面倒な依頼(5)
「……お前、何しに来た」
「違うんです」
「おい」
「あなたを、利用しようと思って、近付いたわけじゃないんです。魔法使い……さま、なら、ただ教えてほしかったと思ったし、それ以上に、リリーさんを助けられるとすれば、あなたしかいないと思っていて、だから」
「おいお前!!」
ミュエがテーブルに足を乗せ、大きな音が響く。ぶわりと浮いた髪が広がった後に重力に従って背を覆い、黄金の中心に座す苛烈な赤が縦の細くなっていた。空気がびりびりと震えても、いじけた子どものようにアーランドは顔を上げない。
「お前、そんなくだらんことを言いに来たのか!」
壁が吹き飛びそうな怒号にアーランドはようやく顔を上げた。眉が下がり、今にも目に張った涙が零れそうな表情は、ミュエの心臓を跳ねさせるには十分だ。
「今日、治療院の方が来て」
治療院と言えば、魔法師の中でも光属性を持ち、有能な人材が集められた集団だ。病を癒したり、怪我を治したり、薬と包帯で治療に当たることもある。ただ、所詮はたかが人間にリリーを回復させることは難しいということは、二カ月以上勉強しているミュエにはわかりきっている。
「リリーさんの子どもを見たんです。そうしたら、もう、胎児のうち一人は危険な状態だって」
治療院は中央部にしか存在せず、各地からの要請が多い。最東端に近いこの街に来るには時間がかかったのだろうが、治療院の魔法師が来ると聞いたリリーがそのことを知ったときの衝撃を想像もしたくない。
胎児が危険な状態。死にかけている。その事実を受け止め、ミュエはキッチン横の扉から駆けていく。靴は履いていない。裸足で、ロマジカの森の深く、深くへ走っていく。
「待って、待ってください、ミュエさん……!」
土属性の魔法師であるアーランドは靴に嵌めこんだ魔法石を光らせながら必死でミュエを追いかけた。足場の悪い道を瞬時に整え、ミュエが飛んで超えた倒れた木は土の力で腐敗させて道を作り、鬱蒼とした森の中で揺れる緑の髪だけを見つめて足を動かす。
追いついた場所は、暗い泉だった。息絶え絶えのアーランドに比べ、泉の畔に立つミュエは少しも息が切れていない。木々が揺れ、風が空へ舞い上がる。
「甘かった、まだるっこしい真似を、していた……」
悲痛な呻き声の中でかろうじて聞こえた言葉を、アーランドは確かに聞いた。
小さい背中を隠す髪が風に舞い、毛先は炎を宿したように赤くなっている。
「ミュエさん……」
ミュエの髪がうねり、長さを増していっても毛先は地面につかなかった。それだけミュエの背も伸び、汚れた裸足には青緑の鱗に覆われていく。そして二本の足はいつしか一本へと変わり、重力に逆らう髪は意志を持って天へ伸び、肩や背中へと落ち着いた。ミュエの背で頭を持ち上げているのは見間違えようなく、蛇。目を閉じていても、ちろりと見せる赤い二股の舌が毒々しさを醸し出している。
蛇の尾を入れずに二メートル。全長はその倍はありそうな巨体に、鱗、蛇の髪。ここまで揃えば、彼女が魔法師でも魔法使いでも、人間でもない、メデューサという上位魔物であることは、誰の目にも明らかだった。
アーランドは腰を抜かし、そばの樹木を支えにしなければ今にも倒れてしまいそうだ。だが目を離せない。鋭い黒い爪で泉の水を撒き散らし、その飛沫を浴びて輝く後ろ姿は、教育機関で習ったものとは違い、美しいものとしてアーランドの目に映っていた。
「妖精ども!!」
ずずん、と地面が揺れるほどの力で爪を地面に立てたミュエが、いつもの少女らしい声ではなく、大人の女性の声で叫んだ。肌を刺す気迫に息が詰まったのはアーランドだけでなく、あちこちの木から下級の魔物が転がり落ちる音がした。蛇の尾を振り乱すたびに地面にくぼみが増え、運悪くミュエのほうに転がってきた下級魔物は爪に捕まって遠くへ投げ飛ばされていく。
「メデューサがここにいる……。一口で何匹食えるか、試してもかまわんぞ……!」
泉の周辺を這い、低く唸って脅すのは妖精に向けてのものだ。ミュエの意図がわからないアーランドはただ茫然と見守ることしかできなかったが、ちかり、ちかり、と泉の真ん中が光ったと同時にその光はまっすぐ空へ向かって飛び上がり、木々を通り越した後に直角に曲がる。街の方向へ飛んでいく。
「出た!」
ミュエが振り返ると、反動で尾が木々をなぎ倒す。砂埃の立つ中心でミュエが何かを叫んだ。
アーランドの視界が晴れた頃にはミュエはおらず、荒れた森だけがメデューサの存在を夢ではないと語っていた。
ミュエにはアーランドに構う余裕がないのだ。待ち望んでいた光の出現を確認し、魔物の言葉でアッシュボーンに命令を下した。今頃、リリーはミュエを信じていれば青い炎に気付き、小瓶を飲み干しているはずだ。デューの能力で影から影へ移動する数秒の間、ミュエは祈ることしかできなかった。人生で数えるほどしかしたことのない手を合わせ指を組む仕草は、形ばかりではない。
ミュエがリリーの家へ着くと、家が壊れそうなほどの産声があった。
「おい!」
枕元へ行けば、リリーは青白い顔で目を閉じている。床には空っぽになった小瓶が転がっていた。声をかけたいが、ミュエはまず赤ん坊の対応をしなければならない。血に濡れたシーツを剥ぎ取り、赤ん坊を一人一人確認していく。
へその緒を括り、ベッドから落ちないよう、体温を失わないよう棚を漁りタオルを取り出し包んだ。やけに多い新品のタオルが、リリーが子どもたちを待ち望んでいた証であり、ミュエはそれだけで胸が張り裂けそうだった。二人の赤ん坊は力いっぱい泣いており、赤い額にアッシュボーンの灰を擦りこんでおく。
さて、問題のもう一人、と思ったところで部屋の外が光り、ミュエは影へ急いで潜む。窓をすり抜け入ってきたのは、虹色の羽を持つ手のひらサイズの妖精だ。妖精はベッドに転がり元気よく泣く二人を見て、わずかに眉間に皺を寄せた。それを確認し、ミュエは心の中でよし! と叫ぶ。
妖精はしばらくその場に留まり、向かったのはリリーの足の間。かろうじて息はしているが、泣く力のない最後の一人。
『この子がきれいね』
妖精は魔物にしかわからない言葉でそう言って、自身から光を分ける。体部から離れた光はベッドに下り、泣けない子どもが宙へ浮いて妖精の目の前で止まる。妖精はそのまま赤ん坊を連れて来た道を戻って行く、その途中で影を睨み、
『次はなくてよ』
と、確実にミュエへ向けて言い、光と共に姿を消した。
妖精に釘を刺されたミュエは影から這い出て、光が落とされた場所へ慌てて駆け寄る。そこには頬を赤くし、すやすやと赤ん坊が眠っていた。上手くいくか不安だったが、最高の形で成功したらしい。気が抜けて床に座り込みそうになる膝を叩き、ミュエはリリーへ近付く。
「おい……。おい、お前」
言葉を発する力は残っていないらしいが、唇はかすかに動いた。なにも伝わらないが、赤ん坊を気にしているのだろうと察してミュエは三人を枕元へ集める。
「聞こえるか。お前の子どもの声だ。危険と言われていただろうもう一人の子も、元気に育つだろう。いつか、お前の元へ歩いて帰ってくるだろう。お前の耳元でやかましく泣いているのは、お前が産んだ子だ。もう一人も、必ず、お前の……お前に、会わせてやる」
すう、とわずかに開いた瞼の下で、涙が零れた。血の匂いが濃い。死の匂いが、満ちている。死期を悟った人間の顔がミュエは嫌いだった。痛い目を袖で擦ろうとしたが、一度元の姿に戻ったせいで着ていた服はすべて微塵となってしまっており、隠すものがない。
リリーは確かに、赤ん坊を見た。ミュエの言葉がどこまで届いたかわからないが、赤ん坊の声はこれだけ大きいのだから届いているはずだ。何より、リリーは母親なのだから。
「……お前」
ミュエの立てた計画を説明するだけの時間は残されていない。それならば、何を言えばいいのだろう。赤ん坊が転がり落ちないようベッドの柵になるしかできないミュエが目を泳がせ、もう一度リリーを見たとき、美しいエメラルドが強く光った。ミュエがリリーへ顔を寄せると、額に柔らかく、かさついたものが触れた。
赤ん坊にではなく、ミュエに、最期の言葉を残し、リリーは静かに息を引き取った。