面倒なお願い(4)
次に目を開けばアッシュボーンの住処である暖炉がある。湯気を立たせる小さな鍋はデューの仕業だろう。炎にひるまず、ミュエは手を入れてその鍋をひっくり返した。突如湯に襲われたことで驚いたアッシュボーンは辺りに灰を撒き散らし、ミュエの汚れた靴へ纏わりつく。
汚れを落としながら、膝まで上ってくるのは心配をしているからだ。彼女の暴挙に怒りを見せず、浮いた灰は頬にまで伸びる。炎がなければ生きていけないアッシュボーンの暖炉には、いつから、どこから現れたか知らないデューが新たな火を灯していた。
空気が乾燥しないために沸かしていた湯もいつの間にか元通りになっている。こんなものがなくてもこの空間は寒さも暑さも通さない、快適な空調のはずなのに、今まで受け入れていたはずの一つ一つが今は強く違和感として残る。
「すまない」
アッシュボーンがミュエのフードを下ろす。デューはカバンを肩から下ろし、フードを外した。
ミュエの白い肌を赤く照らす炎の元へアッシュボーンは戻っていく。デューに肩を押されて椅子に座ると、綺麗になった靴を脱がされた。瞬き一つ、その間に影に呑まれて次はベッドの中にいる。
着替えたい、風呂に入りたい、もう一度アッシュボーンに謝らなくてはならない。いろいろと考えることはあるのに、そのどれもが、何もかもが今は面倒で、枕に顔を埋めて瞼を下ろした。
ドアの向こうで、赤ん坊の泣き声がしている。デューやアッシュボーン、マンドラゴラたちがあやしているはずなのに声は止まない。強く枕を掴むと、指が深く沈んだ。あの弾力のある頬とは違う感触が少しだけ物足りないが、眠れないほどではない。庭に面した窓から差し込む温かな光から逃げるようにからシーツを被り、ミュエは小さく丸くなる。
その日、アーランドが来た気配がしてもミュエは寝室から出なかった。
その代わりに、夢を見ていた。眠っていた気がしないので、もしかしたら幻だったかもしれないが、リリーの夢だ。
三人の子どもに囲まれて幸せそうに彼女が笑っている。口に出す三つの名前をミュエはもう思い出せなかった。それでよかったのだ。彼女が呼ぶ名前を知ったとしても、それをミュエが名づけることはできなかっただろう。
赤ん坊も、――母親を死に追いやった魔物に母親からの贈り物を奪われたくないはずだ。
裸足の指がシーツを掻く。両手で顔を覆って、頭頂部まで撫でていく。口を動かすと頬が痛かった。知らないうちに歯を食いしばり過ぎて、筋肉が固まっているようだ。
シーツに包まっているせいで時間の経過が分からない。赤ん坊の泣き声は聞こえず、デューのノックももうしない。鬱憤すらも投げ捨てるような勢いでシーツを跳ねのけると、窓の外はすっかり暗くなっていた。月のない暗色の世界。
裸足で床を踏みしめ、ミュエはガラス窓を上げた。吹き込む風に混ざる湿った匂いは雨季の到来を示唆し、黄金の目に映る花々は少しずつ姿を変えていた。ゆっくりと花を眺める時間さえもなかった。赤ん坊が来てからは彼らに構う時間が増え、名前に悩んで時間を費やした。散々な言葉を受けた。
妖精の一人以外は、ミュエの手を離れても問題ないだろう。妖精避けにアッシュボーンの灰を擦り付けただけ。何度も風呂に入り、風に当たり、汗をかき、細かい灰まで新陳代謝と一緒に垢となっておちていく。魔物のミュエと一緒にいても赤ん坊まで化け物になるわけではない。魔物の痕跡も薄れ、人間の中にいても問題ないはずだ。
ああ、それなのにどうして、今すぐそれが実行できないのか。
移り変わるこの花を見せてやりたいと思うほどに毒されてしまって、我ながら情けないとさえ、思う。
窓枠に指を滑らせ、なびく髪をそのままにミュエはしばらく庭を眺めた。眺めるふりをして、脳を空っぽにしていた。
過去の静かで穏やかな生活を思い出すことが難しい。両腕の内側が温もりや柔らかさを覚えていて、腕の中に一日のほとんどを抱えることもあってか空っぽになると行き場に困る。
赤ん坊。人間の子ども。百年も生きられない弱っちい奴。私が殺した女の、忘れ形見。
ミュエはリリーの望みを叶えた。
だがそれはミュエとアーランドのみが知ることだ。二人の中でどれだけ誠意を尽くしたとしても、他者からすれば母親を犠牲にしただけの人殺しでしかない。薬瓶に気付いているのはジブリットだけかもしれないが、いつ噂が回るかも知らない。
この家は、失えない。――何があっても、守らなければならない。
『――――』
魔物の言葉が物騒な意味を奏でる。黄金の中心で赤い輪が光った。
ミュエはそのまま窓から飛び出し、裸足のまま草を踏みつける。真上にそびえる月は細く、頼りない光で街を包んでいる。
ロマジカの森が唸り、木々から散る葉が弾丸のような影を作った。さく、さく、と音を立たせながらミュエは街へと向かう。松明が一瞬炎を見せたが、通り過ぎるとすぐに消えてしまった。