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面倒なお願い(3)


 アーランドの話を聞いても、ミュエの悩みは容易に晴れるものではない。


 直感が大事だとか、愛情がこもっていれば何でもいいだとか、あまり役に立たないアドバイスはむしろ余計に靄を生んだと言ってもいい。

 日が傾き始めた時間に三人の揺りかごを押して畑近くまで散歩に出た。黒髪の女児は手を伸ばして音もなく笑い、金髪の男児は目だけをあちこちへ動かし、妖精は瞼を閉じている。生まれて間もないというのに既に個性を見せ始めている賑やかな三人をミュエは畑を囲う柵に座って眺めていた。


 森にもロマジカという名前がある。薬の材料になる草木にも、揺りかごのタイヤを汚す雑草にも名前がある。

 誰かが名前をつけたのだ。恐れの対象として、あるいは利便性を求めて、または支配するための識別として。名前には様々な理由がある。様々な意味が伴う。ミュエが長く身を寄せるこの場所を『家』と呼んだ瞬間に意味が生まれたように、彼らに与える意味は、よりよいものであるほうがいい。


「……どうしたものかなあ」


 恐ろしい魔物とも知らず、見えているかわからない細い目で二人はミュエを見る。空や草や虫に視線を向けていても、まるで存在を確認するかのようにミュエを見る。無垢な瞳に見つめられると言いようもないくすぐったさに襲われた。風になびく髪が頬をなでるよりも優しい感覚は、同時にミュエに苦悩をもたらす。

 肌にはりつく黒髪を指先で絡ませるその表情は硬く、眉間に皺が寄っていた。空がオレンジに染まるまで、ミュエは穏やかな時間を豊かな緑の上で過ごした。ガーゼのタオルとブランケットを持って畑に現れたデューに背中を押されるようにして家へ戻る際、つい「お前がつけてやればいい」と呟いたが、ない頭を傾げる彼にそれ以上は言えなかった。

 

 それから二日、三日経っても名前は決まらない。畑で、調合室で、寝室のシーツに包まって、庭で、ロマジカの森で、ミュエは場所を変えては名前について考え続けたが、一向に纏まらない。候補を紙に書きだしたこともあるが、口にするのは躊躇われて結局没になる。ここ数日の紙とインクの消費量が激しく、とうとう底を尽きたせいでミュエは街へ下りていた。


 雑貨屋の入り口をくぐった瞬間にインクを買いためてあることを思い出すくらいには、余裕が失われているのだ。気付いたときにはドアベルが鳴っており、店主に声をかけられたので引き返すのも態度が悪いだろう。ローブを深くにかぶり、いつも購入するインクを棚から取ってカウンターへ持っていく。

 木の匂いが心地いい店の店主は年老いた女性で、しかし金を受け取る手付きやインクを包装する手技は曇っていない。


「……失礼なことを伺うかもしれないが」


 ミュエは年に数回、この店を訪れる。次に来るときには忘れられていることを信じ、店主のやや警戒した「なんだい」という声音に引かないでおく。


「名前を聞いても?」


 店主は数回瞬きをし、親指で背後を差した。視線を向けると、そこには「雑貨屋ヴィヴィアン」という旗が飾られていた。質のいいインクを売っている店と認識していたミュエは、そこで初めてこの店の名前を知った。そして、店主である愛想のない女性の名も。

 瓶が割れないよう丁寧に梱包された品物をミュエへ差し出し、分厚い唇はミュエの関心のなさへの文句が飛び出した。その中には、自身の名に恥じない店にしたい、という店主の思いも含まれていた。

 店主の背後にそびえる刺繍が施された旗は、店主にとっては誇りでもあるのだと、ミュエは感じていた。カウンターに手をついてミュエを見る店主の目はやはり不躾な質問を不快に感じているようでもあったが、「何か気に入らないことでも?」という凄味のある問いかけに首を横に振ると、奥へと戻って行ったので事なきを得たのだろう。


 ミュエはインクをカバンに収め、リリーの家へ足を向けた。賑やかな大通りで飛び交ういくつもの名前を聞きながら、細く暗い道へと入っていく。


 小さな家の輪郭が見えたとき、ミュエは一度足を止めた。リリーの家に明かりがついているのに気付き、息をひそめた。

 声は聞こえない。中で暴れている気配もない。ゆっくりと音を立てないように近付くと、中にいるのは二人の人物だと感づいた。そしてその内の一人は、その魔力に気付いた事実が腹立たしいほどに知っている人物だ。


 リリーの家に待ち伏せ――されるほどに行動が読まれている。あの魔法師がどれほどの実力者なのかミュエは詳しく知らないが、この距離でもしミュエの気配に気づいていたとすれば、ここで来た道を戻るとまるで逃げるよう。

 アーランドの渦中に踊らされるのは不快だが、あの男が無意味にリリーの家にいるとも考えにくい。ミュエを待っていたとすればなおのこと、何か意味があって、意味のある人物をつれているのだろう。

 だがミュエは、人間と必要以上に関わるつもりはないのだ。アーランドにリリーを紹介されて以降、赤ん坊を二人と一人引き取りミュエの周囲には一気に人間の割合が増えたようだが、大歓迎しているかと聞かれれば迷うことなく否と答える。


 整備されていない道に、躊躇いに揺れる靴の爪先が跡を残した。人間に自分から声をかけたのだって、らしくない行動だ。リリーの家まで来たことも、何を考えてのことなのか迷走する脳ではもうわからなくなっている。


 そもそも、こんなことで頭を悩ませること自体がどうかしている。


 たかが人間の子どもに、私が。


 けれどリリーの最期のお願いが休むことなくちかちかと胸で光っている。かさついた唇の感触は鮮明で、久しぶりに嗅いだ血と死の匂いは家の外観だけで思い出せる。最善を尽くした。リリーの願いを叶えることには成功した。

 ミュエが与えた薬が、リリーの命を奪ったとしても。


「人殺し」


 泥に汚れた爪先を見つめていると、まっすぐに言葉に貫かれた。慌てたアーランドの声が追いかけて来たが飛び出た言葉を止めるすべなどない。

 リリーの家から出て来た少年は今にもミュエに飛びかかろうとしていた。白い衣装、金のブローチ。乱れた額には金の輪が刻まれており、治療院の魔法師だとすぐにわかった。アーランドは彼をジブリットと呼んだ。ジブリットの背後につき、脇から手を入れて肩を抑えている。体格に差があるせいで身動きができない状態だったが、ミュエを睨む目は緩まない。

 白い靴が泥に汚れていた。それでもミュエの目には、綺麗なものとして映った。


 大きな声ではなかったが、よく通る声だ。動きを止めるので精一杯なアーランドは彼の口まで封じることができず、その場を立ち去らないミュエはジブリットの刃を身に受ける。


「リリーさんにあの薬を飲ませたのはあなたでしょう」


 否定も肯定もしない。が、フードから覗く口元の引きつりを見過ごさなかったジブリットは確信して語気を強める。


「身体にストレスを与えて、無理やり子宮を収縮させて出産を早める――それが、彼女にとってどれだけリスクが高いことか知っていたでしょう」


 一応、鎮痛の効果も入れていががそれは余計な一言に違いない。


「あなたは、リリーさんを犠牲にしたんです。子どもはどこですか。何が目的で、」


「いい加減にしろジブリット!」


「アーランド先輩、あなただってこの一件に加担して……」


「僕を巻き込もうとするな。それに、僕はこの件に関与してないって言っただろ」


 元凶が何を言う。


 咄嗟に出そうになった言葉を、ミュエは口を手で押さえて無理やり飲み込んだ。目の前の光景が、気味が悪かった。濡れた髪が背中に張り付くよりも大きい不快感。払いのけても、見えていないのに一本張り付いているのが伝わってくる感覚。


 大根役者の寸劇を見ている方がまだマシだ。頭を悩ませ続けてきた悩みが急にどうでもよくなった。わざわざ人間に理解を示さなければならないことでもない。ちく、ちく、それでも胸の奥に居座り続けるリリーの温もりを拭うように額を押さえ、ミュエは勝手に騒いでいる二人に背を向けた。ジブリットは引きとめようとするが、アーランドは依然として彼に自由を許さない。

 この件に関与していない人間が必死になってくれることは感謝すべきか。いい皮肉になりそうだとも思ったが、黄金の目には疲労が浮かんでおり振り返ることも億劫で二人の目の届かない場所で影に溶け込んだ。



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