河を統一する政治・経済連合。約3000年前に成立し、植民惑星や多種多様な文化を一元管理するための枠組みとして機能しています。
高度な議会制と官僚制を持ちつつ、各惑星の自治も尊重しており、通貨(EL)や安全保障、外交、文化交流など、多方面で絶大な権限を振るっています。現在の銀河文明の基礎を築いた中心的存在といえるでしょう。
◇イーシス(Interstellar Security Intelligence System)
当初はギャラクシーユニオンの経済安全保障部門として設立された組織でしたが、極端な独立性を獲得し、現在では銀河を超越する監視能力を備えた巨大機関です。
EL・ログの保護や不正防止だけでなく、サイバー攻撃対策や経済全体の安定維持を務めています。その徹底ぶりゆえに、“ギャラクシーユニオンすら制御できない”という噂が絶えず、物語においても大きな影響力を持つ存在として描かれます。
◇まとめ
本作の宇宙社会では、ダークマター理論によって生み出されたダークマターリアクターがエネルギー問題を解決し、人類は銀河規模の繁栄を手にしました。しかし、その恩恵に伴い経済の管理が膨大になり、やがてELが銀河統一通貨として採用された背景もあります。
ELライブラリーやEL・ログは、この銀河規模の通貨流通を支える要となり、さらにノクトンのような機密システムも加わることで、不正取引や改ざんをほぼ不可能にする体制が進んだとされています。
ダークマター理論は、宇宙に無数に漂うダークマターからエネルギー成分を安定的に抽出するための枠組みです。その研究は初め難航を極めましたが、最終的にはダークマターリアクターという画期的装置を生み出し、今の宇宙文明を大きく変革しました。エネルギー不足が克服されたことで、人々は遥か彼方の惑星へ移民し、銀河規模の経済圏を形成するまでに至ったのです。
しかし、銀河文明が発展する一方で、通貨システムの管理や不正防止には常に新たな課題が生まれます。ギャラクシーユニオンが設立したイーシスは、その最前線で活動し、ELの安定を死守する役割を担ってきました。ノクトンは、その活動をさらに強固にするための秘匿技術とも言われますが、詳細は明かされておらず、物語では大きな謎をはらんでいます。
本作では、こうした背景設定を下地に、登場人物たちがダークマターやELをめぐる謎へと迫り、それぞれの思惑や運命を交差させていきます。ダークマター理論が描いた夢を、銀河の経済や通貨がどのように受け止め、そしてノクトンの秘密が物語にどう絡むのか――そこが読みどころとなっています。