84. 別館
ユークレース本家、別館――。
そもそも本家のある島は軽くアントレルの村が収まってしまうくらいの大きさがある。
その三分の一は本館が占め、その周辺に来客用の滞在施設である別館がいくつか建てられている。
案内されたのはそのうちの一つで、ノゼアンが言っていた通りにきちんとした玄関があり、本館の中を通らなくても直接外へ出られるようになっていた。
本館へ続く廊下が各階にある以外は『立派な一軒家』と言ってもいいくらいの建物だ。
内部は来客用の施設だけあって必要な家具がすでに備え付けられており、さらにベッドには屋敷の使用人によってシワ一つない真っ白なシーツがかけられていた。
引っ越し――のはずなのだが、各自どの部屋を使うのか決め、着替えや小物など身の回りの品を運ぶだけであっという間に生活できる空間ができあがってしまった。
「こんな立派なお屋敷……本当に私みたいなのがここにいていいの? 場違いよね? 逮捕されたりしない?」
広い居間の大きなソファに腰掛けたコーディーが自分の肩を抱いて小さくなりながらボソリと呟いた。
初めこそ大きな窓から海が見えることに無邪気に喜んでいた彼女だったが、興奮の波が収まり我に返ったところで怖くなってきてしまったらしい。
「コーディーさん、大丈夫だから落ち着いて」
レビンが隣に腰掛け、苦笑しながらコーディーに寄り添う。
「こ、ここの建物は、今までほとんど使っていなかったんです。さっ先ほど荷物を運び込んだ部屋以外も、じゆ、自由に使って下さい」
リシアもわたわたとしながら説明を付け加えた。だが、ステラはその説明に首を傾げる。
「こんなに立派なのに使ってなかったの?」
本館自体が大きいし使っていない部屋も多いようなので、別館の出番は少ないのかもしれないが……使っていなくてもきちんと綺麗に手入れされているし、ステラの頭の中にはもったいないの一言しか浮かんでこない。
そんなステラに上手く説明しようとして「えっとえっと」と繰り返すリシアを、シルバーが手で制した。
「場所が奥まってるし、独自の玄関があって自由に出入りできるから、信用できない連中の滞在に向かないんだ、ここ」
「ああ、信用とかそういう……あれ、でも別館って来客用なんだよね? 他の別館には玄関がないの?」
「他は別館っていうより別棟。使用人用の通用口はあるけど、ここみたいな玄関はない。だから来客は基本的に本館へつながる廊下から出入りすることになってる。で、その廊下と通用口の出入りは記録されるんだ」
「記録……えーと、ここの玄関は記録してないの?」
「玄関ではしてない、けど結局町に渡る橋の両側でチェックしてる。だから、バレないように島を出たいなら船を使うか泳ぐかする必要があるし、勝手に出るのはほぼ無理だよ」
船か泳ぐか――ステラは近くの窓から周囲を見渡してみる。
島の岸と街側の岸の間は遮蔽物がないため非常に見晴らしがよく、こっそり船で行き来するのはほぼ不可能だろう。
以前リシアを攫おうとした密輸グループは夜陰に乗じて船を出して行き来していたのだが、この件に関しては島の警備関係者もグルだったため参考にならない。
いっそ泳ぐほうが波間に紛れて行けそうな気がするが、聞いた話によれば絶えず打ち寄せる海の波というのは相当体力を削るらしい。もとよりそこまで泳ぎに長けていないステラには無理だろう。
「あああの、ふ、ふ、船は、島の植物が密輸されていた事件の影響で監視が強化されています。そそそれに海流の関係で、街から島の間は泳ぐのも難しいんです……」
リシアがそう付け足すと、レビンがふうんと頷いた。
「なるほどね。つまり、結局俺らの動きはノゼアンに筒抜けってことか」
レビンの言葉を非難と受け取ったのか、リシアはビクッと体を震わせる。
「もっ……もも申し訳ありませ、ん! ここ、こちらから制限を、かっ、かけることは恐らくないと思います、が……!」
「ああいや、お嬢さんを責めてるわけじゃないからそんなに怯えないで」
「すすすすみません!!」
怯えないで、と言われたリシアは逆にピャッと縮み上がり勢いよく頭を下げた。「いや、だからね」とレビンは苦笑する。
「ちょっと父さん、リシアをいじめないでよ」
「いじめてないよ? ……ないよな?」
あまりのリシアの怯えぶりに自信がなくなってしまったらしい。
リシアの怯えの原因は人見知りと、レビンの纏う空気によるものだろう。彼はいつも通りの顔をしているが、いわば『敵地』のようなものなのでどことなくピリピリと警戒しているのだ。
リシアは人の感情に敏いのでそれを感じ取ってしまっているのだろう。
「ねえリシア。そういえばさっき持ってきたカゴはなに?」
このまま話を続けてもリシアは縮み上がるばかりだ。ステラは話を変える。
「あっ、そうでした。あの、あの、簡単につまめるお食事を用意したんです。よよよ良ければお召し上がりいただきたくて」
「えっ、やった。ちょっとお腹空いてたんだ」
リシアは慣れた相手やリラックスした状態ならば吃音が出にくい。会話の相手がステラに代わってホッとした顔を見せたリシアは、もじもじと胸の前で手を合わせた。
「本当は、き、きちんとした食事でおもてなしをしたいのですが、皆さん移動してきたばかりでまだお疲れだと思いますし、こちらも母が体調を崩していますので、本日はこういった形のほうがいいかと思いまして……あっ、で、でも後日改めて席を設けさせていただきます」
「どこまでもお気遣いいただいてしまって……ありがとうございます」
「いいいいいえっ」
お礼を言ったコーディーにしゅばばばばと素早く手を振るリシアを脇目に見ながらステラはカゴのフタを開ける。
中身はサンドイッチと果物、それと冷製スープだった。カゴが大きかったのはスープジャーが入っていたせいだったのだ。
小ぶりで食べやすいサイズのサンドイッチにみずみずしい果物というきめ細やかな気遣いはリシアによるものだろう。彼女はパニックさえ起こさなければ優秀な人物なのだ。
「お、ありがとう。頂きます……そういや、アグレルは食べれるのか? ――って、そういえばあいついないじゃん。どこに行ったんだ」
嬉しそうにカゴに手を伸ばそうとしたレビンが部屋の中を見回す。つられてステラも見回した。
「……あれ? いないね。どっかの荷物に紛れ込んじゃったかな」
「ステラ、失礼なことを言わないの」
コーディーに叱られてステラは肩をすくめる。
アグレルには申し訳ないが、彼は移動中ほとんど動かず喋らずという状態で、ステラたちはそれに慣れてしまっていた。
そのせいで、彼がこの場にいないことに本気で気付いていなかったのだ。
記憶をたどると、屋敷についたときには荷物とともに荷台の床で転がっていたところまでは覚えているのだが。
「ああ、死にかけてたから医務室に置いてきた」
「言うの忘れてた」とシルバーが続ける。
アントレル行きのときはサニディンの町で数日間という回復期間があったが、帰りは夜に宿を取るくらいであとはほぼ全ての時間が馬車での移動だった。そのため、
(死にかけっていうのもあながち冗談じゃないかも……でも本人が希望したことだからなあ)
アグレルがあまりにもグロッギー状態だったので途中で何日か休息日を取ろうかという話も出たのだが、他でもない本人が固辞したのだ。少し休んでからまた揺られるより、辛い工程を一気に終わらせたい、という理由だった。
「……俺、この後あいつとクリノクロアの家に行かないといけないんだが。あの調子で無事帰りつけるのかね」
レビンが苦笑した。
レビンはクリノクロアの当主と話をつけるため、数日中にはクリノクロア本家へと向かう予定でいる。
しかし、彼が暮らしていた頃と本家の場所が変わっているため、アグレルが案内役として同行することになっているのだ。
出発日は、アグレルの回復具合を見て――ということになりそうだ。
「アグレルさん、馬に乗れば大丈夫だって言ってたよ」
「え、あいつ馬乗れるのか」
「あんなに乗り物酔いするのに、どうやって家からレグランドまで来たのって聞いたら、そう言ってた」
ステラが「徒歩で来たんですか」と聞いたら、「ステラ・リンドグレンは知らないかもしれないが、世の中には乗馬という移動手段があるんだ」と馬鹿にした回答が返ってきたのだ。
レビンは「へえ」と感心した声を上げる。
「……っていうか、馬は乗れても馬車は駄目なのか」
「馬はある程度動きが予想できるけど、馬車は予想がつかないから駄目なんだってさ」
「分かるような分からんような……ま、馬での移動なら馬車より早くていいな。さっさと行ってさっさと帰ってくる」
「そんなに実家に帰るの嫌なの?」
「嫌だから出たんだよ」
そう言うレビンの顔は本当に嫌そうだった。自分の家に帰るのが嫌だという感覚がステラにはよく分からないが、ステラの祖父に当たる人物はそんなに問題のある人物なのだろうか。
「うーん、家出するほど嫌って、父親が天使とか姫とか言ってきてうざいから?」
「そんな辛辣なところも可愛いなウチの娘は。あの爺さんは、天使なんて口が裂けても言わないタイプだよ」
「そのほうがいいと思う」
「ああでもステラを見たら言うかもしれない。天使だから」
「……そうですか」
ははっと冷めた目のまま笑って、ステラはサンドイッチにかじりついた。




