面倒な依頼(2)
怠惰な生活を送るミュエにとって、身の回りの世話をしてくれるデューはなくてはならない存在ではあるが、少々世話焼きが過ぎる点だけが欠点とも言える。どうにかしていつか彼の目を欺けないかと思っているが、成功したことはいまだない。
それでも気の短いミュエが万が一影から抜け出して危険な行動に走らないよう、戻って行ったときと同様に足を急がせてこちらへ向かってくるデューを伴い、家の裏にそびえる森へ入る。この森はロマジカの森と呼ばれ、人間が一人で入れば戻ってくれないと言われる魔境でもあった。まっすぐ突き進んだとしても森の奥は崖となっており、そこから先は岩と砂と水量の安定しない川しかない。風で舞う小石や砂を受け止めているのがロマジカの森であり、遠くからの死霊の声もロマジカに生息する木々や動物が吸い込んでいるとされている。
イドリス王国の最東端。それがロマジカの森であり、そしてミュエが暮らす家がある場所だ。
今の季節、森は葉を大きくし緑を増やしている。葉脈から不要な水分を出し、果実へと栄養を行き渡らせるために木々は魔法がかかっているかのように、自らを効率的に変化させていく。
ミュエが精製に使う真露は、この葉に溜まる水のことを指す。
何度も行き来している道だけは雑草が生えず、行き止まりがあろうと多少の妨害はデューが壊していくので楽な道のりだ。東部は乾季と雨季があり、それに従い実を成す植物が異なるので一年中どこかの植物から真露は採取できるのだ。
ここに暮らし始めて長いこともあり、シャボン玉の羽を持つ蝶々に誘われても、足元をサラマンダーの幼獣が通り過ぎても、遠くからあぶくが弾ける歌い声が聞こえても、小瓶へ手際よく真露を詰めていく。
葉を細く折りたたみ、先に小瓶を当てて傾けると、さらさらと音を立てて一つ、二つと小瓶を満たす。作業は簡単だが、ロマジカの森に入ると靴の裏に柔らかい土が入り込んで滑りやすくなることが苦手だった。膝下までのブラウンのブーツの爪先をトントンと石に当てるが、肥えた土は取れそうにない。座って靴を脱いで靴裏をデューに掃除してもらうこともよくあるが、ゆっくりとしていられない事情をアーランドがもってきたので、この靴は帰宅してあの男に磨かせてやろうと決める。
ついでに食用の木の実や他の薬にも使える素材をいくつかカバンに仕舞い、森を後にする。運が良ければ美しい泉や妖精たちにも出会えたのだが、急いでいる心情に森が気付いているせいかミュエの心を惹くものは姿を現さなかった。
家に着くと、まずブーツを脱いだ。「おかえり」とのんきに言うアーランドの前へブーツを置いたデューは本当にできた世話係だ。
「私が薬を作っている間、磨いておけ」
「え。僕が?」
「お前のせいで急を要した。ずるずる滑る靴で一直線に帰ってきた私に有難いと少しでも思っているなら、態度で示せ」
足を組み、ティーカップを指で持ち、静かに茶を嗜むアーランドは腹が立つほど絵になっていた。厄介な依頼を持ってきておいて当の本人があまりにも悠々としているので、ほんの少しの八つ当たりをぶつけてミュエは奥の部屋へ入る。
テーブルや暖炉、キッチンのある小部屋が玄関を開けて一番初めに見える部屋だ。キッチン近くにあるドアと、その反対側にもドアがある。ミュエが入っていったのはキッチン側のドアだった。アーランドはそこが調合室だと知っている。しかし、付き合いが長くなってもアーランドはこの部屋以外足を踏み入れたことがない。
キッチンと反対側の部屋は美しい花々が咲き誇る庭園に面しているようで、マンドラゴラたちが眺めているのはもっぱらそちら側だ。この部屋にベッドが足りないので寝室と考えるのが妥当ではあるが、それ以上の秘密があるような気がしてならない。
品のいいダークブラウンのドアは複雑な模様が彫られており、取っ手や小窓の縁などにいくつもの石が嵌められている。ミュエが姿を消した簡素なドアよりもよほど魔女の実験室のような造りだ。
「……靴をぴかぴかにしたら、少しくらい秘密を教えてくれるかな」
デューの置いて行った靴に視線を落とすと、アッシュボーンの手が靴の裏をせっせと掃除しているところだった。灰が本体である彼が視線に気付き、靴を差し出したがアーランドは受け取らず、目を細めて「よろしくー」と紅茶を啜った。
調合室はドアの造りによく似た質素な内装をしている。窓に面したカウンターが作業台であり、椅子はたった一つ。人が並んで歩けないほどの狭い室内は、その代わりに壁を覆いつくす棚があった。デューの影に手伝ってもらいながら、摘み立ての葉っぱを種類ごとにまずは分けていく。背の高い椅子へ飛び跳ねて座り、ランプのオレンジの光で手元を照らす。森に面した窓から差し込む光はなく、けれど薄暗さが調合中は心地がいい。
紐でくくった色褪せた紙をめくりながら、慎重に素材を合わせていく。あるものは温めながら、あるものは炭にして、あるものはすり潰し、あるものは真露に浸して成分だけを抽出し、フラスコへと集めていく。緑色の炎に熱され、水面が震える程度の温度を保つ。沸騰はしない、ギリギリを見極める。
暇な時間を過ごす中、気まぐれにページを捲って、放っておけば素材が溢れかえるので調合し続けて何年になるだろう。
履き替えたローヒールのパンプスの爪先だけをひっかけて、白魚の指をフラスコの周りで揺らす。鼻の奥にまで届く苦い香りは効能の証。髪の先まで粟立つ匂いにも、ずいぶんと慣れたものだ。
液体と丸薬は小瓶へ、粉薬は紙に包む。効能の違いが一目でわかり、間違っても誤薬がないようインクの色をわけて名前を書いてラベルを貼る。
カウンターに並んだ薬はいつもならアーランドに渡して終わりなのだが、今日はそういうわけにはいかない。
昨日の残りのスープを食べるのは少し遅い時間になりそうだ。
大きな椅子はミュエが足を抱えて座ってもじゅうぶん余裕がある。揃った膝に頭を乗せ、このまま夕食まで昼寝を挟みたいが、てきぱきと薬をケースに詰めていくデューに言外に急かされてため息を吐く。
街に近付きたくないという思いが、足を重たくしていた。人の目から隠れるために誰も寄り付かないロマジカの森に住んでいるのに、わざわざ目立ちに行きたくない。少女の姿が診察をすることも、その少女が稀な緑の髪と金の目をしていれば嫌でも注目の的となるだろう。アーランドの権威に期待をするしかない。この地を離れるつもりは毛頭ないが、場合によってはしばらく薬の流通も含む交流を控えた方がいいかもしれない。
ミュエは一人、気ままな生活を続けていたいだけ。太陽に背を向けて――誰にもバレないように。
落ちかけた瞼を叱るように揺さぶられ、現実逃避を許さない手に眉を釣りあげる。けれど、ここで件の妊婦を見捨てれば後悔するのは目に見えているので渋々椅子から降りる。窓から覗く森はいつも通り静かで、太陽の光を遮る盾のようでもあった。
一歩、ドアへ踏み出すミュエは片方の足に靴がついてきていないことに気付く。どうせ街に行くためには歩きやすいブーツに履き替えなければならないので、調合室に置き去りにしても構わない。
木の床を踏みしめる、肌が貼りつく音が静かな調合室に残っていた。
ミュエのリビングにはアッシュボーンという魔物がいる。彼は火のそばから離れられないという特性から暖炉に住み着くことが多く、変幻自在な灰の体を持つ。火を守ることで家主を危険から遠ざけるという比較的友好的な魔物だった。灰を針のように鋭くしてブーツの裏の溝をせっせと掃除しているアッシュボーンを見下ろし、帰ってきたときと変わらない格好で笑っているアーランドを見ていると頭が痛くなりそうだった。
本気で靴を磨くとは思っていないが、己の友人をこき使われているともとれる光景は面白くない。
「まるで主人のような態度だな」
「お疲れさま、ミュエさん」
「嫌味のようにしか聞こえん」
「心の底から思ってるのに」
逆三角形を描く口元が余計に白々しい。