85. 悪い方向にね
結局、アグレルが本調子に戻り、出発できるまでには二日ほどかかった。彼は到着の翌日には動けるようになっていたのだが、乗馬で移動することを考え、念のためもう一日休んだ形だ。
その『念のための』一日の間に、リンドグレン家は運び込んだ荷物を整理したり、――アルジェンからの襲撃を受けたりしていた。
「やっほーステラおかえりー」
「……ただいま」
明るく片手を上げて挨拶をするアルジェンを、ステラはぽかんと口を開けて見つめた。
ステラだけでなく、同じく別館のラウンジスペースで休憩を取っていたリンドグレン一家は全員同じような顔で彼を見ていた。
何故ならば――さらりとした黒髪を揺らし、爽やかに片手を上げて笑いかけてくる少年が、本館と繋がる連絡通路も、せっかく備え付けられている別館の玄関も使わずに、二階にあるラウンジスペースの窓からひらりと入ってきたからである。
「ねえアル、知ってる? 人類は二階の窓じゃなくて、そこにある連絡通路のドアや一階の玄関から入ってくるものなんだよ?」
ステラがラウンジスペースから本館へと繋がる連絡通路のドアを指さしながらそう言うと、アルジェンはニッと笑った。
「へえ。じゃあ俺、人類を超越したな」
「……悪い方向にね」
ため息を吐いたステラの反応を見て、突然の乱入者に身構えていたレビンがためらいつつ警戒を解いた。ひとまず危険な敵ではないと判断したらしい。
「……なんか毛色の違う生物が入ってきたけど、ステラの知り合い?」
ぎゅっと眉をひそめたレビンのその声に反応して、アルジェンは「おお!」と歓声に似た声を上げた。
「話に聞くステラのオトーサン? 若すぎじゃない?」
「いや誰なんだよ君。それにおとうさんと呼ばれる覚えはないが」
「ああそうだった、はじめまして。俺はアルジェン・ユークレースといいます。リヒターの息子で、シルバーの弟です」
ニコリと微笑んだアルジェンはきちんとしたお辞儀をした。美しい顔立ちに、子犬のような無邪気な人懐っこさを感じさせる微笑みは、洗練された所作と相まってとても好印象である。窓から入ってきたという事実さえなければ。
「シルバーの弟ぉ?……兄とキャラが違い過ぎだろ」
「シンは諸々複雑なんで。女装とか引きこもりとか」
不信感たっぷりに言ったレビンに、アルジェンが軽い口調で答える。
諸々複雑なのに、誤解を与えるところだけを切り取って口にするのは彼の性格からしてほぼ間違いなく故意だ。さすがリヒターの息子である。
案の定、事態を見守っていたコーディーが戸惑った顔を見せた。
「女装……? シルバーくんが?」
「ああ、諸々事情ありますけど、とりあえず趣味だと思ってもらえれば」
「アル!! 適当なことばっかり言ってるけど、あとで全部シンに報告するからね?」
「えー、怒られるじゃん」
「そりゃそうでしょ――っていうかアル、一人でこっちの島に来たの?」
アルジェンの――というかリヒターの――家は町の中にあるので、本家に来るには橋を通らなければならない。先日シルバーが言っていたように橋の通過には手続きが必要だし、彼が一人でやってくるとは考えにくい。
……それとも、実はステラたちが不在の間、リシアに会うために足繁く通っていたのだろうか。
しかし、彼は首を振った。
「いや、父さんとシンについてきた。シンは父さんに捕まって働かされてるけど」
「ああー……」
結局捕まったんだね、とステラは心の中で手を合わせる。
「あと、ここにくる途中までリシアが一緒だった。俺、別館の場所よく知らなかったから」
「ん? 途中まで? リシアも忙しいのかな」
「いや? 別にそうでもなさそうだったけど」
忙しくないのに途中までしか来なかった、というのはよく分からない行動だ。
やはりリシアはレビンが怖いのだろうか……とステラが首を傾げていると、先程ステラが指さした、連絡通路のドアからベルの音が響いた。誰かが訪ねてきたのだ。
レビンが「どうぞ、鍵は開いてます」と声をかけると、ガチャッと、やや勢いよくドアが開かれる。
「アルっ!!」
現れたのは、何故か涙目になっているリシアだった。
彼女は「失礼します!」と小さくお辞儀をして、ツカツカとアルジェンへと詰め寄った。
「窓から飛び降りたら危ないでしょ!? 三階だよ!? 落ちたら怪我じゃすまないんだからね!?」
リシアは祈るように胸の前でぎゅっと両手を組み、彼女らしからぬ剣幕でまくし立てた。
――その、まくし立てる言葉の中に気になる単語が混ざっていた。飛び降りる、と、三階、だ。
「……三階から飛び降りた?」
聞き間違いかもしれない、とステラが聞き返すと、青い顔をしたリシアがステラへ振り向いて頷いた。
「別館に案内してたら、途中で急に、飛び降りたの……」
「……ええと……つまりアルは、本館の三階の窓から飛び降りて、そこの窓から入ってきたの?」
「うん。廊下からステラが見えたから、ショートカットした」
思わず口元がひきつるのを感じる。もちろん、精霊術で動きを強化することに長けた彼の能力を持ってすれば可能だろう。だが、問題はそういうことではない。
ステラは大きく息を吐いてから、ギッとアルジェンを睨みつけた。
「――ショートカットした、じゃありません! それじゃあ不法侵入と変わらないでしょ!? 空中は通路じゃないし、窓は出入り口じゃないの! なにより、ここにいるのはクリノクロアの人間なんだよ? 精霊術がうまく発動しない可能性だってあったんだからね!? それに、リシアを泣かせないでください!」
リシアを、のくだりでアルジェンはバツが悪そうに彼女に目を向け、それからステラに視線を戻した
「……ギリ泣いてないし」
「は!?」
「……ごめんリシア」
口をとがらせたアルジェンが、いかにも不承不承ですという態度で謝罪を口にする。――だが、リシアが泣きそうなことに内心とても動揺しているらしく、視線がうろうろとさまよっていた。
「いっ、い、いいの、私、私が驚いて、ぱに、パニックになっちゃっただけで……」
謝られたこと、そしてアルジェンが動揺していること――に対してリシアも動揺してしまい、上ずった声で早口に告げる。更に、ギリ泣いていなかった瞳からは今にも涙がこぼれそうだ。
ステラはその二人の様子に肩をすくめた。
「リシアは間違ったこと言ってないし、素直に謝罪を受ければいいの。そしてアルは反省することと、もうやらないこと。それでおしまい。いいですね?」
「はっ、は、はい」
「へーい」
よし、とステラが頷けば、後ろから忍び笑いが聞こえた。
「……なに笑ってるの、父さん」
「いや、ステラの怒り方がコーディーさんにそっくり過ぎて」
「子どもたちの力関係が分かるなあ」と笑いをかみ殺すレビンの隣で、コーディーが複雑な表情をしていた。
「ああ、やっぱりそうよね……なんだか私も既視感があると思ったわ……」
「コーディーさんもステラも、二人ともしっかりしてるってことだよ」
そう言ってコーディーに笑いかけたあと、レビンはアルジェンに向き直った。
「挨拶してなかったな。俺はレビンで、彼女はコーディーさん。知っての通りステラの両親だ。ま、ステラと仲良くしてやってよ」
「うん。ねえレビンさん、なんか体術やってるでしょ? 手合わせしようよ」
「ものすごいマイペースだな君……」
先程までのやり取りなどなかったかのように切り替えたアルジェンは、ものすごくうれしそうにレビンへと詰め寄った。
「だってしばらくシンがいなかったし、セグだっていつもいるわけじゃないし……体動かす機会が少ないからなまっちゃってて。そろそろガッツリ体動かしたいんだよね」
「……残念だが俺は明日からしばらくここを離れるから、ガッツリ体動かすのには付き合えないぜ」
「ええー。あ、うちの父さんが言ってたやつか。クリノクロアに行くとかどうこうとか」
「そうだけど……っていうかシルバーレベルの相手と普段からやり合ってる奴と手合わせなんかしたくないわ、俺」
「俺、精霊術なしだとシンにはまだ敵わないんだ。だから大丈夫」
「大丈夫の意味が分からん」
「もー、仕方ないなあ。じゃあ戻ってきたらでいいからやろうよ」
「本当にマイペースだな君!!」
結局、レビンは『戻ってきたらアルジェンと手合わせをする』と約束させられてしまい、翌日、ニコニコしたアルジェンを含む皆に送り出され、アグレルとともにレグランドから旅立っていったのだった。




