面倒な依頼(3)
アーランドを横目で睨み、ブーツの口を掴むとアッシュボーンは靴の裏へ纏わりつき、一瞬で泥を落とす。このやり方をいつもならしてくれるのに、見せつけるようにちまちまと作業していた裏側にアーランドの言葉があったように思えてならない。追及しても今更意味のないことだと自分を納得させ、綺麗になったブーツへ足を通してショルダーバッグのベルトを正す。
「準備できました?」
頬杖をつき、首を傾げるアーランドを通り過ぎるとすかさず隣に並ぶ動作は素早く、玄関を出て行く背中へデューは頭を下げた。
ミュエの家は丘の上にあり、馬車も通れるように整えられた一本道にはほとんど使われることのない松明が置かれている。道以外は草原で、そのまままっすぐ進んで二つの橋を過ぎ、ロマジカの森とはまったく雰囲気の違う森林浴ができそうな温かな木々を抜けて、街へ辿り着く。歩くこと一時間と半分。話が弾むこともなく、久しぶりの道を懐かしんでいればあっという間の時間だ。子どもが森へ迷い込まないよう取り付けられた柵を越えると、石畳みが現れる。
「迷子にならないでくださいね」
「子ども扱いはするな」
ミュエはそう言うが、アーランドの前を通り過ぎた今年十二歳になるパン屋の娘と身長が変わらないほどなのに、大人扱いしろと言うのも無理な話だ。手を引いて歩くには慎重さが大きく、気を遣って「荷物を持ちますよ」と言っても「落とされたらかなわん」と首を縦に振らない。
確かに成熟した精神を持っている。現実的に考えて十代前半の少女が一人であの場所で暮らしていくのは難しいだろう。アーランドがミュエと取引を始めて二年近くになるが、成長期の年頃なのに一つも体形が変わった印象がない。
来るたびに昼寝をし、畑を見に行き、ロマジカの森へ赴き、ブーツを汚して帰ってくる。薬を調合する腕前は一品で、金やおしゃれに興味を持たないところもアーランドの知る年頃のお嬢さんらしくない。いい香りのするパンにも、採れたての果実でできたジュースにも反応せず、道端の男たちの喧嘩に怯える素振りもない。
そんなミュエの正体を、アーランドはいつも探っていたのだ。それが今回の件で、少し垣間見える気がする。
「おい」
「……はい?」
そんな下心を見抜くように、タイミングよく声をかけられたが、アーランドはいたって平静を装い、首を傾げた。
「お前、その妊婦の場所に案内する気はあるのか」
怪訝な目に射抜かれ、一度ぽかんとした後に笑う。
「当然です。一刻も早く、あなたに見ていただきたい」
我ながら口が回るものだと、アーランドは笑みの裏で美しいミュエの横顔を見ていた。
案内されたのは屋台が並ぶ大通りから少し外れた家だった。妊婦が暮らすにはやや不衛生な、多胎児を腹に抱えているのに近くに病院もない不便な場所。アーランドが騙しているのかとも思ったが、疑念を隠さないミュエに人通りが少なくなると妊婦の事情をかいつまんで説明し、人目を避けている理由に納得した。
「リリーさん。前に話した魔法師を連れて来たよ」
「おいっ」
隙間風が入りそうなドアを開き、身に覚えのない紹介に思わず声が出た。しかし、期待に満ちたか細い声がミュエよりも早く歓迎の言葉を発し、アーランドは早々に体を中に滑り込ませる。
当然、ミュエは魔法師ではない。これでは相手を騙しているようで心苦しいが、姿を現さないミュエを招き入れる必死な声に負け、柔らかな光に満ちた部屋へ入る。
ベッドに横になっているのは、二十代前半のあどけなさが抜けきらない金髪碧眼の年若い娘だった。望まぬ妊娠をした、美しいリリー。布のかかっている腹は確かに胎児が一人とは思えないほどに大きく膨らんでおり、呼吸に合わせて上下している。
「お待ちしておりました」
腹の重みが臓器を圧迫し、苦しいだろうにリリーはミュエを笑顔で迎え入れた。脂汗の浮かぶ額を枕元に置いてあるハンカチで拭くと、表情が綻びより幼いものになった。
「私がお願いしたいことは、たった一つなのです」
ハンカチを握る手を、リリーが包んだ。震える指先は冷たく、ミュエは言葉を失う。中途半端に開いた薄い唇は、満身創痍な少女に何を言えばいいのかわからない。自身の体を圧迫している膨らみへ視線を向け、潤む目を愛おしそうに細める。
「どうか、子どもたちだけは、助けて欲しいのです」
リリーの身体はこれ以上耐えられない。父親は東部領主の息子で愛人として囲われていたが妊娠がわかって追い出されたらしい。精神も衰弱し、身体も体力が追い付いていない。その身体で三人の胎児を抱えるのは特効薬でもない限り、母体か胎児かを選択しなければならなくなる。
だが、リリーは胎児を優先してほしいと訴えた。アーランドからどう説明されているのか知らないが、ミュエは魔法師でも医者でもないのだ。確約ができない以上、握られた手は重荷にしかならないし、軽率に頷くわけにもいかない。
そんな躊躇いを感じ取ったリリーは、ミュエの手を腹へと当てた。布を捲ると、華奢な少女がかつて着ていたのだろう白いワンピースに、腹を邪魔しないよう切れ込み入っているのが見えた。真っ白な肌はパツンと張り、薄い皮膚の下は、あたたかい。
「生きているんです。だから、……この子たちを、守りたい。それがわたしの役目だとおもうの。わたしの、たったひとつの、願いです」
――結局、ミュエはその場で言葉を発することも、頷くことも、首を振ることもできなかった。濃密な死の匂いは、誰にも覆せるものじゃない。それこそ、建国神話に出てくる大魔法使いでもなければ。
リリーの家を後にした二人は、酒場へ入った。正しくは、ミュエはほとんど引きずられるようにして、アーランドが店の主人に金を握らせて用意された個室へ気付いたらいたのだが、話をするのに十分な場だろう。
手に触れていた、リリーの消えてしまいそうな温もりを思い出す。自分の手の甲を撫でると、彼女が触れた場所だけひんやりとしているような気がした。
「ごめん」
開口一番謝ったことは、ミュエの怒りを助長しないことしかできない。事前情報があまりにも少なかった。
「でもきっと、ぜんぶを話してしまうと、あなたは『自然の摂理だ』とでも言って来てくれそうになかったものですから」
「私を騙したことを認めるんだな」
「ミュエさんからすれば、そういうことに近いだろうね」
歯切れの悪い物言いが気持ち悪い。
まんまとアーランドの手のひらで踊らされたことを自覚し、自分自身にも呆れてしまう。
「私は魔法師じゃない」
「それでも、人の手には作れないような薬を作る。まるで、魔法使いみたいに」
「おぉ、いよいよ隠さなくなってきたな。今更、どうして私を試す?」
決定的な言葉の出現に、ミュエの双眸ははっきりと不快の色を示していた。アーランドは笑ったままだ。
魔法師と魔法使いには決定的な違いがある。称号は似ているが、まったく異なるのだ。魔法使いは建国神話にも出てくるほどに偉大な存在であり、大魔法使いと、八人の弟子の九人しか存在しないと言われている。
魔法は全知全能。無から火や水、草木を生み、闇を光で照らし、光に闇を落とす。常人には見えないものを見て、常人には触れないものを触り、聞こえない声を聞き、自然に語りかけることもできる。魔法を使う、魔法使い。魔法に師事するのが魔法師だ。
魔法師は硬度な魔力を帯びる魔石がなければ、魔法を扱えない。専門の教育機関で魔法の扱い方を学ぶ。八年間の歳月を得て、魔法師は得意な属性の魔法を選ぶ。魔法師は火、水、草、土、氷、光、闇、風のうち一つの魔法属性しか身に着けることができない。それも、所詮は魔法に師事する立場として、自然や時空などに干渉することは叶わないのだ。
誰もが建国神話で学ぶ、最高の理想像、大魔法使いのような全知全能になれない。
「……もしそうなら、隠さないでほしいんです」
アーランドもまた、魔法使いに憧れる魔法師だった。
初めて会ったときから普通の人ではないと感じてはいたのだ。東部では珍しい真っ白な肌も、光の角度で彩度を変える緑の髪も、赤い光彩を持つ黄金の目も、時空を捻じ曲げたように成長しない身体も。
アーランドがミュエと出会ったのは偶然だった。この街でひどい熱が出た少女のために危険を覚悟の上でロマジカの森へ向かった際、ちょうどドアを開けて出てくるミュエと目が合ったのだ。事情を説明したところ、一つの小瓶を手渡され、危篤状態となったときに責任を負う覚悟をして飲ませてみれば、徐々に容体が良くなっていった。
あれほど効果がある薬は、魔法師では作れない。デュラハンもアッシュボーンも早々懐くような魔物ではない。マンドラゴラの歌を聞いて正気を保てる常人は、いない。
「あなたは、魔法使いじゃないんですか」
世界に九人しかいない魔法使いの正体は何一つわかっていない。魔法使いは揃いも揃って曲者とだけ言われており、滅多に姿は現さず、正体を明かさない。
アーランドはもうすぐこの街を去り、別の街に行かなければならない。魔法師教会から派遣されているだけのアーランドには時間がなかった。ミュエを前にして、今ほど緊張したことはない。汗を握り、視線は不安そうに下へ落ちている。わずかに視界に入るミュエの口元がいつ開くのか、壁掛けの時計がこちこちとその緊張を笑っているようだった。
「薬を受け取れ」
コツン、小瓶がテーブルに一つ置かれる。長い睫毛を伏せ、カバンとテーブルしか見ていないミュエは話に応じるつもりが毛頭感じられない。
「ミュエさん、僕はあなたの生活の邪魔をするつもりは、」
「容器も包み方も変えていない。説明はいらんな」
絞り出した声も一刀両断。依頼されていた分の薬を並べ終わると、テーブルを指先で叩く。アーランドは欲しい答えを得ていなかったが、静かな視線はこれ以上を一切受け入れないことを表している。
懐から簡易的な契約書を取り出し、ペンを置いた。『Me』と簡単なサインをして立ち上がる。
「金は後日、届けてくれ」
まだ訪問することを許可されていることに少し安堵しながら、立ち去るミュエを見送る。切羽詰まって、軽率な行動を後悔する。深く重いため息は、空気にも溶けることができず胸に伸し掛かっていた。