3.面倒なお願い
ミュエの生活は、毎日がくしゃみをしているかのように賑やかなものになった。
子守歌に赤ん坊の声を聞き、目覚まし時計代わりに赤ん坊の声がする。清々しい朝とは程遠いが、くたびれていたとしてもリビングできゃいきゃいと高い声を出すふくふくの笑顔を見るとすっと肩の力が抜けるものだ。
悪くないと思ってしまえば慣れるのは早い。最初はぎこちなかった抱き方も、今やその腕で赤ん坊が眠るほど。
今日も今日とて、赤ん坊の泣き声で目が覚めたミュエは長い髪を片方の肩へ流し、寝室からリビングへ向かう。目を細め、小さな口を大きく開け、短い手足を暴れさせている様子に、寝起きの眉間の皺が緩まった。そのうちにもう一人も泣き始め、小さな部屋を満たす大合唱も元気の証と思えば何一つとして煩わしくはない。
玄関から入って横一列に並んでいるゆりかごは、庭側の窓から明るい陽射しが入り込み、静かに眠る美しいものを照らしていた。
「お前だけがまだ目を開かんなあ」
癖っ毛の黒髪碧眼の女児、直毛の金髪碧眼の男児、そして淡い青色の髪に若木のように緑の目をした妖精の子ども。この子はミュエが抱いたときに一度目を開いただけで、それ以降は身体を洗っても散歩に連れて出ても眠ったままだ。チェンジリングの取替え子――つまり、人間ではないので、他の二人と成長や反応が違っても焦っていない。健康状態に影響が出ていないことも日々の観察で確認している。
風に吹かれれば飛んでいきそうな細い睫毛を小指につつくが、相変わらず目を覚ます気配もない。しかし、ミュエは百年、二百年という長い時間さえも待てる魔物だ。いつか泣き声を聞くまで、辛抱強く待つとしよう。
少しずつ部屋の中を光で満たしていく時間帯。指で赤ん坊の体温や肌の具合を確かめていると、デューがブランケットをミュエの肩へとかけた。
「……おい、もうすぐ雨季だぞ」
日が差さなくても明け方から暖かくなり、夜が短くなってきていることには気付いているはずなのに、少しばかり過保護が過ぎる。赤ん坊を連れて来た当初はおっかなびっくりといった様子だったのに、数日もすればすっかり子守りが板についたデューは、ミュエの小言を無視して赤ん坊のガーゼのタオルをかけなおし、小さい癖にふっくらとした腹を叩きあやしている。もう一人は、いつの間にかマンドラゴラがしがみついて揺りかごを揺らしていた。
ミュエが眠っている時間でも、リビングではアッシュボーンが一日中面倒を見ていることもあり、子育ては想像よりは上手くいっていた。
赤ん坊三人が住み始めたことで隅に寄せられたテーブルに頬杖をつき、明るくなっていく空を眺める。
今、ミュエが頭を悩ませているのは、彼らの名前のことだ。ここには言葉を話す魔物がいないので、ミュエは自分がわかればいいのだが、成長すれば必ず名前が必要になる。赤ん坊、子ども、といつまでも呼び続けるわけにはいかない。なぜか調合室にある教育本にも名前で呼ぶことは大切だと記載があった。
人間の成長は早いと、ミュエは知っている。ミュエにとっては瞬きの一瞬で言葉を話すようになり、歩き、ものを考え、自立心が芽生え、誰かを愛することを知り、子どもを成し、死について考えるようになるまで、百年も満たない。のんきに悩んでいては、赤ん坊が互いを呼ぶのに不便だろう。
しかし、適当ではいけないことくらい、ミュエでもわかるのだ。種族名や生い立ちから名前をつけたデュー、アッシュボーンは前例にならず、マンドラゴラは個体名ですらない。
額を押さえ、ここ数日続くため息を今日も吐く。揺りかごを見ると、デューとマンドラゴラにあやされて赤ん坊はご機嫌に笑っていた。背の低いミュエからは揺りかごから覗く小さな手しか見えないが、あの花のような手も一瞬のものだと思うと、一歳に満たないうちから彼らに対して寂しさを覚えていた。
子育てに力を借りるつもりも、ましてや父親になってもらう必要もないが、ミュエが相談できる相手と言えば、やはりたった一人に限られてしまう。
薬の依頼に訪れた人間、アーランドは、紅茶を飲みながらミュエが何か言いたそうにしかめっ面をしている様を、にこにこと笑って眺めていた。何か言いたそう、と気付いていても自分からは聞こうとしない姿勢は当然ミュエにも伝わっており、余計に苛立たせ、広義では頼る行為を躊躇わせる原因だった。
「いやあ、今日も子どもたちは元気ですねえ」
ミュエの言いたいことが赤ん坊関連だとわかっているからこそのわざとらしい話題の切り出し方。視線は一切揺りかごの方向を見ていないのも、非常にわざとらしい。
「……もうすぐここを離れるんじゃなかったのか?」
口角を震わせながらも笑みの形を作り、喧嘩腰に問いただすが、アーランドは飄々としている。先日の醜態は、彼の中ではなかったことになっているようだ。
「雨季が始まる前に後任が来ますよ。引継ぎをしたら、僕はここを発ちます。長いこと、お世話になりました」
白磁に蔦の模様が入ったティーカップが、ゆっくりとテーブルに置かれた。アーランドが来訪のたびに茶を求めるものだから、アーランド用として用意されたものだ。
初めて来たときはまだ可愛げがあったような気がするが、振り返る必要もないほどの時間は、やはり、人間とは感覚が違うのだと知らしめられているようだ。
「最後まで大人しくしていれば、余計なものを見ずにすんだろに」
椅子の上であぐらをかき、ミュエはアーランドの懐古に付き合うことにした。赤ん坊が静かに眠っている間の、暇潰し程度に。
顔を俯かせ、素っ気なく言ったミュエの言葉にアーランドは最初何のことか見当つかない様子だったが、ティーカップから揺らぐ湯気の奥で黄金が刺すように見つめたとき、ようやく理解した。