第一話
2011年11月19日(土曜日)
「翔ちゃーん。」
母の声が家中に響いた。
「はーい!」
元気よく返事をしたのは、9歳になったばかりの中谷翔太だった。
「翔ちゃん、これお金とメモね。これで電車に乗って、おばあちゃんのお家まで行くんだよ。」
母は五千円札と、行き先を書いたメモを翔太に渡した。
「お母さんは行かないの?」
翔太が不思議そうに聞くと、母は少しだけ目を伏せて答えた。
「お母さんはね、風邪を引いてて具合が悪いの。」
翔太は、それが嘘だとすぐに分かった。母は父方の祖母と仲が悪い。それが理由だろうと察したが、翔太はそれ以上何も聞かなかった。
「お母さんがいなくても、大丈夫だよね?」
不安そうに聞く母に、翔太は小さく頷いた。しかし、一つだけ心配事があった。
「健太はどうするの?」
「健太には、翔太っていう立派なお兄ちゃんがいるでしょ?」
母は微笑みながらそう言った。
「うん……」
翔太は少し不安そうに答えた。すると、その時、幼稚園児の弟・健太が部屋に入ってきた。
「ママ、お腹空いたぁ~!」
時計はすでに12時を過ぎていた。
「今すぐご飯作るね。今日は健ちゃんの好きなオムライスだよ。」
「やったぁ!」
大喜びする健太の姿を見て、翔太はほんの少しだけ不安を忘れた。
13時16分
翔太と健太は手を繋いで家を出た。外は少し寒かった。
「お兄ちゃん!楽しみだね!」
健太が笑顔で言う。その言葉が、おばあちゃんに会うことへの楽しみなのか、兄と一緒に出かけることへの期待なのかは分からなかったが、翔太は短く「そうだね」とだけ返した。
家から歩いて5分ほどで駅に着く。少し大きな駅だ。翔太は、以前父と来た時の記憶を頼りに、迷うことなく切符売り場へ向かった。
券売機の前で立ち止まり、ポケットから母のメモを取り出す。メモに書かれた駅名を、路線図の中から探そうとするが、なかなか見つからない。
「えっと……えっと……」
焦る翔太に、駅員が声をかけた。
「どうしたの? 切符買いたいの?」
突然の声に驚きながらも、翔太は小さく頷いた。
「行きたい場所はどこ?」
駅員にメモを渡すと、彼はすぐに目的地を見つけてくれた。
「ここだね。じゃあ一緒に買ってみようか。」
優しい駅員の姿に、翔太は少し安心した。
だが、その時だった。
「切符は一枚でいい?」
駅員の問いに、翔太は首を振りながら答えた。
「ううん、健太がいる。」
そう言って振り返ると、そこには健太の姿がなかった。
「健太がいない……」
呆然と呟く翔太に、駅員は冷静に言った。
「迷子になっちゃったのかな? とりあえず探そう。健太君の特徴を教えてほしいから、事務所に来てくれる?」
翔太は言われるがまま、駅員について行こうとした。
だが、その時だった。改札の向こうから、子どもの泣き声が聞こえた。
翔太は嫌な予感がして、駅員に何も言わず泣き声の方へ走った。改札を強引にくぐり、人だかりを掻き分ける。
そして、見つけてしまう。
線路上で泣いている健太の姿を。
「健太!」
翔太は恐怖を感じながらも、ホームギリギリまで駆け寄った。しかし、ホームと線路の間の高さが思った以上にあり、足がすくむ。
その時だった。右手のトンネルから、電車が迫ってきた。
「誰か助けて! 早く!」
翔太は周囲に助けを求めた。だが、誰も動かない。誰も助けようとしない。スマートフォンを向ける人々と、パニックに陥る人々。その間にも電車はブレーキ音を響かせながら近づいてくる。
「健太……」
翔太の目の前で、電車が線路を走り抜けた。そして、鈍い音が響いた。
電車が完全に停車した頃には、辺りには焦げ臭い匂いが充満し、悲鳴が上がっていた。
しかし翔太には、それらが遠い音のように感じられた。ただ呆然と立ち尽くし、泣くことさえできなかった。
2011年11月19日(土曜日)13時35分
弟、健太は命を落とした。