80. 引っ越し
リヒターの企みによって村人からの質問攻めに遭ったアグレルは非常に機嫌が悪かったものの、それでも黙々とリンドグレン一家の引っ越しの手伝いをしてくれた。
急な引っ越し話に村人たちは驚き、別れを惜しむ声も多かったのだが、何日も残ればそれだけボロが出てしまう可能性が高い。
そのため、レビンの母親(ステラの祖母)の体調が思わしくなく、『万が一』がある前に少しでも早く孫と暮らしたいという望みを叶えるという口実の元、荷物をまとめ次第村を発つことになり、その準備で駆け回ることになった。
ステラはそれほど自分の荷物があるわけではなく、さらに昨年レグランドに行くときに重要な物はだいたいまとめておいたのですぐに終わった。
大変なのはコーディーで、今住んでいるこの建物はそもそも彼女が生まれ育った家であり、仕事もここでしていたため、長年の積み重ねによって要る物も要らない物も多い。
さらに頭が痛いのがレビンの荷物で、引っ越すという話を聞きつけた近所の人が親切にも手伝いに来てくれたため、レビン本人が片付けられなくなってしまったのだ。
そこでアグレルがある程度判別をして、分からない物は――
「この謎の棒の束ってゴミ?」
「あー、それは森で拾ったなんかいい感じの棒」
「つまりゴミね」
「容赦ないな! いいけどさ。釣り竿なんかに使えるかなって思ったんだ」
片付けが済んでいる二階のステラの部屋に閉じ込められたレビンに、ステラが聞きに行く、という方法をとることになった。
それ以外はなにもやることがなレビンは、それでもきちんと大人しくしていたが、さすがにぼんやりと日向ぼっこをして過ごすのには飽きたらしく、床にゴロゴロ寝そべったまま「ねえステラー」と、部屋を出ようとしていたステラを呼び止めてきた。
「下はもう片付きそう?」
「うん。母さんの仕事の道具も、染色釜みたいな大きい物は人にあげちゃうしね」
「染色かあ……コーディーさん次第だけど、落ち着いたらまた始められるように揃えないとな」
レビンの呟きにステラも頷く。
コーディーの刺繍は仕事だが、彼女の趣味でもある。
レグランドに行けば染色済みの糸がいくらでも売っているのでわざわざ自分で染める必要はないのだが、必ずしもコーディーの望む色が手に入るとは限らない。それでも刺繍ができるならそれでいいと彼女は言うが、ステラとレビンはできれば染色も自分でできる環境を整えてあげたいのだ。
しばらくはユークレース当主の邸宅に居候予定なので、すぐには無理だろうが――。
「……ねえ、そういえば聞いてなかったんだけど……」
「なんだい? 父さんの膝に座るか?」
「座りません」
レビンはいそいそと体を起こして座り直し、手を伸ばしてきたが、ステラは持っていた『いい感じの棒』でそれを押し戻して表情を改めた。
「母さんと私にはどうしたいかって聞いたけど、父さん自身はどう思ってるの?……本当は、レグランドに行きたくなかったんじゃないの?」
今回の移住先には、実家もしくはレグランド、という選択肢があって、レビンは意図的にレグランドという選択肢を隠そうとしていた。レビンは家出人で、実家に顔をだすのは気まずい、という事情があるにもかかわらずだ。
ステラが気になっていたのは、シルバーがステラを選んだ云々以外にも、なにかレグランドを避けたい理由があるのではないか、という点だった。
「俺? 俺は別に住むところにこだわりがないからなあ。……ここに来たのは竜の言い伝えが気になったからで、住み着いたのはコーディーさんがいたからだし。俺もコーディーさんと同じように、二人が一緒にいてくれればどこでもいいんだよ」
レビンはのんびりした声でそう言って、のほほんと笑う。
ステラはずっと父がこういうふんわりした性格だと思っていたが、今はもう、これがステラとコーディーのための表情なのだということを知っている。
本当は無理をしていたり、問題があったりしても、きっとステラたちには悟られないように隠してしまうに違いない。
「……でも、クリノクロアとユークレースって関係微妙なんでしょ?」
「微妙かどうかで言ったら、クリノクロアは世界中の全てと微妙な関係だよ。――ま、どっちかといえば気にするのはユークレース側だ。こっち側からは別に、ユークレースに対して悪感情は持ってないよ」
「ならいいけど……」
「ステラは、俺がレグランドに行くのが嫌なのに我慢してるんじゃないかって心配してくれてるの?」
ステラは気恥ずかしさから、むむ、と眉根を寄せて視線をさまよわせる。
「……それは、……それなりに……。狙われてるのも、レグランドに行きたいってわがまま言ってるのも私だし……」
レビンは「かわいい……!」と、まるで胸を撃たれたかのように両手で押さえて床に伏せた。
「もう本当に……俺のお姫様が本当に天使なんだけど……」
「あ、はい……じゃあ私、下に戻るので」
「そうだ、ステラ」
またうわ言を言い始めたため、絡まれる前にさっさと引き上げようとしたステラを、ぱっと顔を上げたレビンが再び引き止めた。
「まだなにか?」
「あのさ、狙われてるのはステラのせいじゃないだろ? それにレグランドに行きたいって思うのだって別にわがままってわけじゃない。自分に責任のないことまでお前が背負い込む必要はないんだよ」
まっすぐにステラの目を見て、レビンは微笑んだ。
ステラは瞬きをして、頷いた。
「……うん」
「あと、参考までに……俺は娘のわがままを聞けないほど度量の狭い人間じゃないからな」
「へー……」
「あっ、信じてないだろ!?」
「信じてる信じてる。じゃあ本当に戻りますから」
ステラは言うが早いか、サッと身を翻して部屋を出ると扉を閉めた。
そして、なぜだかニヤついてしまう自分の頬をつねって、表情を整えてから片付けに戻っていった。
***
必要な物は箱に詰め、人に譲れる物は譲り、不要品はシルバーに精霊術で跡形もなくなるまで焼いてもらい――最終的な荷物は本当に少なく、普段村人がアイドクレースに商品を運ぶために使っている荷車一台で間に合ってしまう程度の量しかなかった。
「レビンさんは今日のうちに山を降りてアイドクレースに向かったほうがいいですね。一緒には行けないし」
村人が差し入れてくれた食べ物で食事を済ませ、日が沈みきった頃にリヒターが窓の外を眺めながら言った。
夜が明けたら荷車を馬でひいて出発することになっているのだが、荷車もそれを引っ張る輓馬も村の共有財産なので、荷を運び終わったら返却しなくてはならない。そのため村人が一人同行し、アイドクレースで荷を下ろしたら再び馬をひいてアントレルへ戻ってもらうことになっている。
当然、そこにレビンがいてはまずい。
「俺だけ仲間外れだな」
村人は朝早い分、夜も家に戻るのが早い。出発するならあまり遅くならない今のうちのほうがいい。レビンもそんなことは承知なので、面白くなさそうに言いつつも特に反論することなく立ち上がって体を伸ばした。
そのレビンに続き、リヒターも同じように立ち上がる。
「寂しがらなくても大丈夫です。僕も一緒に行くんで」
「え……別に一人でいいし」
本気で嫌そうに顔をしかめたレビンに、リヒターは「そんな露骨に嫌な顔されたら悲しいじゃないですか」と全く悲しくなさそうな顔で言った。
ステラはそんなリヒターの袖をつんつんと引っ張って話しかけた。
「あの、リヒターさんはどうして先に行くんですか? まさか本当に付き添い?」
「ん? ほら、アイドクレース側にもあの落とされてた橋の説明をしておかないといけないから。たぶん密猟者の連行で通った猟師さんたちが驚いてるだろうし」
「ああー……あの観光名所(予定)」
観光名所――アイドクレースからアントレルまでの道の途中でシルバーがかけ直した、あの野趣あふれる植物の橋のことだ。
やはりあの橋は密猟者の手で落とされていたようで、大きな町から摘発のための援軍が来るのを足止めするためだったと供述しているらしい。
その密猟者たちは既に腕自慢の猟師たちによってアイドクレースへと連行されていった……のだが、きっとあの橋を見て全員驚いただろう。
ちなみに密猟者たちはもともと五人グループだったというので、ステラがあとの二人は探さなくていいのかと訊ねたところ――。「それがさ、三が一・五に減るとか減らないとかいう話の前に、実は既に五から三に減ってたみたいなんだよね」とリヒターに苦笑されたのでそれ以上触れないことにした。
熊は既に解体されており、減った二人を探さない……ということは、そういうことなのだろう。
「ってわけで僕とレビンさんは先行してアイドクレースに行くけど、アグレル君は手伝いで来たって手前こっちに残ってもらうし……シンは言うまでもなく残るだろうから、荷物を運ぶのも護衛も心配いりませんよ」
リヒターにニコリと笑顔を向けられたレビンはため息を吐いて、視線をシルバーに移した。
「……少年、ステラに手を出したら承知しないからな」
レビンに睨まれたシルバーはいつものように黙ったまま、何のことか分かりませんという顔で小さく首を傾げる。
「何だそれ、かわいいなくそっ」
「あはは、うちの子かわいいでしょう。じゃあ、ガイロルさんに挨拶してから行きましょうか」
「はあ……コーディーさん、ステラ、道中気をつけて」
「ええ、レビンもね。リヒターさんも気をつけて」
「コーディーさんは俺のことだけ心配してればいいんだよ」
「はいはい」
苦笑しながら二人を見送り、その気配が遠ざかったところでコーディーはステラを振り向いた。
「明日から結構な距離を移動するのよね。早く寝たほうがいいかしら」
明日はアイドクレースに到着後、ユークレースで手配してくれる馬車に荷物を載せ替えてそのままレグランドへ向けて出発する予定だ。始めからその馬車が村まで来てくれれば面倒がないのだが、あいにく村までの道は所々狭すぎて大きな馬車は通れないため、アイドクレースを中継することになったのである。
「そういえばリヒターさんと二人で移動したとき、大変だったなあ……」
あれはかなりの強行軍だったというのが大きいが、ステラにはそれとは別にもう一つ大きな懸念事項があった。
「あっ、そうだ。道中もレグランドも、すごく暑いからちゃんと休めるときに休んでおいたほうがいいよ」
「ああ、そうよね……外はここみたいに涼しくないのよね……」
コーディーは独り言のように呟いて眉をひそめる。
それを聞いたシルバーが「そっか」とステラとコーディーを見た。
「暑いの苦手なのはステラだけじゃないんだ」
「ええ、私はアントレルを離れたことが殆どないから……レビンも長くここに住んでたらここの気候に慣れちゃって苦手になったって言ってたわ」
北部で、しかも山の上のほうにあるアントレルはどれだけ暑い日でもレグランドの初夏ぐらいの気温なのだ。そこで暮らしていれば大抵の人間は暑さが苦手になってしまう。
「苦手になったってことは……クリノクロアの家があるところって、暑い場所なんですか?」
ステラは首を傾げてアグレルを見た。結局、その家があるのがどこなのかステラはまだ知らないのだ。
「暑いときも寒いときも普通のときもある」
アグレルはいかにも面倒くさいという態度で答える。
「そりゃそうだろうけど、そういうことじゃなくてですね……」
「はっきりとは言えん。本家の位置はたまに変わるからな」
「変わるの!?」
さすが謎の一族は住む場所も不定らしい。
目を丸くしたステラを、アグレルは鼻で笑う。
「うちの一族は順調に老化するわけじゃないからな。一箇所に長く住むと周りに怪しまれる可能性があるから、ある程度の期間が経ったら別の場所に移るんだ」
鼻で笑いながらも丁寧に説明してくれるところが非常に彼らしい。
「ああー……大変ですね、何回も引っ越しするの」
さすがに数年から十数年に一度という周期だろうが、それでも本家というならばそれなりに規模も大きいだろうし、大変なはずだ。それを聞いていたシルバーも頷いた。
「そうだね、アグレルはすぐ乗り物酔いするし」
「やかましい」
「明日からまた水揚げされた魚みたいに馬車の荷台に横たわる生活だし」
「お前はそういうところがリヒターにそっくりだな」
ただでさえ悪い目つきをさらに険しくさせたアグレルに、シルバーはムッとした顔をした。
「似てない。父さんなら『アグレルくんのために水槽でも用意しようか? 水の中なら揺れが軽減するかもしれないよ』ぐらい言うよ」
シルバーはリヒターを真似て軽く微笑みながらスラスラと口にする。その様子はあまりにもリヒターに似ていた。
「うんざりするくらいに似てるじゃないか」
「似せたからで似たのであって、似てるわけじゃない」
「似てるから似るんだろうが」
言葉遊びのような不毛な言い争いを始めた二人の間に、「アグレルさん」とコーディーが割って入った。
「口がさっぱりするお茶がありますから、良ければ用意しましょうか。行商の人が乗り物酔いによく効くって言って、よく村に買い付けに来るんですよ」
「いらな……」
アグレルは反射的に断ろうとした。
アグレル的には、尊敬する叔父を「天使」だの「女神」だのと平気で言うような腑抜けに変えてしまったコーディーの存在があまり面白くないらしく、彼女に対して微妙にトゲトゲした態度を貫いている。……の、だが。
「……いや……頼む」
明日からの苦行のことが脳裏をよぎったのか、少し悔しそうに頷いた。
「ふふ、分かりました。移動中もすぐ飲めるように茶葉を用意しますね」
嬉しそうに微笑んだコーディーから、アグレルは目を逸らす。そして逸らした先で、頬杖をついてにやにやしているステラと目が合った。
「……なんだよ」
「別に? 効果があるといいですね」
「チッ」
実際効果があったのか――やはり水揚げされた魚のように横たわったアグレルは「少しはマシ」という感想を漏らしていたようだが、暑さでバテるステラにそれをからかう余裕はなかったという……。