面倒な依頼(4)
街の影でデューを呼び、一瞬で家へと戻ったミュエは暖炉の前で蹲っていた。アーランドのことなどはどうでもいい。頭を占めるのは、リリーのことだ。雨季が来るという温かい季節に、ミュエへブランケットをかけるのはデューなりの気遣いだろう。
ここに居を構えて、悠々自適に、のびのびとした生活をしていたミュエの珍しい姿にこの部屋に住む魔物が心配をして姿を現していた。アッシュボーンは灰でそっと靴先に触れ、マンドラゴラは床につきそうなおさげを支え背中にひっついている。尾が三つに裂けた猫は窓辺で丸くなりながらミュエを見つめ、天窓からは丸い青緑の目がふたつ覗いている。
「どこも怪我はしていない」
チッ、チッ、火花が鳴る音はマンドラゴラの泣き声だ。自分を食べろ、と語りかける大合唱に、ミュエは力なく返した。
マンドラゴラを使って薬を作ってリリーの苦痛を和らげることはできても、それは彼女の望むものではない。魔毒に近い効能にもなるその薬が胎児に影響がでないとミュエは断言できなかった。
「はあ……。あぁ、めんどうくさい。どうして、クソ、あの男……」
ミュエが願っているのは、安息だ。静かに、穏やかに、時間の流れを感じていたいだけ。いつか来る日を待ちながら、息をしていたいだけ。二年もの間、アーランドと関わることをしなければ、リリーのことなど何も思うことなく切り捨てることができただろうか。人が死ぬことは、自然の摂理だと。
ミュエは自身の正体を暴かれたくないのだ。自分の身を守りたい。
だが、リリーの今にも消えてしまいそうな体温や笑顔が、ミュエの心の要塞を砕く。
「……どうしたら、いいんだよ……」
頭を抱え、膝へとぐりぐり額を押し付けた。
指に絡まる髪を解き、撫でてくれるひとは、今はいない。深いため息を糧にしたように強くなった暖炉の炎がミュエを赤くしていた。
悩めば悩むほど時間は早く過ぎていくもので、暖炉の前で一晩過ごしたミュエは脳の疲労を感じながら立ち上がる。リビングの床の一部を持ち上げると現れる階段を下り、ジャンプをしながらついてくるマンドラゴラはミュエが髪を解いた瞬間に葉の部分で似た色のそれを受け止めた。
身に着けている装飾品を適当にあたりに落とすと、床に当たったものもあれば、以前ここで外して眠ったままの装飾品に当たってチリンと軽い音を鳴らすものもある。つま先で邪魔を蹴散らしながら、螺旋を通り過ぎた先には小さい身体には不釣り合いなほどの大きな浴槽があった。
直径五メートルはありそうな円形の浴槽に足を入れると階段状になっており、深くならない場所に座る。畑や森に出かけた後はゆっくりと身を清めるのが楽しみでもあるのに、そんな余裕すら昨日はなかった。
森の泉から直接水を引き、魔法石で温める天然温泉にはいくつもの燭台が置かれ、蝋燭の火が地下を照らしている。暖炉とは異なり、揺れる小さな蝋燭の火を見ていると、儚さからリリーの顔を思い浮かべてしまう。
見捨てれば、ひどく後悔し、今後消えない傷となるとミュエ自身わかっている。
「だから、関わりたくなかったんだ……」
息をひそめ、誰の目も触れず、雄大な自然に身を任せていたかった。時間の流れを感じないくらいに。
湯をすくった手のひらを顔に当て、もう少し深い場所へ進めばたちまち身体が沈む。浴槽に入れないマンドラゴラが髪を引っ張っているので深くまで沈むことはないが、膝を抱えて丸くなり、ミュエは目を閉じてあぶくを吐く。
きっと、あの綺麗な娘の腹の中も、まどろむくらいに心地いいのだろうな、と。
どれだけ悩んでも、きっと自分は見捨てることはできないだろう。ややヤケクソとは言えリリーの願いを叶えることに尽力すると決めれば悠長に構えてはいられない。時間はいくらあっても足りないのだ。調合室に山ほどある棚や壁に取り付けられた収納棚、床に散らばった木箱からいくつものノートや本を取り出して日がな一日ページを捲った。飲食物を調合室に持ち込みたくはなかったため、ミュエはデューのノックやドアの隙間から入り込むアッシュボーンの灰に足を撫でられ、食事や水分を摂るようにした。
多胎児の出産の記録、母体の栄養管理、気になる言葉を見つけるたびにその前後の文章を読み、関連ページや注釈、引用した人物の本を読みふける。紅茶ではなく、マンドラゴラが浸かった湯を啜り体力を保ちながらミュエは過ごし、――一つ、希望を見つけた。
その間、アーランドは姿を現さなかった。
ミュエとリリーが出会って、二カ月は経とうとしていた。
デューの影の力を使いリリーの部屋へ忍び込むと、火の揺れでリリーは目を開く。フードを被った突然の来訪者にも驚かず、汗の浮かぶ青白い顔に微笑を浮かべた。
「待っていたわ、魔法師さん」
パンプスをこつんと鳴らしながら一歩近づき、そっと頬に触れると汗をかいているのに体温は低い。貧血、栄養不足、ここ数ヶ月で得た知識で簡単に症状を考えることはできたが、ミュエはそんなことをするために来たのではないのだ。
ショルダーバッグから取り出したのは液体が入った小瓶。最後に見たときよりも骨が目立つ指に握らせ、痩せた金糸を撫でる。
「私は魔法師じゃない」
ミュエは嘘が嫌いだ。だから、アーランドが語って聞かせた偽りを解く。
「それでもお前を……お前の望みを、叶えたいと思って、いろいろと方法を探し、一つ、今、試していることがある」
リリーは微笑を浮かべたまま黙って耳を傾けていた。騙されていたことをどこかでわかっていたような表情だった。
「必ず、とは言えない。私も初めてのことだ。成功するかわからん。なんせ、人間以外の力を借りようとしているからな」
「では、あなたは、天使なのかしら」
「まさか。――……そんな綺麗なもんじゃないさ」
目を伏せ、肩を竦めて笑った後にミュエは蝋燭のそばに灰を一握り落とした。
「これが碧く燃えたとき、その小瓶の薬を飲め」
「えぇ」
「……天までまっすぐ、道標になるような、綺麗な炎だ。見間違えることはないだろう」
「えぇ、わかっているわ」
直接的に言うことは憚られたが、リリーはきちんとミュエの言いたいことを理解していた。そのうえで、しっかりと小瓶を握り、力強く頷いて腹を優しく撫でている。よかったわね、わたしの天使たち、と、目尻に涙を浮かべて、子守歌を歌っている。
目の前の光景に言葉もなく、ミュエは闇に呑まれるように静かに姿を消した。
アーランドが姿を現したのは、ミュエがリリーに会いに行って三日経った後だ。いつものようなノックが調合室に響き、ため息と一緒にドアを開けた。
「やあ、ミュエさん」
意図的に避けていたとは思えない、いつもと変わらない表情だ。毒気が抜けるほどの取り繕いように、わざわざ歯を立てるまでもない。リビングにはティーポットにひっくり返って嵌まっているマンドラゴラが足をばたつかせており、そのままカップへ傾けたミュエに抗議するような声が注ぎ口から鳴っている。
ミュエの栄養剤とは別にアーランド用の紅茶を準備してきたデューが香り豊かな匂いを立たせたティーポットを持ってきた。なんともそそられる匂いだが、今はマンドラゴラの出汁以外で腹を膨らませることはしたくないので、じっとりとデューを睨むことで我慢をする。
いつもならば礼を言い、街では飲めない品種の紅茶に舌鼓を打つのだが、手が伸びないところを見ると思うところはあるのだろう。
濁った色の水を啜り、まだじたばたともがく足を引っ張ってやると色が薄くなった葉と顔模様がしんなりしたマンドラゴラがミュエの手から逃げ窓際へ走っていく。仲間たちの間に入り、背丈の違う似た背格好が日光を浴びながら右へ左へ揺れる様子は、家族のようだった。
「リリーさんに、薬を渡したと聞きました」
「あぁ」
「嘘をついていたこと、僕も謝りました」
「当たり前だな」
大きな黄金の目に射抜かれ、アーランドは力なく頬を崩す。目を泳がせ、テーブルの上で指を絡め、背もたれに体重を預け、いつものミュエのように座面に足を乗せて膝に額を擦り付ける。テーブルを挟んでいても聞こえるほどの大きなため息と、緊張が、ぞわりとミュエの不安を撫でる。