7. 精霊術の基本
こほんと咳払いをして、リヒターはシンシャに目を向けた。
「それはともかく、本題に入ろう。シン、ステラに向けて精霊術を使ってごらん。危険のない……そうだな、無難に風かな。水や火だと部屋が大変なことになりそうだからね」
精霊術の基本は、呼びかける相手、お願いの言葉、お願いする内容の3つで構成されている。
つまり『風の精に、希う、風を送って』という感じになる。
更に『ステラに向かって』とか、『強い風』『弱い風』とか、色々と細かい指定を加えていくのだ。
人によっては『生命を運ぶ風の精よ、我が声を聞き届けよ! 猛り狂う烈風を以て○○を○○したまえ!』のようなゴテゴテアレンジもありだ。ただし、その全てが叶えられるかどうかは精霊術士の力量による。もちろんステラの場合はだいたい叶えられない。
しかし、リヒターは精霊術を使う時にだいぶ詠唱を省略していた。たしか、『風よ、奔れ』。
たった二つの言葉と身振り手振りだけで、細かい指定をしなくても思い通りに術を展開できるというのは相当能力の高い精霊術士である。ただここまでくると、訓練とか勉強とかの話ではなく、生まれ持った才能によるのだろう。
そのうえ、きちんとした詠唱でもない日常会話の言葉でも精霊たちが勝手に動く、というシンシャの場合は一体どうなるのだろうか……とステラが見つめる前で、シンシャはステラに向けて指を指した。
「風」
シンシャの言葉に応じて、ステラとシンシャの間にある本のページがパラパラと風に巻き上げられてめくれる。
そして――そよっと少しだけステラの前髪が揺れた。
(ええ……単語一つ……)
多分、詠唱の内容よりもシンシャの動きや雰囲気から、精霊たちが自主的にやるべきことを判断しているのだろう。
不発だらけのステラからすると羨ましくもあるが、このレベルになってしまうとどう考えても日常生活に支障がある。
「うわ、すげえ、本当に精霊がステラを避けてく!」
「シンの命令でもこれか、本当にすごいなあ」
精霊が見えないステラには、自分の目の前に見えない壁のようなものがあって、それにぶつかって風が防がれた――ように感じたのだが、実際は風の精霊がステラを避けているらしい。
一度自分の目で見てみたいが、見えたら見えたで、日常的に自分から恐れをなして逃げていく精霊が目に映る……というのはかなり精神的にきつそうだ。
「そういえばアルジェンくんも精霊が見えるの?」
「呼び方はアルでいい。俺も見えるよ。声は聞こえないんだけどさ」
「シンシャさんも?」
さすがユークレースの血統。精霊が見えるのは父親だけでないらしい。そうなると、もちろん精霊に愛されているというシンシャも見えるのだろう。
そう思って彼女の方を見ると、彼女はつまらなそうな顔で頭を振った。
「シンの呼び方もシンでいいよ。シンは見えないんだ。その代わり、精霊術は俺と比べ物にならないくらい強力」
黙ったままのシンシャの代わりにアルジェンが説明してくれる。
姉の呼び方を弟が勝手に決めるのか、と思わなくもないが、シンシャは自分からはそういうことを言いそうにない。ステラはありがたく従うことにした。
「今、シンの周りには精霊がいっぱいいるの?」
「いるよ。正直時々シンが見えないくらいいっぱいくっついてることもあるし」
「見えないくらい……」
それは強烈だ。
そのくらいにシンシャには精霊がくっついていて――その逆にステラのそばからは逃げていく。
「うーん、じゃあ私がシンのそばに行くとどうなるの? やってみてもいい?」
「お、頂上対決だね。やってごらん」
若干楽しそうな顔をしているリヒターの言葉に頷いて、ステラは椅子から立ち上がりシンシャのすぐ脇に移動した。そしてリヒターとアルジェンの方を見る。
「おおー、逃げていく。半分くらいごっそりいなくなった」
「すごく悔しそうに逃げていくねえ」
「半分くらいかぁ……」
ステラはふむ、と、椅子に座ったまま硬い表情でこちらを見上げているシンシャを見下ろす。近づいただけで半分なら、くっつけばもっと減るかもしれない。そうしたら精霊術にも影響が出るのだろうか。
ステラの考えていることが分かったのか、シンシャはじりじりと椅子ごと後ずさりしていく。
昨日からここまでの間、彼女は無表情か顔をしかめているか、という顔しか見せてくれなかったので、焦った表情は新鮮だ。
先ほどの世間知らずという言葉に、実はちょっとだけ腹を立てていたステラは若干楽しくなってきた。
「逃がさない!」
「!! やめ……」
問答無用で、覆いかぶさるようにガバッと抱きついた。
女の子同士ならよくあるじゃれ合いの一環。だが、同世代の話し相手が弟だけというシンシャにとって、それは「よくあること」ではなかったらしい。
おそらく反射的に、シンシャはステラを突き飛ばそうとした。――が、ステラは牧場の手伝いで暴れる羊を捕まえて押さえつける、という仕事をした経験がある。
相手が暴れても離さないくらいの芸当はできてしまう。
だが、さすがにここまで嫌がるということは接触されること自体が嫌なのだろう。ステラが嫌……だとしたら少し悲しいが、そうだとしても嫌なものは嫌で仕方がない。
おとなしく離れよう……と力を緩めたそのタイミングで、
「離れろ!」
腕を緩め、体を離したところだったため、ちょうど『しまった』という表情のシンシャと目が合った。
リヒターによれば、彼女が『触るな』と言ったら、腕を切断されたりして触れない状態にされてしまうという。
では、『離れろ』と言ったら強制的に離されるはず。
さて、一体精霊たちはステラに何をしてくるだろうか。
強い言葉を発しないようにしている彼女が、思わず口にしてしまうほど嫌がることをしてしまったのは完全にステラの自業自得だが、できればリヒターが対処できる範囲だといいな、とちらりと考える。
パサッ
「へ?」
横から飛んできた紙が一枚、軽い音を立ててステラの頬に当たって、ひらひらと落ちていった。
シンシャから体を離し、ステラは床に落ちた紙を拾い上げる。それは特別な何か……というわけではなく、先ほどまで机の上にあったうちの一枚だった。
角が刺さったわけでもなく、面がぺしょんとかすっただけなので、痛いもくすぐったいも、何も感じなかった。
もしや、リヒターが何かしたのだろうか。……にしては精霊術を使うような声が何も聞こえなかった。
ステラは戸惑ってリヒターたちの方を見た。
「シンの……シンの全力が、紙一枚……」
アルジェンの方は完全に目を丸くしてこちらを見ている。
そして、その隣のリヒターは――顔を背けて笑いをこらえていた。
「びっくりした……けど……ふふっ」
アルジェンの反応は分かるが、リヒターの反応はよく分からない。
自分の娘がパニック状態になって、そしてステラは精霊術で怪我をするところだったかもしれないというのに。
もしかして、彼はシンシャが本気で精霊術を使ってもステラには効かないということが分かっていたのだろうか。
ステラが首をひねっていると、真っ青な顔色のシンシャに腕をぐっと掴まれた。動揺しているらしく、力が入っていてやや痛い。
「怪我は、して……ない……?」
「大丈夫、なんともない」
かすれた小さな声で聞いてきたシンシャに、ステラはニッと笑って手に持ったままだった紙をひらひらと振ってみせる。
ステラの返事を聞いて、ようやくシンシャは安心したように息を吐き、そして目を伏せて微かに震える片手で口元を覆った。
「……ごめんね。私、シンがそんなに嫌がると思ってなくって……。嫌なことをしてごめんなさい。もうしません」
彼女はきっと、過去に自分の精霊術のせいで震えるくらいに恐ろしい思いをしたのだろう。ふざけてそこまで追い詰めてしまったステラは、しゅんとしおれて頭を下げた。
「……私も、驚いただけ。ごめん」
シンシャは青い顔のままゆるゆると頭を振った。そして、自分の手がステラの腕を力いっぱい掴んでいたことにそこでようやく気づき、ぱっと離した。
「ごめ……」
「え、別に大丈夫だよ?」
笑ってみせる、が、実はだいぶ痛かった。
シンシャは見た目に反して以外と力が強く、おそらく掴まれた場所はアザになるだろう。
だがまあ、それは人が嫌がることをしてはいけないという戒めのようなものだ。
ただし、袖が長めの服を選ばないと、シンシャに責任を感じさせてしまうかもしれない。
(セレンさんが用意してくれる服の中にそういうものがあるといいけど……)