タイトル未定2024/04/01 00:14
近頃、私の身に奇妙なことが起こるようになった。それはパラレルワールドの存在を示唆し、記憶が点在することを意味する。あるいは、記憶の脆弱性や、意識の氾濫が頻発することを表している。
というのも、私の身にしばしば起こるその事象とは、現実と著しく乖離した事象が確かな記憶として脳裏に残る、というものなのである。
例えば、アルバイト先のタブレット上で通販の依頼を確認する際、私は確かに「つけ麺」の注文を目にして「つけ麺」を作り始める。ところが、数分後になって確認のため再びタブレットを開くと、注文内容は「らーめん」に変わっている。私は別に日頃から「つけ麺」のことを考えているわけではないし、「つけ麺」を作りたいと願っているわけではないのだから、注文内容が数瞬の間に変わっているとしか思えないのだ。
他にもこんなことがあった。数週間ほど前、私はひどく憂鬱になり、近所を歩いていた。少しでも気を紛らわせるためにその様子を記した文章を以下に記す。
*それからしばらく急峻な坂を上る。私は歩きながらここがどこであるのか分からなくなった。私は何に縛られ、何に突き動かされ、どこへ行くと言うのか、一切が闇に包まれた。次第に足元さえおぼつかなくなり、空中で舞っているような心地になった。気が付くと住宅街に高くそびえるコンビニエンスストアの看板があり、恋人とキャッチボールをした公園につく。自販機で買った缶コーヒーを啜りながら、脇を流れる冷や汗を止めることが出来なかった。ふと、私は死んでいるのだと思い始め、それを否定する明確な理由が見つけられなかった。すれ違う人は皆、私を呼び止めはしないし、避けようともしない。私が避けなければ当たっていただろうか。もし私が誰かとぶつかりさえすれば、ようやく私が実体をもつ人間であると証明される。再び道に出て歩を進める。そこには誰もいなく、ダウンジャケットをクリーニングに出した店は閉店を報せている。
長ったるい文章であるが、ここで問題にしたいのは最後の一文である。私は確かにクリーニング屋の前で閉店を報せる貼り紙を見つけ、そのことを後に文章に残している。しかし、それから数週間過ぎても閉店の気配はないし、何よりこの日より後に貼り紙の一枚すら見ていない。本当に閉店するのであれば、最終営業日まで貼り紙を剥がすことなどないはずである。
以上のように、現実と交わることのない世界の記憶が、現実を生きる私の中にある。とはいっても便利なものではないから、私は記憶と現実の齟齬に頭を悩ませるばかりの日々を過ごしている。
思えば昔から親の顔を覚えるのが苦手であった。どこかに親しみを感じつつ、親を前にしなければその顔を思い出すことがひどく困難に思えた。それは当時から、私の記憶が様々な世界を行き来して、親ひとりの顔を覚えるのに十分なスペースを持っていなかったから、あるいは世界によって親の顔つきが微妙に異なるものであったからなのかもしれない。