胡散臭い笑い(4)
薄情な話かもしれないが、アーランドと来訪を止めてからミュエの心はひどく穏やかだった。時折思い出すこともあるが、それでも「まあ、あいつは器用な奴だからな」とほとんど思い出を噛み締めるようだった。
指をさしだせば、無防備に手を伸ばし握ってくる。
エマーリリーの碧眼は睫毛に邪魔されることなく輝き、高い音で笑ってミュエを見つめる。
少し指を離せば、口角がだんだんと下がり、不満だと暴れる。
「ふ」
ミュエは小さく笑った。長い髪は口に入れられると困るので、デューに綺麗に結ってもらうようになった。
マンドラゴラは彼女が立ち上がると習慣のせいで慌てて近付いてきて、落ちてこない緑の束に身体を傾げる。
足元でくるくると回る魔物を足先で小突き、ミュエは椅子に腰かけ足を組む。ゆりかごの縁に肘をつき、手で顔を支えると柔らかな頬の肉がふっくらと盛り上がる。
日の光が肌の白さを際立たせ、黄金の目が色を淡くする。
きゃ、きゃ、と反応がいいエマーリリーについ構いすぎてしまう自覚がミュエにはあった。名前をつけていない男児は大人しく、妖精の子どもは反応がない。
エマーリリーはミュエが近付くだけでも反応を見せ、ミュエが離れると家の窓が割れそうな音で泣くので、つい手が伸びるのだ。
子育て経験がないミュエは果たしてこんなに泣くものか? と悩むこともあり、そういうときにはアーランドを思い出すが魔法を解こうとはまだ思えない。
少し前に悩んでいたことは、過ぎてしまうと小さなことのように感じるが、そうではないのだ。笑い話にして口に出せない。
死んでなおミュエのそばに居続ける、リリー。
「……」
思い出すと、リリーのことは噛み締めることができない。味を思い出す前にまた腹の奥底に戻すことにする。
しかし彼女との約束を違えているつもりはない。街のみんなを助けて、と言われたわけはなく、この街を救えばリリーが守ったものを守ることになるのかもしれないが――と考えに耽るミュエの表情は静かだった。
エマーリリーが握る手が、人形のもののようだ。
それでも赤ん坊は嬉しそうで、静かなこの家で唯一楽しそうだった。
かける言葉はない。
かけられる言葉もない。
トコトコ、キシキシ、パチパチ、……きゃ、きゃ、ぇは、ぁ。
それでも様々な音に満ちて、寂しさの中の寂しさまでは感じない。
ミュエが指先を曲げると逃げられないようにエマーリリーが握る力を強くした。美しく育て、強く育て、あの母のように。
「外に連れて行ってみるか」
雨季の前の、温かな空気は赤ん坊にも毒にならないはずだ。
育児の本には太陽光に当たることも大切だと記載があった。丸い爪をあーんと口で迎えようとするエマーリリーの目は爛々としていて、元気が有り余っている。
デューはその言葉に手にしていたポットを置き、ミュエの肩にストールをかけた。過保護だと思いながらも好意を受け取り、石鹸とミルクの匂いが混ざったクッションから柔らかなものを持ち上げる。
さっきまでは両手両足をばたばたしていたのに、ミュエの若木の腕に収まると満足して大人しくなった。
はら、はら、と垂れる緑の髪をおいかけるのに掴めない無力な手にふっと目尻を和らげる。
この三人を離すのは初めてだが、エマーリリーは一人になるのが恐ろしくなさそうだ。ドアに向かって行くとむしろ知らない角度から見える世界を忙しなく二つの目で見つめている。
全身で浴びる太陽の光に、エマーリリーは身震いをし、ミュエの胸元をきゅっと握る。感情が豊かなので怖がっている風ではないと感じ、ミュエはさくさくと草を踏んだ。
「エマーリリー」
そうっと呼んでも、反応はない。
赤ん坊にとっては風や草や太陽の音と同じようにしか感じないのだろう。数えられないほどにある自然の中の、ほんの一握り。――ヒトの言葉。
畑に行くと作物が育っており、マンドラゴラよりも瑞々しい色の葉を覗かせていた。
ベンチに腰かけ、片足だけあぐらをかいて小さな塊を乗せる。一人で歩けもしないのにミュエの足から逃げ出そうとするので手のひらや足の裏をくすぐって妨害する。
風が吹くと、「チン!」とくしゃみをし、周りを囲うマンドラゴラの葉っぱを掴んで遠慮なく振り回すのを見るとミュエは自分の不安など杞憂のように思った。
雨季がくれば外に出かける回数は減ることになる。それまでにできるだけ外に出し、自然に満ちる様々なものを見せてやりたい。
「エマーリリー」
自分の名前だとわかっているのかいないのか、音に反応してミュエを見上げる碧眼は背景の緑よりもずっと瑞々しく、きらきらとしていた。
もう少し歩いてみるか、と立ち上がったところで、突然自宅から真っ青な炎の柱があがった。
エマーリリーをしっかりと抱き締め、驚いたせいで髪の毛が意思を持ってうねったせいで髪留めが落ちて毛先が扇形に広がる。
アッシュボーンの魔力だ。家が燃えてはいないが何か起きたことは明らかだ。言葉を持たない彼らにとって危険を知らせる手っ取り早い方法。
ミュエは急いで自宅へ戻った。
大きな振動がエマーリリーを襲わないよう慎重に、けれど少しでも早く。
ドアに触れると炎は消え、勢いよく開いた室内は出たときと変わりない光景がある。
「なに?」
暖炉の奥に引きこもっているアッシュボーン。
ミュエを見つけたマンドラゴラが短い足を動かして靴に乗り上げてくる。
デューは、揺りかごから何かを引っ張っていた。キィ、キィ、マンドラゴラが鳴いてミュエの耳には痛いだの聞こえてくる気がした。
「お前」
揺りかごに集中していたデューが驚いているミュエに気付き、マンドラゴラを掴む赤ん坊を指差す。
その揺りかごは、金髪碧眼の人間の赤ん坊が眠っているはずだ。
「何してる」
ミュエがずかずかと近付くと揺りかごで金色が光った。覗き込むと日の光を反射する、ミュエの瞳よりも白に近い柔らかな金色に満たされている。
「……これは」
赤ん坊は緑の目を赤くし、マンドラゴラの身体に爪を突き立てていた。枕をぱしぱしと叩く獣の耳は意思を持って動いている。エマーリリーと同じ仕草で大きく開いた口の内側はピンク色の粘膜と、わずかに白い歯が生えている。
果実のような頬と額に浮かぶ赤い文字は、ミュエに見覚えがあった。
よく見ようと顔を近づけると、その赤い文字が僅かに黒くなり、じわ、じわ、と獣の耳や髪の毛が元の形へ戻って行く。
マンドラゴラも爪から解放され、男児の上に落ちたが素早く床に飛び降り、感動の再開に抱き締め合っている。
ミュエは目の前の光景を受け止めることに必死だった。エマーリリーはミュエの緊張を感じてふみゃ、とぐずる。
「……獣人のこども?」
見間違いなどではない、あの特徴は下級魔族の獣人によくあるものだ。
人間とは違う。
なら、でも、いったいなぜ。
一人だけ違う血が混ざっているという可能性はない。リリーの胎から、三人一緒に生まれ、一人取り替えられたのは妖精の子だ。
獣の血が混ざることはありえない。
リリーと、領主の子どもだ。
――――ほんとうに?
リリーの笑みが、頭に浮かんでいた。