79. 受けて立つ
ちょうど体が通るほどの隙間から外に出たステラは、すぐに後手で扉を閉めた。
ガイロルたちが帰ってきただけならばいいのだが、もしも村人も一緒にいた場合、家の中を覗かれては困るからだ。
軽く見回し、村人の姿も気配もないことに安堵の息を吐く。
先ほどの人の気配とかすかな話し声は納屋の方に移動しているようだ。そちらから聞こえる声はリヒターのもののように聞こえるが、念のためステラは足音を潜めて納屋へと向かった。
「あれ、話は終わったの?」
コソコソ近づいたのだが、たいして近寄りもしていないというのに一瞬で気付いたのはシルバーだった。
「うん。……二人だけ?」
納屋の前にいたのはシルバーとリヒターの二人だけで、ガイロルはおろかアグレルの姿もなかった。首を傾げたステラに、リヒターがくすくすと笑った。
「アグレルくんが大人気だったから、僕らは先に撤退してきたんだ」
「え? アグレルさんが人気??」
「そ。ガイロルさんが密猟者と熊の処理を猟師たちに任せるっていうから村まで運んだんだよ。そこでアグレルくんの髪の色を見た人たちが、レビンさんと全く同じ色だし、顔もちょっと似てるって言いだしたんだよね」
「えっ……じゃあ騒ぎになって?」
「そうそう、ステラにも話を通しておかないとね。アントレルの人たちには、ステラがレビンさんの実家に行くことになったって話にしてあるから」
「……へ?」
ぽかんとしたステラなどお構いなしで、リヒターは話を続ける。
「ステラは偶然レグランドでレビンさんの実家の情報を手に入れた。父の情報を求めてその実家へ連絡を取ってみたんだけど、あいにく向こうも息子の消息を探しているところだった。そして、連絡を受けて初めて家出した息子の妻子の窮状を知ったレビンさんの父親が二人の生活を助けたいと提案し、ステラとコーディーさんは揃ってアントレルを出て、レビンさんの実家に身を寄せることになったんだよ。――で、アグレルくんはその引っ越しのお手伝いにきた」
まるで事実であるかのようにつらつらと並べられた言葉の洪水に、ステラは魚のように口をパクパクと動かすことしかできなかった。
リヒターはそんなステラを見て、ニヤッと笑った。
「……って設定になってるから。それならアグレルくんがここにいてもおかしくないだろ? 万が一誰かにレビンさんを目撃されてもアグレル君と見間違えたんだって言い張れるし」
「な、なるほど……」
ならばおそらくリヒターは、村人がアグレルの髪色に気付くようにわざと仕組んだのだろう。今頃アグレルは質問攻めの中で顔をしかめているに違いない。
「それで、そっちの家族会議が終わったっていうことは、今後どうするのかが決まったのかな?」
リヒターが首を傾げる。
その横にいるシルバーはなにも言わなかったが、ピクリと少しだけ身動ぎをした。
「はい。――その前に」
ステラは頷いて、シルバーの側に歩み寄ると彼の腕にギュッとしがみついて顔を見上げた。
「……どうしたの?」
「私、レグランドに行く」
「――え?」
ステラの言葉でシルバーは目を丸くする。その瞳に浮かぶのは喜色と戸惑い――多分、彼も知らされていなかったのだ。
ステラはシルバーの腕にしがみついたまま、リヒターを軽く睨めつけた。
「……リヒターさん、父さんにレグランドで受け入れるって提案したこと、シンにも話してなかったんですね」
「……え……なにそれ!?」
やはりなにも聞いていなかったらしいシルバーは、ステラとリヒターを交互に見て大方の事情を察したらしく、父親をギッと睨みつけた。
二人に睨まれたリヒターは、やや芝居がかった素振りで目を伏せた。
「だって、ステラがヤダって言ったらなかったことになるだろ? 期待だけさせてダメでしたなんてシンが可哀想だからさ」
彼の言うことには確かに一理ある。しかし、本当に可哀想だと気遣っていた人はこんなふうに口元をニヤつかせていないだろう。
「……気遣ってるふりして面白がってたくせに」
ステラのツッコミで、リヒターはついに笑いだした。
「いやあ、シンは忍耐力があるなって感心してたんだよ。本当は縋り付いてでもステラをレグランドに連れていきたいだろうにね」
やはり面白がってみていたのだ。ステラは呆れてため息を吐いた。
シルバーも同じように小さくため息を落とし――呆れて怒る気も湧かなかったのだろう――た後、自分の腕にしがみつくステラを見つめて首を傾げた。
「ねえステラ、さっき言ったこと、本当?」
「さっき」
リヒターがこっそり面白がっていたこと?――と考えて頭を振る。悲しいかな、それは一目瞭然で真実である。
わざわざ聞くということは、ステラがレグランドへ行くと言ったことへの確認だろう。
「うん。あ……でもクリノクロア側が反対したら難しいかもだけど……」
「多分大丈夫だよ。お互いにそこまで損はない話だし、向こうの当主様だって、家を飛び出して行方不明だった息子の動向が把握できるようになるんだから反対はしないんじゃないかな」
シルバーのあまりにも真剣な視線に押され、言葉を濁したステラの説明をリヒターが引き取った。彼はそのあたりも織り込み済みらしい。
「だ、そうです」
「そっか」
シルバーは小さく頷いて、しがみつくステラの腕をほどいた。
「シン?」
一瞬拒絶されたのかとショックを受けたステラは、次の瞬間には薄っすらとした暗闇に包まれていた。――シルバーが自分の羽織っているマントの中へと包み込むようにステラを抱きしめたのだ。
そして、ステラの耳元に唇を寄せてささやく。
「じゃあ、もう遠慮しない。離さないから」
「……う……はい」
(今までのは遠慮して『あれ』だったんですね……)
耳にかかる吐息と、背中に回された腕と、視界に入る彼の首元と――ステラの全身の感覚が総動員で大騒ぎして、心臓が痛いほど脈打っている。
なんとか返事だけはしたものの、それ以上どうしていいか分からず体を硬直させていると、シルバーはフフッと笑って体を離した。
薄暗かった視界がひらけて――ステラはへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
(いい今、ほっぺに、なんか柔らかい感触が……っ)
離れるどさくさに紛れて、多分、おそらく、頬にキスをされた、らしい。ステラがおどおどとシルバーを見上げると、目が合って嬉しそうなほほえみが返ってくる。
(いっ……いきなりキスするとか……いや、私もしたけど……)
耳元で自分の鼓動が鳴り響いているし、きっとステラの顔は今、熟れたトマトのように真っ赤になっているはずだ。しゃがみ込んだまま両手で顔を覆って、頭に昇った血を落ち着けるため深呼吸を繰り返す。
「シンってば、周りから見えないように隠して手を出すなんてやーらしーい」
リヒターがシルバーをからかう声が聞こえる。
ステラからは顔が見えないが、彼の声は完全に面白がっている。見るまでもなくニヤついているのだろう。
「そうだ父さん、寒いのと暑いのどっちが好き?」
ステラは、またシルバーが怒るだろうな……と思っていたのだが、予想に反して彼は唐突に、普段どおりの落ち着いた声でそんなことを言った。
「へ? なにそれ」
その反応はリヒターも意外だったらしく、戸惑いを含んだ声で答える。
「詳しく言うと、火であぶられるのと、氷漬けにされるの、どっちがいいと思う」
「おっと目が本気だ。――待って、精霊たちもやる気満々なんだけど」
「その精霊から土で生き埋めって意見も出た。せめて好きなのを選んでいいよ」
「わあ、やさしい」
シルバーは怒っていないような喋り方をしているが、漂ってくる気配が滅茶苦茶に怒っている。しかも精霊まで乗り気となると、うっかり暴走してもおかしくない。
さすがに頬の赤みも引いただろう、と、ステラは慌てて立ち上がってシルバーの腕に触れた。クリノクロアの人間がそばにいれば、シルバーはともかく、精霊たちは多少冷静になるだろう。
「止めなくていいのに……」
「まあまあ。……あ、でも私、ガイさんから人体のバラし方を教わろうと思ってたんだ。さっそく実践できるかも……」
「おいおい最近の子供たちは怖いな!」
リヒターは降参とばかりに両手を胸の高さに上げた。
「分かったよ、ごめんね。もうからかわない。こっそりレビンさんに報告するだけにする」
「……リヒターさん……」
波風を立てて面白がることに関しては、どこまでも懲りない人である。ステラが呆れていると、シルバーは澄ました顔でフンと鼻を鳴らした。
「別にいいよ。邪魔するつもりなら受けて立つし」
ついさっき、似たようなセリフを父の口から聞いたばかりだった。
「ふっ……あはははっ」
「ステラ?」
シルバーはここでステラが笑いだすと思っていなかったらしく「なにか笑わせるようなことを言っただろうか」と戸惑った顔をしている。
「ううん、なんでもない」
もしもその時が来たら、彼は『レビンをぶん殴ってステラを連れ去って』くれるはずだ。
「期待してる」
「? うん」
ステラの言っている言葉の意味など分からず戸惑いを顔に浮かべているのに、それでも即座に頷いたシルバーが可笑しくて、ステラは少しの間クスクスと笑っていた。




