5. 命の危険
リヒターが宿へと引き上げていったあと、ステラはコーディーの仕事場へ行き、レグランド行きの話をした。
コーディーはステラが話し終わったあとしばらく黙り込み、そして静かに微笑んだ。
「だれかの助けになるなら、行くべきだと思うわ。それに、レグランドがあんたにとって暮らしやすい場所だったなら、私のことは気にせずにそこで生きることも考えなさい。だってあんたの人生なんだから」
「でも、お母さん一人になっちゃう……」
「ステラ、一人でいなくなっちゃったお父さんと、そんな人を待っている私のワガママにあんたが付き合うことはないのよ。……でも、辛かったらいつでも戻ってきなさいね」
「お母さん……レグランドでお父さんの情報があるかもしれないし、万が一見つけたら気絶させて縄で縛り上げて連れ帰ってくるから」
「そうねえ。――でもできれば話し合いで解決してほしいわ」
「大丈夫、さすがに最終手段だよ。でも大型の獲物の縛り方を前に猟師の人から教わったから試してみたいんだよね。なかなか試す場面がなくて」
「ああ、レビン……ごめんなさい、私は娘の育て方を間違ったみたい……」
小さな食堂の料理人として働いていたステラの父、レビン・リンドグレンは、十年ほど前のある日、仕事に行って、そして帰ってこなかった。
その日普通に食堂で一日働いて、そのあと忽然と姿を消してしまったのだ。
もとより彼は突然どこかから流れてきて村に住み着いた変わり者で、来たときと同じようにいなくなってしまったことに、皆首をひねりながらも、心のどこかで「やはり」と納得してもいたようだ。
彼の帰りを信じて待っているのは、多分コーディーただ一人だろう。
ステラですら信じていないのだから。
彼は気の優しい男で、村人たちから慕われていた。そして、本人は精霊術が使えないというのにやたら精霊術に詳しいという謎の人物だった。
――そういえば、そんな父から厳しい顔で言われたことがある。
「精霊たちはお前を愛して見守っているんだよ。見えなくても、聞こえなくても、それだけは疑わないでやってくれ――」
あれは何の話をしていたときだろうか。
なんだか大事な話をしていた途中だったような気がするが――。
ガクンッと馬車が揺れてステラは重いまぶたを持ち上げた。
徒歩で山を超えて、馬車に乗って揺られて、しばらく歩いてまた馬車に乗って揺られて……と、アントレルを発ってから今日で確か五日目だ。いまいちうろ覚えなのは、疲れ切ってほとんど死んだように横になって馬車でゴトゴト運ばれていた時間あったからだ。
これは確かに、都会からアントレルに旅人が来るはずがない。
気候のいい夏ですらこれなのだから、雪が降り始めたらステラなど間違いなく最初の山を越える段階で死んでしまう。
辛かったら戻ってこいと言われたが、戻る旅路が辛すぎて帰れる気がしない。
リヒターは地方を歩き回っていると言っていただけあって、このへろへろになっているステラの面倒を見ながらでも余裕の表情でこの行程をこなしている。
「大丈夫かい? もうレグランドが近くて道路もちゃんと舗装されているし、今日の夕方くらいには着くと思うよ」
確かに始めの頃に乗った馬車は移動速度が遅い上にガコガコと揺れて座っているだけで疲れてしまったが、今乗っている馬車は窓の外の景色が滑らかに後ろに向かって流れていく。田舎は道が舗装されていなかったが、さすがのレグランドはその周辺ですら道が整っているらしい。
だが、道の良し悪しや揺れなどよりも、ステラにとっては切実な問題があった。
「……あついです」
「残念だけどそれはどうしようもないな。今日はまだ涼しい方なんだけどね」
「これで涼しい方……?」
「精霊術で冷やしてあげようにも、ステラには効かないからなあ」
「うう……これって結構ピンチだと思うんですけど」
「そうだねえ……うーん、声は聞こえないけど、動き的に多分『まだいけるよ!』って言ってるっぽいね」
「精霊、厳しい……」
短い夏が終われば雪が降り始めるアントレルは、基本的に平均気温が氷点下という月が一年の半分を占める。夏の日中であっても十度台ということが多い。
対するレグランドは温暖な土地で、真冬でもまず氷点下になることはないし、夏は三十度を超えることすらあるという。
ステラは出発後にそれを聞いて、リヒターについてきたことを激しく後悔したのだが、リヒターは「すぐに慣れるよ」と笑っていた。
慣れる前に暑さでゆだって死んでしまうに違いない。アントレルの外は命の危険が多すぎる……と、ステラは再びぐったりと目を閉じた。
***
「なにこれ、死体?」
リヒターに抱えられた状態で馬車から降りたステラに対し、迎えに出てきた少年が発した第一声はそれだった。
「死んでません……」
「お、生きてた」
「アル、長旅で疲れてる女の子になんてことを言うんだ……ステラ、自分で歩けるかい?」
「がんばります……」
ゆっくりと地面に下ろしてもらい、支えられながら立ち上がる。
顔を上げて深呼吸をしてみるが、気道を通って肺を満たすのは温い――ステラからするとだいぶ暑い――空気だった。それでも馬車の中のこもった空気よりは大分ましである。
馬車の中の空気はリヒターが精霊術で換気してくれていたが、精霊がステラを避けて通るせいで、ぐったりと寝込んでいたステラの周辺はあまり換気の効果を得られなかった。心底この体質が憎い……と歯がみしながら揺られてきたのだ。
思う存分新鮮な空気を吸おうと深呼吸するステラを、『アル』と呼ばれた少年は眉をひそめて見ていた。
少年の髪の色は黒だが、澄んだ青い瞳の形がリヒターによく似ている。それにだいぶ身なりもいい。おそらくこの少年はリヒターの息子なのだろう。
「……挨拶せずにごめんなさい。ステラ・リンドグレンと申します」
ステラはしばらくの間リヒターの家にやっかいになることになっているので、なるべく最初の印象はよくしておきたい。
ぺこりと会釈をして、そして頭を下げた勢いでふらりと前に倒れた。
「ちょ、大丈夫かっ……父さん、もしかしてこいつ病気なの?」
「あ、顔面着地……」と覚悟したが、その前に少年の腕に抱きとめられた。しまったと思うものの、慣れない馬車に揺られ続けたせいで手足に力が上手く入らず、そのままぐったりと腕に身を任せる。
年齢的にいうとステラよりも少し下だと思うのだが、体を鍛えているらしく、ステラが寄りかかっても少年は平然としていた。
「いや、疲れと暑さで参っちゃってるんだ。アントレルから来たからね」
「アントレルって北の辺境だろ? 父さんそんなところまで行ってたの!?」
「お、よく知ってるな。アントレルの南のアイドクレースが目的地だったんだけど、せっかくだから足を伸ばしてみたんだ。今の時期だったら雪がないから少し行きやすいって聞いてね」
「シンが最近、地理の勉強をしてるから一緒に覚えたんだ。アイドクレースは最北の貿易都市だろ?」
「そう。ちゃんと勉強してるね、偉い偉い」
少年に抱えられたままのステラの頭上で和気あいあいと会話が繰り広げられる。親子の交流は大変結構ではあるのだが、ステラとしてはできれば早く椅子に座るか横になるかさせて欲しい。
「――二人とも」
だれかたすけて……という声なきステラの訴えに答えるかのように、新たな人物の声がした。
今度はだれだろうかと、ステラがなんとか視線だけを声の方へと向けると、そこにいたのはリヒターと同じブロンズの髪の、恐ろしく美しい少女だった。
「シン。ただいま」
リヒターの明るい声に、その美少女は「チッ」と舌打ちして――
そう、――ステラの聞き間違いかとも思ったが間違いなく――奇跡のような美少女は忌々しそうに舌打ちをして、そのしなやかな指でステラを指し示した。
「家に」
一言だけ発して、指を建物の方へと向けた。
「ああそうだね。ステラは少し横になって休んだ方が良いな」
そうしてステラは再びリヒターに抱えられ、ようやく何日かぶりの柔らかなベッドで横になることができたのだった。