依頼完了を告げる。
ミュエは帰宅したのち、男児の柔い髪の毛を撫でた。
数日後に訪れたアーランドにその男児の名前を聞かせれば、きょとんとした顔で「えっと、ハロヴ?」と尋ねられたため、それが人間の耳に聞こえる音だと知る。
魔族の言葉で炎と愛という意味を込めたのだが人間に聞き慣れなくては意味がない。適当に相槌を打つと腑に落ちない顔をしたアーランドが苦笑をした。
小さな声でエマーリリーとハロヴをあやしながら、指先がゆりかごを撫でるとかさついた音がする。アーランドがここを訪れるのは数日ぶりで、ミュエはそれが意外だった。
なにせ、土壌の性質が変化したことに気付かない男ではないと知っていたから。
アーランドから話題を振ってくれてなければ、ミュエは話しづらい。
まるで沼のように水を貯留する畑の土壌の性質を変化させたのは、あの獣人だ。この場所で過ごしていくこと、人間たちの作ったものを食べていくことを伝えたのち、現在の問題をあの男に打ち明ければ赤い魔力がたちまちに厄介な問題を解決してくれた。
ふっくらとした乾いた土。力の加減を知らないせいで砂漠になりそうなところをなんとかミュエが抑えたおかげで、素人目でも変化は明らかだった。
アーランドの目から見て何か問題があるならば、またあの男に掛け合ってもいい、とほどに考えていたのに、ようやく顔を見せたかと思えば気づいてるはずなのに指摘してこない。
無言で責められているような気分になり、ミュエはさっきから紅茶を飲んでばかりいる。
「……それで、ここを発つ日なんだけれどね」
ミュエが持ちあげようとしたカップが、ソーサーに当たって硬い音がする。
エマーリリーは元気よくアーランドの指を捕まえていて、それを口にしようとすると手袋をはめたデューが阻止をした。
低く笑う声は、もうずっと前から耳に馴染んでいる。
「明日になりそうなんです。色々と準備をしていたら、挨拶に来るのも遅くなってしまって」
なぜ、と。
その言葉が喉にはりつく。
風のない部屋で髪がざわりと揺れた。
アーランドは穏やかに目を細めてミュエを見た。『奇跡』が起きたというのに、諦めた目の理由がわからない。
「ほんとうにお世話になりました」
清々する、とでも言えば笑い合えただろうに、奥から溢れてくる言葉はすべて喉にはりついた言葉が詰まっているせいで出てこない。
さらりと耳から横髪に滑る髪がテーブルに落ちて、ミュエは自分が俯いていることにあとから気づく。
椅子の足が床と擦れる音がした。
アーランドの、あの靴の音がする。
「あなたと過ごせた時間は、何よりも宝物です」
髪に囲われた狭い視界に、大きな手が伸びてきた。カップを持ったままの動けないミュエの細く小さな小指に器用に結んだのは、飾り紐。
先端には土属性の魔石が付いていた。
おそらく、彼が使っていたものだろう。
「欲を言うと、…………止まらくなりそうなので。この辺で失礼しますね」
「あ、」
「可愛い名前、聞けてよかった。きっとミュエさんから三人目の子も可愛い名前をつけるんでしょうね」
「の、」
ごつ、ごつ、こつ。
静かな家を乱していたあの音。
胡散臭くて仕方ない男。
問題を解決して、ひとり、浮かれていたのが恥ずかしい。これで、きっとあの男は、と、――期待をしていた。
「ミュエさん」
「……アーランド、その、わたし、」
「ありがとうございました」
ドアを開ける音がしてようやく顔をあげると、アーランドは笑っていた。
青空の下、遠くまで広がる丘のみどりを背景にして、顔に光を浴びて、眩しそうに目を細めている。
「あなたに会えたことが僕の喜びです。これ以上はバチが当たりそうなので、ここでさよならしましょう」
大袈裟な言い方が嘘くさいのに、ミュエは唇を震わせることしかできない。アーランドはそれでも満足そうだった。
「僕含め、いろいろと助けていただいてありがとうございました。お元気でいてください」
ありがとうございました。
最後にもう一度感謝を述べて、アーランドは帰っていった。
ミュエの背後に立つデューは、ゆりかごからそっとエマーリリーとハロヴを抱き上げてアーランドがいなくなってぐずる2人をあやす。マンドラゴラはドアを見つめたあと、またミュエの髪の毛で遊ぶ。
アッシュボーンの灰が、浮かぶ足を撫でるように掠めた。
ミュエは閉じたドアに、小さくありがとうと呟いた。




