69. 怖かった
小屋から出て扉を閉めたステラは、そこで足を止めて先に外に出ていたシルバーの背を見つめた。
夜明けが迫る森の中はまだ薄暗く、朝露を帯びた空気がひやりとステラの体を包み込む。
夏であっても肌寒い、アントレルの朝だ。
こんなふうにステラの慣れ親しんだ日常の中に、なにかの冗談のようにきれいな少年が立っているのが、まるで幻のように見えてしまう。
「? どうしたの」
入り口に立ち尽くして動かないステラに気づいたシルバーが振り向いて首を傾げた。
――なにか言わなきゃ。
「……あ、の……」
口を開いた瞬間に涙が零れる。
「えっ、ステラ?」
「あれ、ごめん、ごめんなさい……」
「なんで謝るの? おいで、座って話そう」
差し伸べられた手をとるために歩きだして、そして手に触れる少し前で、ステラは再び足を止めた。
「……私、すごく嫌なこと言った……クリノクロアの力は自分じゃどうしようもないって知ってるのに。父さんが一番辛いって分かってるのに。嫌なこと言うの止められなかった」
父が一番傷つきそうな言葉が口から溢れ出した。自分でもこんなことを言ってはいけないと思いながら。
後悔の言葉と一緒にほろほろと涙が零れ落ちる。
「ステラは混乱してたんだよ。落ち着いてからもう一回話せばいい」
「そしたらまたひどいこと言うもん」
きっとまた傷つけて、きっと、もっと嫌われてしまう――。
じっと地面を見つめて涙をこぼすステラに、シルバーは「ううん……」と眉を下げた。
「そうだな……ステラは、レビンさんがちゃんと動いて、喋ってるのを見て、どう思った?」
「どう……?」
言葉が見つからなかったステラは顔を上げて、シルバーの顔を見る。彼は言葉を探しているようで、少し難しい顔をしていた。
「『こういう理由でこう思った』みたいな複雑なことじゃなくて、嬉しいとか、悲しいとか、そういう単純なことから気持ちを整理していこうよ」
単純なこと。
倒れている父を見つけて、助けないと、と思った。
そして、目覚めて……これでこれからは家族が一緒に暮らせるんだと思って、ホッとした。
(だけど、それよりも)
ずっと強い感情があった。それは、ステラがこの十年間ずっと抱えていたもの。
「……怖かった……」
「怖い?」
「……私、ずっと、本当は……父さんが私達を捨てたのかもしれないって思ってた。私達がいらなくなったんじゃないかって」
「お前たちは捨てられたのだ」と誰かに言われることも恐ろしくて、言われる前に先回りして自分で言ったりもした。そして、別になんとも思っていないのだと無意識に自分自身へと言い聞かせていた。
いくら無視しようとしても傷は癒えることなく存在していて、ずっと痛み続けていたのだというのに。
「だから、父さんの口から、本当にそういう言葉が出てきたらどうしようって……」
目覚めた彼が、ステラのことも母のことも、存在しなかったかのように振る舞ったら。母やステラを否定するような言葉が飛び出してきたら……。
――だが、彼の口から真っ先に飛び出してきたのはステラの名前で、母の名前だった。
「心配いらなかったね」
「うん、そう……だから、嬉しかった。けどそんなふうに疑った私が恥ずかしくて……うー……でもやっぱり、どうして私達を置いて森の奥に入ったのって、腹が立つのもあって……どうしていいか分かんなくなったの」
「じゃあ、そういうことを話してみたらいいんじゃないかな」
捨てられたのだと思って悲しかった。だけどそうじゃなかったから会えて嬉しい。なぜ森の奥に入ったのか教えて欲しい。
指を折りながら並べて、シルバーが微笑む。
その微笑みにつられて、ステラも少しだけ笑った。
「……うん。そうだね」
頷いたら、また涙が零れた。
「あの、シン……手を、繋いでもいいですか」
「え? うん。もちろん」
少し嬉しそうに再び伸ばされたシルバーの手を握って、ステラは安堵の息を吐く。
「さっきね、シンが一人で先に出ていっちゃったから、私と一緒にいるのがもう嫌になったのかと思ったの……」
レビンのことだけではなく、それも涙が零れた理由の一つだった。
シルバーは驚いた顔で、ぎゅっとステラの手を握り返してくる。
「そんなわけないよ。――先に出たのは外の状況を確認したかったからで……まだ暗いし、動物は夜行性が多いでしょ」
「わ、私があんまりにもひどいこと言ったから、呆れて嫌われちゃったのかもって」
その言葉に、シルバーは「なにを言っているんだろう」というような顔で少しの間ステラを見つめていたが、自分の行動に思い当たる所があったらしく「ああ」とつぶやいた。
「ステラに触ると精霊が逃げちゃうから……詳しくは後で話すけど、さっきは精霊に逃げられちゃうと困る事情があって、それで少し離れてたんだよ」
「精霊?」
「うん……あと……ステラのお父さんの前で手を繋ぐのはちょっと気が引けて……」
微妙に言いにくそうにボソボソと続け、シルバーは目を泳がせる。
その言葉にステラはぱちぱちと瞬きをした。
「……シンにも、親の前で気まずいとかそういう感覚があったんだ……」
「え、なにそれ」
「えっと、シンって友達との距離感がすごく近いから私にくっついてくるのかな、って思ってて……ほら、友達なら別に親とか関係ないし」
「な……わけないよ! え、そういうふうに思ってたんだ!?」
基本的に表情の変化が乏しい――不快感だけははっきりと示すが――シルバーが、ものすごくショックを受けた表情を浮かべた。
ステラはそのことに驚いて慌てて言葉を継ぐ。
「だ、だって、すごく普通にくっついてくるし、親しい人にはくっつきたいタイプなのかと……」
「ステラ以外の人間なんて触りたいと思ったこともないよ!」
「それは今まで友達がいなかったから」
「友達は……いないけど……それとこれとは別だよ! なんでそんなとんでもない勘違いしたのさ!」
「だって……私がアントレルに戻るって言ったとき、止めなかったでしょう」
ステラの言葉に、シルバーは一瞬言葉をつまらせた。
「……止めるわけ、ないよ。だってステラの父親の命がかかってるんだから。それに同行していいって言われたし」
「それはそうなんだけど、それだけじゃなくて……私、リシアに『父さんを見つけたあと、改めて今後どうするか考える』って言ったでしょう? その、この先のことについて……シンはレグランドに戻って来て欲しいとか、戻ってこないと寂しいとか、今まで一度も言わなかった」
「うん……それはそうだけど」
やはり、言ったつもりだった、などではなくて、彼は意図的に言わなかったのだ。――そこにどんな理由があるのかは分からないが、迷いなく頷いたシルバーにステラは少し悲しくなる。
「もしシンがユークレースの『呪い』で私を選んだなら、きっと戻って欲しいって言うだろうし……だから、そういうのじゃないんだなって思ったの」
ステラはそう言いながら目をそらした。
父の時と同じように、必要ないと言われるのが怖かったのだ。
そんなステラの手を、シルバーは強く握った。
「違うよ。私がこの先の話をしなかったのは……ステラが自分で選択するのを、邪魔をしたくなかったからだ」
「私の選択の邪魔?」
「そう」
「アントレルに残るか、レグランドに戻るか……クリノクロアの家に行くか?」
「そうだね……私はレビンさんやステラが今置かれてる状況の全部を知ってるわけじゃないけど……でも、レビンさんは多分クリノクロアの家に戻ると思う。それが一番ステラのためになるから」
「私のため……」
王族と関係するような、なにかやっかいなことに自分が巻き込まれているのはステラも薄々分かっている。きっとそういうことからステラを守るために、クリノクロアの家へ行くのが一番都合いいのだろう。
だが、それは同時にシルバーとは一緒にいられないことを意味している。
(だから、シンは一緒にいたいって言わなかったんだ――)
ステラがためらいなくクリノクロアを選べるように。
彼にとって『願う言葉』はとても重要な意味を持っているから。
「私はステラの選んだ答えを尊重したい。たとえそれが私から離れる選択だとしても」
シルバーは繋いでいた手を持ち上げ、ステラの手の甲に口づけた。
「それがステラの意思で、ステラのためになるなら、ユークレースの呪いなんていくらでも逆らってみせるよ。――それくらい、私は君が好きなんだ」
手の甲に触れた感触と、彼から発せられた言葉でステラの心拍数は一気に跳ね上がる。
「で、でもっ……ユークレースの家に伝わる呪いって、逆らうのは難しいんでしょう?」
だからこそユークレース当主は間違いを犯した。
だが、シルバーは小さく笑った。
「ステラは知ってるだろ、私は呪われ慣れてるんだよ」
呪われ慣れる。
生まれてすぐ当主の妻から呪いを受けて生きてきたのだから、確かに慣れていると言えば慣れているのだろうが――。
あまりにも物騒でおかしな言い方に、ステラは思わず笑ってしまった。
「ねえシン、あのね……」
まだステラは知らないことばかりで、今自分が一体なにに巻き込まれているのかも分からない。だから、どの道を選ぶと言うことはできない。
でも、これだけは間違いなく言える。
「私がどんな選択をしたとしても――私は、本当にシンのことが好きだよ」
照れくさくて彼の顔を見ることはできなかった。
――だが果たして、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「……それは、きれいな顔の人が好きっていうやつ?」
「は?」
予想外過ぎて思わず可愛くない声が出てしまう。
「ステラが言ってたんだよ。サニディンで『美少女に限らず、きれいな人は皆好き』って。イネス・ユークレースにうっとりしてたし」
十二歳で駆け落ちという驚異の経歴を持つこととなった美少女、イネスに見とれていたとき、ステラは確かにそんなことを言った気がする。
(あっ……それで機嫌悪くなったのか……)
その前にステラは冗談めかしてシルバーに好きだと伝えている。あの時シルバーは「あなたもきれいだから好き」という意味に受け取ったらしい。
「違……違うよ! あれはそういう意味じゃ……っていうか、こう、今のは、さっきの雰囲気で分かるでしょう!?」
「ステラだって私がステラを選んだことをちゃんと分かってなかったし」
「そ、そうだけどっ……それははっきり言ってくれなかったから……」
それを言ったら自分も同じだった。
そこに気付いてステラは言葉に詰まる。
(困ったら……行動あるのみ!)
ステラはキッとシルバーを睨みつけ、彼の襟首を掴んで背伸びをする。
そして、その頬に軽く触れるだけの口付けをして、すぐに後ろに数歩下がった。
「……これで分かりますか」
完全に勢いで行動してしまった。
驚いた顔でじっと見つめてくるシルバーの視線のせいで、どんどん頬が赤くなっていくのが自分で分かってしまう。
しかし、しばらく待ってもシルバーはなにも言わない。もしや不愉快だったのだろうか。段々と不安になってきたステラは恐る恐る口を開いた。
「な……なんでなにも言わないの」
「――いや」
シルバーは落ち着きを取り戻したようで、至極真面目な表情で目を伏せた。
「雰囲気が欠片もないなって……」
深刻そうな顔をして、なにを言い出すのだ、この男。
それに雰囲気の欠片なら、少し前にあったではないか。それがなくなったのは――。
「……雰囲気は自分で壊したんでしょ!?」
「雰囲気がなかったから余分にもう一回していいよ」
「意味分かんない! もうしないし!!」