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面倒なお願い(5)



 夜になると、大通りは人気がなく静かなものだ。足音を立てずに歩いていればミュエに気付く人はおらず、耳に届くのは風や鳥の音しかない。無防備な人間を一掃することは、魔物であるミュエにとって容易いことだ。


 どうしよう、どうして、しまおうか。ふらふらと覚束ない足取りは止まらず、腕の外側に浮かぶ緑の鱗が擦れてパキパキと音を立てている。髪の毛が擦れる音、裸足の爪が石とぶつかる音、――遠くで「ふぇあん」と赤ん坊が泣く声。


 魔物の耳は遠くの声も拾い、視線を向けた先は赤ん坊をあやしに行くにしては大通りから離れすぎている。声が遠ざかる速さを考えると、抱えている人間は走っているようだった。きっと、ミュエが赤ん坊を引き取っていなければ気付くことすらなかった小さな声。人間を育て始めたから足を向けるのは偽善的な気がしたが、それでも居場所を見失う前にはミュエは影を移動して一瞬でその場所へ移動した。


 赤ん坊を抱えた女は驚いたことだろう。今まさに乗ろうとした瞬間に、荷台の奥から小柄な少女が現れたのだから。

 ひいっ、と悲鳴をあげて後退り、咄嗟に謝罪の言葉が出るところを見ると、罪悪感や罪の意識はあるようだった。風よけのローブが取れると乱れた髪と痩せた顔があらわになる。裕福には思えない女は、胸に赤ん坊を抱えていた。

 抱かれ心地は良くないはずなのに、機嫌をころころと変える赤ん坊は目を閉じていた。あるいは、母親の腕というのはどのような状況であったとしても心地がいいものなのか。


「……赤ん坊を連れて、こんな時間にどこへ行くつもりだ?」


 距離を詰めると、風に身が晒された。緑の糸がたなびき黄金の目がフードの奥で光る。夜に見るミュエの姿は恐ろしいことだろう。

 腰が抜けて座り込んだ女をまっすぐに見下ろす眼差しは鋭く、ローブの隙間からは鱗が浮いた腕が覗いている。わずかに開いた唇の隙間からは人間よりも鋭利な牙が、下がった口角に反して頬に押されて持ち上がった下瞼にも化け物の片鱗が浮いていた。

 瞬きをすると、柔らかな肌を覆う硬い鱗が軋む音がした。


 怯えてばかりの女に寄り、ミュエは沈黙を許さない。


「嘘をつけばすぐわかるぞ」


「し、仕方ないのよ!」


 血走った目がミュエを睨む。震えた腕がしっかりと赤ん坊を抱え、ミュエから庇おうとしていた。


「だって、あたしたちにはこの子を育てられないんだもの!」


 涙、一滴。それで命を捨てることを許されるはずがない。


 ミュエは真顔のまま女にまた一歩近付いた。異変に気付いたのか、赤ん坊が風に揺れる草木よりも小さな声で泣いた。女は赤ん坊を一瞥し、眉間に深く皺を刻んで歯を食いしばる。


「どうせ、この街はもうもたないんだから……っ、苦しんで生きるより、死んだほうが、この子だって」


 この街はもうもたない、その意味がわからずにミュエが片眉を上げた。


 しかし女は切羽詰まった表情で、泣き、怒り、笑いながら、赤ん坊を抱き締めている。母親に擦り寄って手足を跳ねさせる仕草は、自宅の揺りかごを思い出させた。丸い背を叩く手付きは、女も、ミュエも、変わらない。


「リリーが追い出されて、きっと、もう領主さまからの援助はいただけないわ」


「リ、」


 知った名前に反応すると、女は「そう、あの女」と憎々しそうに口にする。


「リリー、美しい、クソ女。あたしのことをいつも見下してた女。領主に見初められて、そのおかげで食糧の援助がされて、なんていい子なんだろうって英雄扱いで」


 妙に親しみのある語り口調は、まるで目の前にその見下していた女がいるかのようだった。リリーよりも老けて見えるが、手の甲や声を聞くと、そう年齢は離れていないことが窺えた。その表情や心根は天地の差ほどあるようだが。


「妊娠して追い出されていい気味って思ったのよ。だってあいつばっか幸せになるなんてずるいじゃない!」


 ――幸せ、とは。


「あのボロ家で子どもを抱えて惨めて暮らせばいいと思ったのに、……子どもと一緒に死んだですって? あんなに綺麗な葬式で、お墓まで立派に立ててもらっちゃって」


 街外れの丘で魔物が子育て、となるとあらぬ誤解を生む可能性を危惧し、アーランドが説明した内容だった。

 リリーの約束を守れたらそれでいい、と街には関与しなかったミュエだがいつか辻褄を合わすことがあるかもしれない、と聞かせられた話は赤ん坊の将来のためにも覚えていた。


「でも、街の女はみんな言ってるわよ」


 アーランドの作り話にミュエは異を唱えなかった。


 だが、この女はどうだ。顔中に皺を刻み、笑う、その言葉が孕んだ毒がおぞましいほどに醜く、口を閉ざせと言う前に全身に鳥肌が立った。毛先がうねり、奥歯を噛んでいないと喉の奥から化け物の手が飛び出しそうだった。


 女は笑っている。美しい姿で眠る、リリーを嘲って笑っている。


「自分可愛さに子どもを殺したんじゃないかって。それで自分も死んだんじゃないかって。そんな醜聞を隠すために領主さまが金を出して葬式をしたんじゃないかって! ずるいじゃない! 辛いことからは逃げて、後の苦しみをあたしたちがッ」


 ――染み出す影に音はない。女が口を閉じざるを得なかった脳に響く金属音は、黄金の威圧感だ。

 カーブを描く密な睫毛の中腹が影を落とし、中心の赤は苛烈に燃える。


 女は震え、歯を鳴らし、瞬きすらできなかった。ミュエが言葉を発さずとも、魔物と対峙する恐怖で黒目が反対側に回りそうになっている。

 気絶寸前の女がまだ息をしているのは、赤ん坊を腕の中に抱えているからに他ならない。首が反り、頭を支えることができず左右前後に案山子のように揺れているのに、赤ん坊だけは地面に落とさず胸に抱えている。

 恐怖に引きつる呻きと、液体で汚れた表情は美しさとはかけ離れているのに、なぜ、ミュエの胸を刺すのだろう。


 わからない。


 ミュエにはわからない。


 それでも泣き喚く赤ん坊がもう一度柔らかな夢へと旅立つには、この女が必要なのだ。

 母親にしか与えられないものがある。リリーが命を赤ん坊に捧げたように、女がミュエという恐ろしいものの前で意識を保って赤ん坊を手放さないように。


 とぷんっ、と石が水に落ちた音がした。赤ん坊を抱えたままとうとう気を失った女は、朝に大通りの真ん中で発見された。



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