面倒なお願い(6)
ミュエは橋を渡り、松明の間を抜け、草原を踏む。
頬を撫でる風は柔らかい土の匂いを運んだ。この地は豊かだ。ロマジカの森にある清らかな泉、安定して収穫できる作物、雨季も乾季も影響を受けにくく、魔法の恩恵と、魔物の丈夫さから病気になることもない。
日がな一日紅茶を飲み、暇潰しに調合し、マンドラゴラをつつき、デューの用意した食事を摂る。ロマジカの森で運動した後には広々とした浴槽で疲れを癒し、汚れた靴はアッシュボーンに磨かせる。
自然の奏でる音楽と、マンドラゴラのチィキィという鳴き声だけに満たされた世界はひどく優しいものだった。長い年月を退屈と思ったこともない。一人ではないという安心感は、言葉も音も見る景色も贅沢を忘れさせた。
だが、あの橋ができてからはどうだろう。元々人間との関わりを望んでいないミュエの意見を無視し、わざわざ橋を作り道を街と繋げたその魂胆をもっとしっかり聞いておけばよかったと振り返る。
穏やかな日常に転がり込んできた三つの小石は、波紋を広げてミュエの胸に大きな模様を残す。絵画のような風景の中、家のドアが開いた。中からデューが顔を出し、そっと近づいてミュエの手を引く。家の中まで案内し椅子に座らせると、温めたタオルで丁寧に足を拭いてくれる。
パチパチと音を鳴らして薪は燃え、白い光が窓の外から差し込んでいた。部屋の中に光が満ちる。寒さも暑さも苦にならない身体は足先が温められて間違いなく安堵していた。緊張が解けると、湧き上がるのは遣る瀬無さだ。悔しさにも近い。汚れが落ちた足を座面に引き上げて、膝を抱えて縮こまる。
リリーがまさか、あんな風に噂されていると知らなかった。
魔物が人間の言うことを聞くくらいには、美しかった女。
あんな風に口にされていい音じゃないはずだ。少なくともミュエにとっては。そして、赤ん坊たちにとっても。
背に触れる髪が引っ張られる感覚がした。床を歩くマンドラゴラが髪の毛が床につかないよう支えているのだろう。ギッと床が鳴って、揺りかごが動く音がして、一人、赤ん坊が泣いた。揺りかごが揺れている音はするのに泣き止まず、なぜか今日に限ってデューもアッシュボーンもあやそうとしない。
彼らの意図することに気付き、ミュエは億劫そうに立ち上がる。亡霊のような足取りで揺りかごに近付き、夜よりも淡い色の黄金を朝の光が照らした。
「……」
白いシーツに影を落とす薄い黒髪、饅頭のような頬を真っ赤にして、碧眼を細い隙間から覗かせている。
ミュエに気付くと手足をばたつかせて、意味の伝わらない言葉で何かを必死に訴えた。
きらきらと反射するエメラルドが、彼女のように強く、美しくあればいいと思う。リリーという母を、誇ってほしい。
「何を言われようと、強く生き、生まれたことを誇れ――エマーリリー」
それが、女児の名前だ。
ミュエにはリリーとその赤ん坊の死の誤解を解くことができない。人殺しという汚名も受け入れよう。
治療院のあの男――ジブリットについては後で考えよう。腕に抱いたエマーリリーが眠るよう、リリーの名前をこれ以上汚さないよう、深夜の家出という子どものようなことをした自分を落ち着かせ、戒めておきたい。
それに、情報を集めるほうが先だろう。二年前に突如現れた、優秀な魔法師ならばミュエの問いすべてに答えてくれるはずだ。
なぜリリーが領主に召し上げられることになったのか、英雄扱いされたのか。ミュエは彼らの親になるためにはまだ何かが足りないようだった。