2.面倒な依頼
ティーカップをテーブルへ戻し、大きく伸びをして行儀悪く足を上げる。こうしても口うるさく言われないことが一人暮らしの醍醐味でもあったが、少しばかり寂しさがよぎる。
目を閉じ、首を反らすと、少女が動く時間だと知っているこの部屋の小さな住人たちも、目を覚まし、動き始めているようだ。マンドラゴラは揺れ、アッシュボーンが暖炉から顔を出し、首のない少年が空になったティーカップをキッチンへと下げていく。部屋が一度震えたのは、屋根の上を巣と勘違いしているドラゴンのせいだろう。
寂しがることはあれど、目を開けば少女の世界を色鮮やかに染める彼らが全方位にいるのだ。
「……仕方ない、働くか」
少女は大きく目を開く。金色の目は、ドラゴンによって塞がれた天窓からドアへと視線を移す。同時にノックの音が響き、客人を出迎えるために玄関へと向かった。
スカートの裾を翻し、赤銅のドアノブを回す。差し込む日差しの明るさに数度瞬きをした後、目の前の看板を『寝ています』から『起きています』へひっくり返す。
「おはようございます、ミュエさん」
吹き込む草と風の香り、柔らかな人の声。
「今日も、黄金の果実を貰いにきました」
「……入れよ」
大袈裟な呼ばれ方をしたものだ、と呆れてしまうが、訂正することに疲れてしまった。人間は一人もいない家に躊躇うことなく足を踏み入れる青年は、近くの街の魔法師だ。来るたび代り映えはしないはずなのにいつも室内をぐるりと見渡し、首無しのデューが整えた席へと座る。天窓が塞がれている部屋に明かりを入れるため、ランタンを灯す。
ゆらり、火の揺らめきを反射する硝子に映るミュエの瞳が、いっそう輝きを増していた。にこにこと訪れた当初から笑顔を崩さない男の視線に嫌そうな顔をし、膝を立てて椅子へと座る。椅子がわずかに下がるほど勢いをつけても、デューが椅子をテーブル近くへと押してミュエの腕が紅茶に難なく届くよう環境を整えるので、彼女が困ることはない。
「お前は、また、何を考えている」
「いやあ、今日こそは街に店を開いてくれるって言ってくれないかと思って」
「無理」
「はは、いやあ、今日こそは街に店を」
まるでミュエの話がまったく聞こえていないかのように同じ言葉を繰り返し飄々と紅茶を嗜む彼にミュエは呆れて頭を抱える。
「くどい……」
怒っても怒鳴っても脅しても、効果がないのは確認済みだ。ミュエの中ではこの男、魔法師という立場のくせに被虐趣味があるということが確定している。
「お前はそれ以外にも考えていそうで嫌なんだ。来るたび来るたび、嫌なことを閃いていそうで」
「アーランドです、ミュエさん」
「人の話を聞かんやつの話は聞かん」
ミュエはアーランドを見てくれだけはいいと思っている。整った顔立ちも、金孔雀から毟ったような髪。窓辺で踊るマンドラゴラよりも鮮やかな緑の目。
加えて、世界でも珍しい魔法が使える魔法師である。街から離れたここに毎日のように来るほど暇ではないはずなのに、ミュエがその名前を忘れないうちにやってくるものだから鬱陶しいことこの上ない。決して頷かないと彼自身もわかっているだろうに、懲りることなく街へ誘われ、無駄なやり取りも時間の無駄だ。
それでも、金を手に入れるためのルートの一つがアーランドだった。黄金の果実と称しているミュエの作る薬は、魔物由来で抜群の効果を誇っている。作り手を明かさないことは詐欺じゃないかと申告したが、快活な笑い声で流されてしまった。要するにそういう男だと知っているからこそ、ミュエは彼の視線にいつも不穏なものを感じてしまう。
口をへの字にしても、アーランドを警戒することには疲れてしまった。背もたれにだらしなく体重を預けながら手のひらを差し出すと、一枚のメモが乗せられる。それが今回の発注書だ。
どれもこれも一度作ったことのある薬だが、最後の一行は初めてのものだ。
「妊婦がいるのか」
「そう」
「初めての依頼だな。今まではなかったのに」
まさか、ミュエがここを拠点としてから一度も妊婦がいなかったというわけでもあるまい。今更になって、なぜ薬が必要なのかと片眉を上げると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの満面の笑みがそこにある。
「腹がね、異常にでかいんだ」
「多胎児か」
「双生児と言わないところがあなたらしいですね。そうです。おそらく、」
アーランドは指を三本立てた。ミュエは眉間に皺を刻み、小さな手で額を押さえる。
「……何ヶ月だ」
「六ヶ月と半年」
「なるほど。お前がいい性格をしていることを改めて知れてよかった」
皮肉に笑うが、アーランドに気にした様子はない。目を細め、からりと笑うだけだ。アーランドの行った週数は、流産か早産かの分かれ目でもある。子どもが助かるか助からないか、急を要する。つまりミュエに悩んでいる時間はないということだ。早くに来れば、大きな病院にかかれと言うこともできたが、こうなっては猶予がない。
ミュエは紅茶に手を付けることなく、メモを握り締めて立ち上がる。デューがすかさず帽子を手渡し、玄関とは別のキッチン横の扉へ向かう。
「お手伝いすることは?」
優雅に紅茶を啜り、立ち上がる素振りを見せないアーランドの戯言に舌打ちを一つし、灰の体を持つアッシュボーンに目配せをしてティーカップに灰を仕込む。
噎せ込む音を背中で聞きながら、ミュエは外へ出る。雷が交差する鳴き声に引かれて見上げると、青いドラゴンが顔を覗かせていた。長い尾の先をミュエへと差し出すが、今日作る薬にドラゴンの鱗が必要なものはないので首を横に振って遠慮をしておく。大人しく尾をひっこめたドラゴンは屋根の上で寝返りを打ち、また家が震えたような気がした。驚いて、あの意地の悪い男が椅子からひっくり返ればいいと呪いをかけながら、ミュエは柵で囲われた畑へいつもより足早に辿り着き、「しゅうごう」と気の抜けた号令をかければ、青々と茂った植物が意志を持って茎や根から離れ、一列を成してミュエの元へとやってくる。一枚一枚の葉が体を左右に動かしながらミュエの前で整列し、追いかけて来たデューに差し出された籠を持てば「風邪」「ハライタ」「切り傷」と症状や怪我の種類を言うと勝手に籠へ飛び乗ってくるので、仕分けも楽だ。
ミュエが丹精込めて育てている畑には魔法がかかっており、すべての植物は意志を持つ。最低限の世話でも育ち、日陰になっている箇所は避けて日光浴を自主的に行い、収穫もミュエの声だけに反応する。魔法が効かない部屋の中に入ればただの植物に戻るので、すりつぶしたり煮たりするときに悲鳴があがることはない。
日がな一日面倒を見ないで済むので、続けられているようなものだ。
「森にも行かないといけんだろうなあ。真露が足りん」
面倒くさそうに呟いたミュエに、デューは身体全体で肯定を示す。首の断面図から溢れる闇でいくつもの籠を抱えながら慌てて家のほうへ戻る小さな背中へと「私一人で平気だぞ」と声をかけたが、遮るものがない広大な草原に突如影が生まれ、ミュエとデューを繋いでしまう。首がないはずなのに視線の圧を感じ、ミュエは動こうとしても足が地面から離れないことを確認しては、やれやれと肩を下げた。