62. 獣道
ルート――と言ってもしっかりとした道があるわけではなく、ほぼ獣道である。
それでも安全なルートを維持するためにたまに猟師が踏み均しているそうで、かろうじて細く続く道を辿っていくことができた。
「ここの分岐でこのまま東に行くと湿地帯方面で、南に行くと教えてもらった小屋」
リヒターが地図と周囲の木につけられた目印を照らし合わせながら言って、ステラとアグレルのほうをちらりと見た。
「先に小屋の位置と、置いてあるものを確認しておこう。ステラたちは慣れてないからちゃんとしたところで休んだほうがいいしね」
猟師の目を避けるため周囲を哨戒しつつ獣道を辿り、斜面や倒木などで見通しの悪いところがあれば道を外れて近づいてレビンが隠されていないか確認――という作業を続けているため、移動距離はそれほど長くない割に気疲れが激しい。
特にアグレルは森を歩くのに慣れていないためか、既に疲労の色が見え始めていた。
彼のように森に慣れていない人間は、土と草の上よりも板の床の上のほうが休息を取りやすい。そのためリヒターは、主にアグレルを気遣って小屋の確認を優先したのだろう。
――しかし、この森における猟師小屋というのは、天候が大きく崩れたり怪我をしたりしたときの緊急避難時に利用するため点在している建物だ。
そしてそのどれもが、本当に「緊急時を一時的に凌ぐ」ことだけが目的であるため、立派とは口が裂けても言えない――とりあえず建物の形はしていますね、というレベルの小さな掘っ立て小屋であった。
「扉を強く閉めたら崩れそう」
小屋を前にしたシルバーの感想が分かりやすくすべてを語っていた。
「ガイロルさんによれば、この辺は獲物が少ないから猟師もめったに来ないって話だし……手入れもそれなりなんだろうね」
それでもちゃんと屋根と壁と床が付いている。休憩をするのも夜を明かすのも野外を前提として考えていたステラにとっては非常にありがたい存在である。
アグレルも喉から出かかったいろいろな言葉を飲み込んだような顔をしていたが、それでもやはり外よりはマシだと思ったようで黙って小屋に入っていった。
***
「なんか、この森って精霊の数にムラがあるんだよね……」
少しの休憩を挟んで、再び獣道を辿り始めたところでリヒターが首を傾げながらそんなことを言いだした。
「むら?」
「そう。うーん……密度の高いところと低いところがあるっていうか」
「……そもそも精霊って空気中に均一に分布しているものなんですか?」
同じくステラも首を傾げる。
ステラのイメージでは、例えば草木があれば植物の精霊が、川の流れているところには水の精霊が――という感じで、ある程度その要素(植物や水)の付近に集団を作って存在しているものだと思っていた。
そう言うとリヒターは「ああうん、それはそうだよ」と頷いた。
「そうなんだけど、この森の場合その集団の数が多いところと少ないところがあるんだ。普通よりも場所ごとの差が激しい気がするっていうか……具体的な基準があるわけじゃないから僕の感覚的なものだけど、進むほどに顕著になってるんだよね」
「ここの木の側には十グループいるけど、向こうの木のところには二グループしかいない、みたいな感じですか?」
「そうそう、そんな感じ」
なんだろうなあ、これ。
誰かに問いかけるというよりも独り言のような調子でリヒターが言ったのを聞きながら、ステラは「うーん」と、先ほどリヒターが見つめていた茂みを見つめる。
青々と茂った――というには少し寂しい葉の付きかたをしている。だがこれがアントレル周辺では普通の光景なのである。
なぜなら、大地に力を与える精霊が枯れた土地だから。
「……そもそもここって精霊が枯れた土地で、『自然の恵み』的なものも薄い――って言われてるんです。見えないから本当のところはよく分かんないですけど。……だけどもしかしたら、精霊が再生してちょっとずつ増えてきたから、特にエネルギーの枯れた場所にエネルギーを充填しようとして集まってるとか」
ステラの言葉に、リヒターが「ああー、なるほど」と顎に手を当てた。
「つまり、増えた精霊が治療のために集まってる場所がある、と」
「リヒターさんはそういうのって、見たことないんですか?」
「ないねえ。僕の知る限り、土地が傷つくような大きな戦いはここ数十年起こってないし、大昔から枯れたところは枯れたまんまだからね。精霊が再生して土地を癒やしてるところなんて見る機会は皆無なんだよ」
国中を動き回っていてなおかつ精霊を見ることができるリヒターが見ていないのならば、きっと誰も見たことがないのだろう。それだけ珍しい現象がこの森の中で起こっているらしい。
「……あ、でもアグレルさんは詳しいのでは」
「詳しくない」
歩く速度を変えて後ろにいるアグレルの横に並んで話しかけたが、彼は面倒くさそうに眉根を寄せて進行方向を睨んだままきっぱりといい切った。
「えー。精霊の再生に関しては専門家の一族の人なのに知らないんですか。過去の資料が残ってるとか」
「うちの一族には正常な精霊は見えないんだから、数の過多やら再生後の精霊がなにをやっているのかなど分かるわけがないだろうが」
「ああ、確かに」
いくらその場に立ち会う機会があろうとも、自分たちの目で観測できない事象までは記録しようがない。しかし――。
「クリノクロアの人たちはもっとユークレースとかと交流を持って知見を広げたほうがいいと思うんですけど。昔っから没交渉だったっていうことですよね?」
利用されないため身を隠すっていうのも分かりますけど……と続けたところで、アグレルが不思議なものを見るような目を向けてきていることに気づいた。
「……なんですか?」
「レビンが、同じようなことを言っていたんだ。うちから出ていく前に」
「父さんが?」
またなにか馬鹿にしてくるつもりかと構えていたステラは、肩透かしを食らった気分で首を傾げた。
「レビンは現当主とも、次期当主とも意見が合わなかったから出ていったんだ。昔からそういう話で何度も衝突していたしな」
「衝突? あのふんわりした人が?」
あの父が誰かと衝突する姿など、ステラには想像すらできない。不信感をあらわにするステラに、アグレルはこれでもかと顔をしかめてみせた。
「……お前の中のレビン像は一体どうなっているんだ」
「アグレルさんこそ、記憶の中で美化しすぎてるんじゃないんですか? 最後に会ったのって結構小さい頃ですよね?」
「……そんなことは、ない……」
「ほら、ちょっと自信なくなってるじゃないですか」
「うるさい」
「アグレルさんって痛いところを衝かれると語彙力低くなりますよね」
「うる……チッ、小鬼め」
図星を突かれたアグレルは憎々しげに舌打ちをしてそっぽを向いた。先ほど知性が足りないと言われた恨みを返したステラはうふふと笑って胸をそらした。
「アグレルさんをからかうのはひとまずこの辺にしておいてー」
「おい」
アグレルが目を吊り上げているが、ステラは構わず続ける。
「自分たちにとって有益な情報を持ってることが明らかな相手がいるんだから、なんとか協力体制を築こうとするのなんて、普通誰だって考えることじゃないですか? 父さんと私が同じこと言ったからって、別に驚くようなことじゃないと思いますけど」
「……外の人間からしたらそうかもな」
「外?」
つまり、クリノクロアの中の人はそういう考え方をしないのだろう。そんな環境だったらステラも家出を考えてしまうかもしれない。
ステラが口をへの字に曲げていると、リヒターが苦笑交じりに口を開いた。
「閉鎖的な中で身内に囲まれて暮らしていたら、なかなかそういう発想には至らないものだよ。この場合レビン氏が特異だったってことだね」
「うーん、そういうものですか? いくら閉鎖的っていっても、外からの情報が完全に遮断されているわけじゃないんですよね? 本を読んだりもできるだろうし」
首を傾げたステラに、リヒターは「ふむ」と再び顎に手を当てて少し考え込んだ。
「そうだなあ……ステラだって、アントレルにいたときは普通だと思ってたことが、レグランドに行ってみたら違ったってことの一つや二つくらいあるだろう?」
「……ありますね」
まず、家や倉庫の扉に毎回鍵をかけることに驚いた。アントレルには村人しかいないので基本的に鍵をかけないのだ。
そしてそれを話したらアルジェンに「未開の地!!」と大笑いされて口喧嘩になり、二人ともシルバーに叱られたという記憶もセットで呼び起こされてしまったが、今は関係のない話なので忘れることにする。
「アントレルにいても外の情報は手に入るよね。でもその情報を自分の考え方に活かすのは意外と難しいものなんだよ。考え方っていうものは、いろいろな知識や経験が絡まりあって作られていくものだからね」
「そっかあ……そうですね」
頷いたところに、さやさやと涼しい風がステラの髪を巻き上げた。マントについているフードが風をはらんで膨らむのを片手で押さえながら、ステラはアグレルのほうへ視線を向ける。
「そういうことですよ、アグレルさん」
「……お前のそれは一体何目線だ。第一お前が言われてたんだろうが」
「話を振ってみただけですよ」
もう一度、今度は先ほどよりも強く吹きつけた風のせいで、せっかくシルバーにきれいに結んでもらった髪がやや乱れてしまう。
その髪をなでつけながら、ステラは「あのっ」と顔を上げた。
「……あの、この辺……さっきからなんだか妙に風が渦巻いてませんか?」
シルバーと目が合うと、彼はやや警戒気味な視線を投げかけてきていた。――それもそのはず
風が吹き荒れているのは、ステラの周りだけだったのだ。
「ちょ、なんですかこれ!?」
「すごいなステラ、ビンゴだ」
「へ!?」
髪をなぶる風は、リヒターが口を開いた途端にパタリと静かになる。
ぽかんとするステラに、ニコリと微笑んだリヒターの視線は――ステラの少し上にいるなにかを追って、うっすらと暗い木々の向こうへと向いた。
「精霊たちが、お姫様をお呼びだよ」




