8. お母さん思いの
勉強は座学だったり精霊術の実践だったりする。教師役は、リヒターがいるときは彼が見てくれるが、いないときは他の教師が来る。
ステラのことがあってバタバタはしたが、その後はいつものように勉強をして、夕食の時間前に解散となった。
いつもならここから姉弟そろってセレンの手伝いに行く。
だが、今日は。
「シン、少し話をしたいから残ってくれるかな」
部屋を出ようとしたところにリヒターに声をかけられ、シンシャは足を止めた。先に部屋を出ようとしていたアルジェンも振り返って首を傾げる。
「シンだけ?」
「うん。君らはセレンの方に行ってあげて」
「はーい」
彼は素直に返事をして、ステラを連れ部屋を出ていった。
その扉が完全に閉まるのを確認してから、シンシャはリヒターを睨み付けた。
「要件を、簡潔に」
「はいはい。気難しいお年頃だなあ」
「チッ」
下手に悪態をついてしまうと精霊術が発動してしまうので、シンシャは言葉を呑む代わりに舌打ちをするのが癖になってしまっている。我ながら良くないなと思うが、うっかり人を殺してしまうよりはずっとましだと自分を納得させる。
「察しはついてると思うけど、ステラのことだよ。彼女が街に出るとき、必ずシンがそばについていて欲しいんだ」
「本家対策か」
「うん。見える人間がいたら、彼女の特殊性が一発でばれちゃうからね。まだあっちには知られたくないんだ」
「……」
「シンが一緒にいればちょうどいい感じにごまかせるっていうのはさっき実証できたから……それにしても、ふふふっ」
シンシャは思い出し笑いを始めたリヒターをぎろりと睨み付ける。頭に浮かんだ悪態を振り払い、再び舌打ちをした。
「ごめんごめん。いやあ、女の子にあんな風に抱きつかれたら動揺しても仕方ないさ。シンも思春期の男の子なんだなぁって思ったよ」
「クソじじい……」
シンシャはドカッと椅子に座って、紙を引き寄せてペンで文字を殴り書きする。
『あいつに精霊が寄りつかない理由はもう分かってんだろ』
「そうだなあ……こうじゃないかなって推測はついている。ただ、それだけじゃ説明がつかないからもう少し彼女の身辺を色々調べたいかな」
『推測の内容は』
「えー? まだ秘密ー」
『くたばれ』
「もー、うちの子たちは口が悪いなあ。だれのせいだろう」
そんなのはどう考えてもリヒターがいないときに教えに来てくれる教師役のせいだ。だがリヒターもそれは分かっていて放置しているので結局の所彼のせいだろう。
シンシャはもう話すことはないという意思表示のためにペンを机に転がす。
転がったペンを、リヒターが拾って手の中で弄ぶ。
「ステラはすごくいい子だよ。お母さんの生活を楽にするためにたった一人で故郷を離れて、そしてここに来るまで文句の一つも言わなかった。暑いとはよく言ってるけど、まああれは文句ではないからね。――とにかく、とてもお母さん思いのいい子なんだよ。僕らには彼女の力が必要だから、嫌われないように仲良くしなさい」
「……」
(僕ら、ね)
シンシャは短くため息をついて、リヒターの手からペンを奪い返す。そして紙の真ん中に大きく文字を書いた。
『死ね』
「ふふふ、以外と気に入ってるからユークレースの事情に巻き込みたくないんだろ。……まあ、そういう道だってあるかもしれないし、探してみなよ」
シンシャは黙ったまま紙をつまみ上げて宙に放る。
「消せ」
ひらりひらりと落ちていく途中の紙は、灰さえも残さずに燃え尽きて消えた。
***
「あ、シン! 聞いてよこいつ酷いんだよ」
「……じゃがいもは固いとこと芽だけ取れば食べれるもん」
「文明があるところだと見た目も綺麗にするもんなんだぜ」
「野菜は皮の辺りに栄養が多いんだよ」
「それって、さっきステラが分厚く剥きすぎてダメになった部分のことだろ?」
わあわあと言い合いを始めた二人に、シンシャは顔をしかめる。
どうも、二人はセレンに野菜の皮むきを任されたらしい。アルジェンは何でもそつなくこなすタイプで、皮むきなど朝飯前である。一方のステラは……。
白い肌に、大きなヘーゼルグリーンの瞳、それにふわふわとした髪は薄いピンクベージュ。全体的に色素が薄めで、愛らしい顔立ちの少女の手に握られたじゃがいもは――なめらかな曲面はほとんどなく、すっぱりと切り落としたように平らな面で構成されていた。
「……」
「ううう……」
シンシャは無言でステラからナイフとじゃがいもを取り上げ、椅子に腰掛けて残りの皮をむく。
仕事を取り上げられたステラがしょんぼりした様子で布巾を手にし、テーブルの上を拭き始めるのを見て、アルジェンが話しかけはじめた。どうやらステラを構いたくて仕方がないらしい。
「ステラは家の手伝いをしてなかったの?」
「食材調達と洗うところまでは、やってた」
「ステラが料理したら可食部分なくなりそうだもんな」
そうやってステラをからかいながらも、アルジェンはスルスルと作業を続けてカゴの中の野菜をすべて剥き終わってしまった。
「アルは器用だね」
「ステラは不器用だね。シンもそんなに器用じゃないけど、剥き終わったじゃがいもがちゃんとじゃがいもの形をしてるもん」
ステラがむいたじゃがいもはサイコロだ、と笑う。
「できないことは、迷惑になるから手を出さないの」
「ええー練習から逃げてたらいつまでもできないじゃんか」
「アル、これ」
処理の終わった野菜をひとまとめにしてアルジェンの方へ押しやり、話を止める。彼は一瞬、おや? という顔をしたが、「了解」と返事をして野菜の入ったカゴを抱えてセレンのもとへと運んでいった。
ステラが住んでいた村は農業に向く気候ではないし、育った家庭もあまり裕福ではないようだと聞いている。練習のために食材を犠牲にする余裕などなかったのだろう。
アルジェンは口が悪いものの聡い人間である。そういう事情を知っていれば、からかいのネタにはしなかったはずだ。後で話しておかないといけないな、と嘆息する。
他人を家に滞在させるというのに、そういう事情をきちんと家庭内で共有しておかないリヒターが悪い。クソジジイめ、と心の中で悪態をついて、しおれたままテーブルをピカピカに磨き続けるステラを見る。
「……練習」
「へ?」
「するといい。……失敗しても困らない」
ステラには精霊術が効きにくいというのは分かっていても、話をするのはやはり怖い。細切れの言葉を並べてきちんと伝わるのか怪しいが、いつもアルジェン相手にするように耳打ちで話すというのも問題がある。
――なぜなら、シンシャは少女ではなく、少年だからだ。
やむを得ない事情があって女として生活しているが、精霊のせいで幼い頃から引きこもりで、外との接点もほぼないので完全に女性に対して――というよりもむしろ、人間全般に対して免疫がない。
案の定、ステラはなにを言われたのかよく分からなかったらしい。首を傾げて目をパチクリとさせている。
だが、数拍遅れて理解したらしく、その顔に笑みが広がった。
「ありがとう、シン」
「……」
どう返事をしたらいいのかが分からなくて、結局黙り込んでしまって気まずい沈黙が落ちる。――だが、気まずいと思っているのはシンシャだけで、ステラは上機嫌で布巾を畳んでいた。
それはそれで、なにか声をかけるべきなのだろうか……。
シンシャが無表情のまま心の中で煩悶しているところに、やっとアルジェンが戻ってきた。
「ねー、明日ステラに街の案内してあげたらって言われたんだけど、シンは行く?」
アルジェンの明るい声に安堵を覚えながら、シンシャは黙ったまま頷く。リヒターから離れるなと言われている手前、行かないわけにはいかない。
「オッケー。ステラは行きたいところある? ってまだ街のこと分かんないか――」
「図書館に行きたい!」
ぱあっと表情を輝かせたステラが、前のめりにアルジェンへ詰め寄った。
掴み掛からんばかりのステラの勢いに、アルジェンは背をそらして顔を引きつらせている。
「と、図書館?……いいけど、ステラって文字読めるの?」
「読み書きできるよ! アントレルの識字率をなめるな!」
「ごめん、なめてた……でもそれならシンと筆談できるな」
アントレルの所在地や生活環境を考えると、普通であれば識字率はそこまで高くなさそうなものだが――精霊術への理解といい、なかなか謎の多い村である。
「図書館でなにか読みたい物があるの?」
「……え……本を読みたい」
「いや、そうだけどそうじゃなくて……」
もしや彼女は図書館というものについて『たくさん本がある場所』くらいのぼんやりとした認識しか持っていないのではないだろうか。
図書館の利用方法を説明するアルジェンの声を聞きながら、筆談するなら簡単な単語のやりとりくらいかもな……とシンシャは認識を改めた。