90. 嫌な男ね
シルバーとリヒターが自宅に戻ると、玄関で待っていたのは涙目のセレンだった。
「もう! アルたちが急に女の子を連れてきたと思ったら、目の前でいきなり倒れるんだもの。お医者さんを呼ぶべきか、ものすごく迷ったのよ」
せめて連れてくることは事前に知らせて欲しいわ! と眉をつり上げたセレンの後ろで、セグニットがぶんぶんと首を縦に振っていた。
セレンによれば、ヨルダはこの家に着くやいなや、その場に崩れ落ちるように倒れてしまったらしい。
セレンは驚きのあまり文字通り飛び上がり、医者を呼ぼうとした――が、身元が身元なのでアルジェンとセグニットに止められてしまった。
そのため彼女は、以前ステラが使っていた部屋のベッドを超特急で整え、そして『どうやら眠っているだけだ』と判断できるまでヨルダのそばにぴったりと張り付いていたのだという。
――それで、ようやく気を抜くことができたのがつい先ほどだったらしい。
同じく付き添っていたセグニットも疲れた顔で「俺はもう帰る……今日は休みなんだよ」と言いながら、とっぷりと暮れた中を自宅へと帰っていった。
「セグはアルと私だけじゃ心配だからって残ってくれてたのよ。リヒター、後でちゃんとお礼言っておいてね」
「分かってる。……まあ、一番お礼を言うべきなのは件の眠り姫様だと思うけど」
突然現れて、シルバーに婚約を迫ってやっかいごとに巻き込み、そして匿われるために訪れた先で突然倒れ爆睡したのだ。セグニットとセレンだけではなく、兄弟とリヒターも巻き込まれた被害者なのだから。
「……ねえ、本当に王女様なの? アルが、『シンを口説いてた』とか言ってたんだけど本当なの?」
セレンがチラチラとシルバーを見ながらそう言うと、案の定シルバーは世にも嫌そうな顔で舌打ちをした。
リヒターはくつくつと笑いながら、ぶすっとしたシルバーを慰めるように背中を叩いた。
「あいつ、本当に適当なことばっかり言うなあ……誰に似たのやら」
「あんただよ」
「あなたよ」
即座に冷たい目を向けてくる妻子に、リヒターは心外だとばかりに片手で顔を覆った。
「シンがそう言うのは分かってたけどセレンまで!」
「日頃の行いよ。シン、アルが夕食の準備してるから手伝ってくれる? 私はお姫様の滞在に必要なものを準備するから」
「分かった」
「ねえセレン、僕は?」
「リヒターは夕食まで休んでなさい。昨日だって遅くまで持ち帰りの仕事してたでしょ」
「セレンは優しいなあ。僕、君のそばにいるのが一番休まるから一緒にいて良い?」
すっと肩に回された手を、セレンは容赦なくベチンと叩いた。
「は? 邪魔よ。女の子の支度よ? あなたは寝室で寝なさい」
「やだなあセレン。邪険にされたくらいで僕が諦めると思ってる?」
ニコニコと上機嫌なリヒターに肩を抱かれ、セレンはしかめっ面をシルバーへと向けた。
「……シン、気をつけなさい。こういう執拗なべたつき方は嫌われるからね?」
「あー……、はい」
微妙な心当たりに、シルバーはすっと目をそらした。
それで諸々察したセレンは、「全くユークレースの連中は……」と大きくため息をついたのだった。
***
キシ、と微かに床が軋む音でシルバーは目を覚まし、体を起こして耳を澄ました。
時間は日付が変わってしばらく経った頃だろう。
キシ、キシ、とゆっくり、断続的に聞こえるのは間違いなく誰かが廊下を歩いている足音だ。
――誰か、といったところで、そんなのは一人しかいない。
アルジェンは家の中で足音を潜めたりしないし、その気になれば音など立てずに歩く。両親だって、こそこそと歩く理由がない。
おそらく精一杯の忍び足で歩いている『誰か』の足音は、トン、トンとゆっくり階段を下っていく。
(下に降りてなにするつもりだろう……逃げ出す理由はないと思うけど)
相手が完全に階段を降りた頃合いを見計らって、シルバーは自分の部屋を出た。
そして、こちらは完璧に足音を殺して階下へと降りる。
「なにやってるの」
「ヒッ」
わざと驚くように不意打ちで声をかけたのだが、その人物――ヨルダは空気を吸い込むことで悲鳴を抑えた。
「夜中に歩き回るのが王族のマナー?」
ヨルダが悲鳴を上げなかったことに少しだけ感心しながら、シルバーは廊下の灯りを点けた。
「……あっ、怪しいマネをしてると思ったかもしれないけど――」
「自覚はあったんだ」
ヨルダの言葉の途中で割り込んだシルバーの返しに、ヨルダは口をパクパクさせる。
シルバーがわざわざ見に来た理由は、逃げ出すとか隠れていた仲間の侵入を手引きするとかだと困るからだった。
しかしこのオロオロした様子からして、おそらく用を足したいといった普通の理由だろう。
「で、なにを探してるの」
「……の……喉が渇いて……」
「喉? 水差しが置いてあったでしょ」
ヨルダが夜中に目を覚ましたときのために、セレンが彼女の枕元に水差しを置いていたはずだが。
シルバーが首を傾げると、ヨルダも鏡に映したように「水差し?」と首を傾げた。――どうやら、用意されていたことに気付かなかったらしい。
「……用意してくれていたのね。暗かったから気付かなかったわ」
「こっちが言わなかったから気付かなくても仕方ないさ。お姫様が玄関でいきなり爆睡したから伝えられなかったんだとしてもね」
「あなた良い性格ね」
片眉をピクリとつり上げたヨルダがむすっとした顔で腕組みをした。と同時に、彼女のおなかの辺りから、ぐぅ、と小さな音が聞こえた。
「軽食も一緒に置いてあったんですよ、お姫様」
「そ、そこは聞かなかったふりをするのが紳士でしょう?」
「僕、子供だから紳士じゃない」
「嫌な男ね」
シルバーは「はいはい」と気怠そうに応じながら、廊下に立ち尽くしていたヨルダを追い越して歩き出した。そして、一つの扉の前で足を止めた。
「こっち来て」
「え?」
ヨルダの返事を待たずに開けられた扉の向こうはダイニングだった。
「入って。簡単な食事、用意するから」
「あ、あなたが用意するの?」
「え? ああ、毒味役がいないとだめなんだっけ」
「そういうことじゃなくて……いえ、疑ってなんかないし、毒味なんて必要ないわ」
「ならそこ座ってて」
シルバーはおざなりな手つきでダイニングセットの椅子を指し示すと、そのまま奥のキッチンスペースへと歩いていった。
「あの……ありがとう」
ヨルダがその背中に向かって声をかけると、シルバーは軽く振り返って、ふ、と鼻で笑った。
「グーグー盛大に騒いでるし、軽食じゃ足りなさそうだから」
「……あなたって本当、嫌な男ね……」




