63. 斜面
リヒターの視線を追うと、その先は何の変哲もない森の風景が続いていた。変哲もない……というか、そもそも森の中の景色などどこを向いても代わり映えしないものなのだが。
あえて言うならばほんの少しだけ明るく見えるので、木々の続く向こう側は拓けた場所になっているのかもしれない。
でも――と、ステラは引っかかるものを感じた。確かに向こう側は明るい。しかし……上は明るいのだが、下側は妙に暗いような気がする。
(こういう場所は注意しろって昔聞いたような……?)
記憶を呼び起こそうと眉を寄せて考え込んでいると、横にいるアグレルが口を開いた。
「精霊は向こうへ向かってるんだな」
「うん、あっちの明るいほうに来いって言って……まあ声は聞こえないから推測だけど、そういう動きをしてる」
アグレルは外見上平静を装っているが、声の調子から高揚しているのがありありと伝わってきた。リヒターの返事を聞いて、今にも飛び出していきそうである。ステラは慌てて彼の腕にしがみついて引き止めた。
「ああー、待って下さいアグレルさん」
突然ピタリとしがみつかれたことにアグレルは驚いて肩を跳ねさせた。そしてすぐに、急いで確認したいのに止められてしまった不快感に顔をゆがめる。
「……っ、なんだ、ステラ・リンドグレン」
「えっと! その向こう側、たぶん斜面になってます。もしかしたら足元が崩れやすくなってて滑落するかもしれません」
「斜面?」
バッとアグレルが地図を持っているリヒターを見る。リヒターは「斜面か……」と手元を覗き込んだ。
「地図には書かれてないね……。あ、少し距離があるけど、もう少し行った先に『崩れあり』ってメモがある」
「はい、ええとですね、上の方が明るくて下の方が暗く見えるのは、この向こう側の木が斜面を滑り落ちて、樹冠が低い位置になってる可能性があるって聞いたことがあります。もともと崩れてた場所が近くにあるなら、雨かなにかでここまで崩落が進んだんじゃないでしょうか。それだとなおさら崩れやすいはずですから、十分注意して進まないと」
ステラが一気に説明すると、アグレルは進もうとしていた動きを止めて目を丸くしてステラを見つめた。
「……珍しくステラ・リンドグレンが役に立つことを言っている……」
「秘境の原住民の知恵だね」
ステラの腕をつかんでアグレルから引き剥がしながらシルバーが頷く。
「えっ、なんでここで馬鹿にされるの!?」
「は? 褒めているだろうが」
「うん、褒めてる褒めてる」
「百歩譲ってアグレルさんは褒めてても、シンのは絶対違うでしょ!!!」
ステラが自分の腕をつかむシルバーの手をペチペチと叩いても、彼は気にする様子などまったくない。彼にとってはステラをアグレルから剥がすことのほうが重要だったらしく、満足げな顔をしていた。
「ほらほらステラ、怒らないで。……シンはあれだよね、アルがいないと子供っぽくなるよね」
「……アルの暴走を止める心配をしなくていいから」
「ああうん……苦労かけるね、お兄ちゃん……。まあそれはとにかく」
ゴホンと咳払いをしたリヒターが、
「せっかく精霊が呼んでくれてるんだから、向かおうよ。足元は様子を見て補強しながらだな」
「最初から精霊に足場を作ってもらえばいいんじゃないの」
足を滑らせる危険があるなら、最初から足場を整えてしまったほうがいい。ステラたちのように普通の人間には難しいが、シルバーには簡単にそれができるのだ。
だが、リヒターはシルバーの提案に首を振った。
「いや、精霊術はできるだけ最低限にしよう」
「なんで?」
「さっきステラが言ったように、精霊たちがこの森を回復させている途中だとしたら、ここであまり精霊術を使うと彼らの不興を買うかもしれない。それにレビン氏がこのそばにいるとして、彼の術にどう影響するかもわからないしね。シンの精霊術は少し特殊だし」
シルバーが呼びかければ精霊たちは率先して集まり、彼の望みを叶えようとするだろう。それでシルバーが不興を買う可能性は低そうだが、逆に土地の回復に力を使っている精霊や、まさに再生途中の精霊までが張り切って反応してしまうという事態になるかもしれない。
この森で現在なにが起こっているのか正確に把握できない以上、不安要素は減らしておくべきだろう。
「分かった。じゃあ――」
シルバーは一瞬だけリヒターをちらりと見てからステラの腕を離し、そのまま道を外れて茂みの中に踏み出した。
「普通に皆が歩いて行けそうかどうか確認してくる。もしなんかあっても、私が一番なんとかできるだろうし」
「うーん……そうだね、シンが適任か。怪我をしないようにね」
「しない」
やや渋った様子のリヒターにそっけなく言い残し、シルバーはサッと木立の向こうへ姿を消した。一体どう移動しているのか、耳を澄ませてみても木立のざわめきが聞こえてくるだけで、足音や枝葉をかき分けるような音は聞こえてこない。
静かすぎて不安になってくるが、物が落ちたり崩れたりするような派手な音も聞こえないので、きっと問題は起こっていないのだろう。
だが、森に慣れているアントレルの村人でも、地面の崩落や滑落などで大怪我を――最悪命を落としてしまう事故が稀に起きている。
(シンは大丈夫だと思うけどさ……でも、もしも父さんがこの先にいるなら、父さんは――)
色々隠し事の多い人だったようなのでいまいち自信を持って言えないが、レビンはシルバーのような戦闘訓練を受けていない普通の人間のはずだ。足を滑らせて転落し、ひどい怪我を負っている可能性は否定できない。
そして落ちた先で精霊の再生を行う羽目になってしまったのだとすると……。
――クリノクロアの術による精霊の再生は、術者の生きる時間を代償として行われる。
そのため、精霊の再生が完了すると同時に術者は代償分の時間を支払うことになる。つまり時間停止状態になるのだ。
だが例外的に、術者の寿命よりも、術の代償に必要な時間のほうが長かった場合――たぶん、今回のレビンのケース――は、術の開始とともに術者は時間停止状態となり、術と代償の支払いが同時進行で行われる。
その場合、精霊の再生は通常の場合よりも非常にゆっくりと進んで、術者が寿命を迎えるその時まで続く。――そして術者の死とともに終わる。
(アグレルさんは、術者の寿命って言ってたけど……その寿命って『事故に遭わなかった場合に生きられる長さ』でカウントされてたりするのかな……怪我や病気による寿命の長さの変化って考慮されてる?)
そもそも誰がどういう基準で寿命を判定しているか。神や精霊のように人知を超えた存在の考えることなど、ステラには予想もつかない。
しかし、もし怪我が考慮されていなかった場合……そしてレビンが転落などで、重症を負った状態で術を展開してしまっていた場合――。
(時間が動き始めたら外傷のせいで死ぬとかない、よ……ね)
ステラは軽く頭を振って、脳裏に浮かんだ嫌な想像を散らした。黙ってじっとしていると嫌なことばかり考えてしまう。
「シン、大丈夫かな……」
ぽつんとつぶやいた声に、アグレルがそっけなく「大丈夫だろ」と返してくる。
「リヒター……さっきあの老人にはシルバーに身を守る方法を身に着けさせてるとかなんとか話していたが、実際のところ、暗殺の訓練を受けさせてるだろう」
気を逸らすためなのか、アグレルが珍しく自分からリヒターに話しかけた。彼もステラ同様、落ち着かずソワソワしているらしい。
「さすがにそれはないってば。色々想定してるだけで」
アグレルに話しかけられ、少し意外そうな顔をしたリヒターは「しかし、発想がすごいね」と言ってけらけら笑い出した。
――実はステラも(あ、受けさせてないんだ……)と思ったが黙っておく。
一人、笑われる格好になったアグレルは顔をしかめた。
「おまえの場合、想定している『色々』っていうのが怪しすぎるんだよ」
「いや、子どもたちの訓練方針はセグニット任せなんだ。セグは僕よりはまだマトモだから、教えてることもそれなりに常識の範囲だと思うよ」
「セグニットっていうのはあの軍人上がりか。……王城にいた人間だろう? 信用できるのか」
「王城にいたけど、深部に組み込まれる前にレグランドに引っ張り戻したんだよ。王族に取られたくないからさ」
こんな森の中では人の耳もないからか、二人の会話には普通に王城や王族といった単語が混ざっている。――しかも、内容も口調も、彼らが明らかに王族に対して反感を持っているのが分かってしまう。一般市民のステラとしてはできれば関わりたくない世界の話である。
「あの、ちょっとよく分かんないけど会話が不穏すぎるので少し控えて下さい……」
「あはは、じきにステラもよく分かるようになるよ」
「よく分かりたくない!」
ステラがうわあと耳をふさいだところで、行ったときと同じように静かにシルバーが戻ってきた。
「……ただいま」
彼はニコニコしているリヒターとステラを見比べてから、ステラに向けて小さく首を傾げた。
「……どうしたの? そこのニヤニヤした人に問題があるならやっつけようか?」
「わあ、魅力的なお誘い。でも今はやめておくね」
「うん。言ってくれればいつでもやるから」
真顔で頷いたシルバーを見ながらリヒターが「いつでもやるのかあ……」と遠い目をしているが、彼の場合完全に自業自得だ。
「そんなことよりも」
と、ステラはシルバーの頭から爪先までざっと見下ろす。特に服が汚れたり破れたりはしていないのを確認してほっと息を吐く。
「シンは大丈夫だった? 怪我したりしてない?」
「してない。――ステラの言った通り、地面が崩れて高さ十メートルくらいの急斜面になってたよ」
シルバーによると、このまま真っすぐ進んだところは足場がもろくなっていて傾斜もきついのだが、そこから北に少し行ったところは崩れてから時間が経っているようで、比較的安全に下まで降りられるらしい。
「降りた先はどういう状況になってた?」
「湿地、湿原……って言うほどじゃないな。地面が水っぽくて、大きい水たまりみたいになってた。地下水が湧き出てきたとか、大雨が降ったとかでそうなったんじゃないかな」
「大きい水たまりか。……湿地帯も近いし、過去に近くで崩落もあったってことを考えると、水はけが悪い土地なのかもね」
水はけが悪く、雨水などが溜まってしまう……もしも湿地のようになっているのなら、いくら精霊が来いと言っているとしても歩くのはだいぶ危険が伴う。しかもステラたちの中には湿地の歩き方に慣れた人間がいないのだ。
「歩いて進むのは難しそうかな」
「ううん、見たら分かるけど、本当に水たまりみたいで……少なくとも手前の辺りは、地面がぬかるんではいるけど足が沈むほどじゃなかった」
「なら、ある程度は行けそうだね。……精霊がどこまで連れていくつもりなのかによっては移動手段の確保を考えなきゃいけないかもしれないけど、ひとまず行けそうなところまでは進んでみよう」
そう言ってリヒターは空中に視線を走らせて苦笑する。
「精霊たちもやきもきしてるみたいだしね。突風で吹き飛ばされる前に行こう」
どうやら彼の視線の先では、一向に動かないステラたちに業を煮やした精霊たちが飛び回っているらしい。
ステラにはなにも見えないが、リヒターが見ている辺りを見上げた。
「じゃあ、案内お願いします」
(――できれば父さんのところに)
と、心の中で付け足す。
精霊たちは単純にクリノクロアの人間に仲間を再生させようとしているだけなのかもしれない。だが、クリノクロアの力が欲しいのならばアグレルでもいいはずだ。しかし彼らは明らかにステラを連れていきたがっている。
だからきっと、可能性は高い。
一度だけ深呼吸をして、ステラは足を踏み出した。




