57. アイドクレース
アントレルのある山の南に位置する、国内最北の貿易都市アイドクレース。
貿易都市と謳っているものの、その規模は海に面したレグランドに比べるとだいぶ小さい。都市というよりも、むしろ大きめの町というほうがふさわしいかもしれない。
そんなアイドクレースの北には険しい山脈が横たわっており、かなり大きく迂回しないと北側の隣国へはたどり着けない。そういう理由で、いくつかある迂回路が交わる地点に人が集まり、勝手に住み着いて店を開き……という過程で形成された都市であるため、きちんとした区画整理などもされていない。自国民だけでなく他国の商人や旅人が入り混じっていることもあり、国の管理は十分行き届いていないのだ。
一応自治組織はあるものの――要は、やや治安はよろしくない都市なのである。
そのため、村から一番近い都市であるにも関わらず、アントレルの子どもたちは「大人にならなければアイドクレースに行ってはいけない」と言い含められる。
一方で村の大人たちは、アントレルが雪で閉ざされる長い冬の間、出稼ぎでアイドクレースに滞在することが多い。
ステラにとって、アイドクレースは『訪れたことはないけれど身近な街』であった。
数日前にサニディンを出てから、ここまでの道のりは馬車で移動できたが、ここからアントレルまでの山道は半日以上かけて徒歩移動となる。
ステラは一年近く離れている母親が心配なため、すぐにでも山に入りたい――のだが、もはやお馴染みの光景となってしまった乗り物酔いでグロッキー状態のアグレルの回復を待つため宿をとり、彼の回復と天候を見て出発することになった。
「さて、アグレル君はそっとしておいてほしいだろうから、僕らはなにか美味しいものを食べにいこうか」
「それなら魚が食べたいです!」
リヒターの食事の提案に、ステラは素早く手を上げた。
「ステラ魚好きだよね」
「アントレルだとあんまり食べられないので」
「そうなの? でも村の近くに川があるよね。魚はあんまりいないの?」
そう。確かにアントレルの村のそばには小川が流れている――のだが。
「よく釣れるポイントが森の中で、私は入れないんです……」
女子供は森の奥に入ってはいけないというアントレルのローカルルールのせいで、ステラは魚がよく釣れる沢へ行くことができないのだ。
「ああー……魚は買うんじゃなくって、各自釣って食べる感じか」
「そうですね。肉も魚も基本は家の男の人が狩りで調達するんですよ」
父親が行方不明になって以降、ステラの家の食事はほとんど野菜と穀物で構成されていた。他の家からおすそ分けをもらうこともあったが、そちらとて余裕があるわけではないので、それほど頻繁ではなかった。
「肉も魚もないってことは、主食は草?」
「え、そこは野菜で良くない? なんで草食動物みたいな言い方するの」
「リスみたいで可愛いねってことだよ」
「む……」
馬鹿にされている気がするのだが、可愛いと言われるのは嬉しい。言葉に詰まったステラに、シルバーはニコッと続ける。
「小さいところとか、ちょっとしたことで威嚇してくるところとか」
「馬鹿にされてた!」
「ああー、分かる分かる。威嚇してくるよね、リスもステラも」
「親子揃って失礼だな!」
シルバーだけではなく、リヒターも真面目な顔で頷いたことに、ステラは頬を膨らませる。
そうやって頬を膨らませるとなおさらリスのようだ――シルバーが追加でからかおうと口を開いた瞬間、別の方向から声がかかった。
「あれっ、その髪の色はステラじゃないか?」
「へ?」
声をかけてきたのは、弁当や惣菜などを販売している店の店頭に立っていた年嵩の女性だ。
驚きに目を丸くしているその女性は、ステラも良く知る人物だった。
「あ、マイカおばさん。すごくお久しぶりです」
「やっぱりステラだった。すっかり大きくなって……。でもあんた、山を降りてレグランドに行ったって聞いてたけど、帰ってきてたのかい」
「ついさっきレグランドから戻ってきたところで、明日くらいに山登りするんだよ」
「おやまあ、コーディーが喜ぶだろうね。あの子は平気そうにしてても寂しがりやだから――ところで、そっちの人たちは……」
マイカはチラリとステラの後ろに立つ二人の人物に少し警戒した目を向け――そのうちの一人を認めて警戒を緩めた。
「って、そっちのきれいなお兄さんは去年も来てた人だね。リヒターさんだったか」
「おや、覚えておられたんですね。その節はどうも」
ニコリと微笑んでマイカにお辞儀をするリヒターに、ステラは目を瞬かせる。
「リヒターさん、マイカおばさんと知り合いなんですか?」
「うん。前に来た時、アントレルまでの行き方を教えて貰ったんだ」
リヒターが頷くと、マイカもうんうんと笑顔で頷いた。
「そうそう。えらくきれいな御仁が山に入りたがってるって旦那から聞いてね。猟師に撃たれたり遭難したりしたら大変だと思って道を教えたんだよ」
マイカの夫はこのアイドクレースで馬車用の馬の世話をしている。その関係で以前リヒターと知り合ったらしい。
「じゃあそっちの人はリヒターさんの連れかい?」
「ああ、こっちはうちの息子です」
マイカがシルバーのほうへ不安そうな視線を向けていることに気付いたリヒターは、苦笑しながらシルバーの腕をつかんで自分の前に立たせた。
今、リヒターは普通に顔を見せているのだが、シルバーは旅装のマントを羽織り、フードを深くかぶって顔を隠している。
涼しい北国とはいえ、この夏の時期にきっちりマントを着込んでいる者は珍しく、第三者から見たら少し不気味な人物に映る。――だが、彼は顔を出していると、その美貌で周囲の人々の注目を集めてしまうのだ。
リヒターとシルバーが一緒にいるとそれが更に顕著だった。国中を歩き回っているリヒターはそんな視線に慣れているのだが、ユークレース一族の土地であるレグランド(町中にも比較的美人が多い)からほぼ出たことがないシルバーは嫌で仕方がなかったらしい。
本人の心の安寧のため、やむを得ない措置――であるフードを父に降ろされてしまったシルバーはやや渋面を浮かべつつお辞儀をした。
「……どうも、息子です」
「あらまあ……きれいな人のお子さんはやっぱりきれいなのね」
シルバーを見て感心したようにそんな事を言った後、マイカはステラにいたずらっぽい笑みを向けた。
「ステラってば、こんな素敵な騎士様を二人も付けて帰還するなんて、お姫様みたいじゃない」
「う……変なこと言うのやめてよマイカおばさん……」
『お姫様』という単語に胃が痛むのを感じてステラは渋い顔になる。
「ふふ、冗談はさておき、最近密猟者が入り込んでるとかで猟師たちがピリピリしてるから、間違えて森の奥に入らないように気をつけるんだよ」
「この辺で密猟? なにが目当て?」
森の中には色々動物がいるが、わざわざ地元の猟師のテリトリーを侵してまで狩るほど珍しい動物はいないはずだ。
「白いイタチよ。その毛皮が王都で流行しているらしくって……あちこちで乱獲されてるって話でね。他の場所で狩り尽くしてここまで流れてきたんじゃないかって」
「ああ、白イタチ……確かストールにするのが流行りだそうですね」
どうやら本当に王都で流行しているらしく、リヒターも頷いた。だが、ステラはストールという単語に大きく首を傾げる。
「夏なのに毛皮のストール……?」
王都はレグランド程ではないとはいえ、過ごしやすく温暖な気候帯に位置しているはずだ。これからもっと暑くなるはずなのに、都会の人はふかふかのストールを巻いて過ごすのだろうか――?
眉をひそめたステラに、リヒターとマイカは揃って笑い出した。
「冬に流行するものを冬から用意し始めたら間に合わないからね。次の冬に流行るものを予測して前もって用意しておくんだよ」
「あ、そっか……でも、事前に流行るものが分かるんですか?」
「前の冬の流行り具合から予想できる場合もあるけど、大抵は人為的に流行させるんだよ。王族や人気の歌手が身につけたり、有名な洋品店から売り出されたものは大抵流行るからね」
「へえ……皆、有名な人の真似をするんですね」
ステラは、流行とは自然に生まれるものだと思っていたのだが、言われてみればどんな流行でもそれを先駆けて発信する人物がいるのだ。
生まれも育ちも過疎地のステラにはあまり馴染みのない感覚だが、素敵な人がおしゃれなものを身につけていたら、きっと羨ましくなってしまうものなのだろう。
「って言っても、あたしらには縁のない話さ。王都で流行の服なんてこの辺で着ても肌寒いし動きにくくって役に立たないからね。それに、こっちまで伝わってくる頃には向こうじゃとっくの昔に時代遅れだ」
「あー、確かにそうだね……」
鼻で笑ったマイカに、ステラも頷く。
冬に使える毛皮のショールはともかく、例えばレグランドで用意して貰った、可愛くてひらひらした薄手のワンピースは北国の気候には適していない。
「そんな流行りに踊らされて狩られるイタチも可哀想なもんだ。それにイタチが減るとネズミが増えるだろ? 穀物倉庫がやられるから困るって町長が嘆いてるみたいだよ」
「倉庫が……」
アントレルでは畑で育てたものや外から買い付けた穀物を倉庫に備蓄しておいて、長い冬の間の食料とするという決まりがある。
それは村全体で分け合うための備蓄で、各家庭の人数に応じて適宜分配される。しかし残念ながらそこまで潤沢な量を確保できるわけではないので、通常はそれとは別に各家庭で肉や野菜の保存食を作っておくのだが――。
ステラの家は猟をして肉を持ち帰る人間などいないし、冬に備えて余分に買うほど金銭的なゆとりもない。穀物が通常よりも減ってしまうとなると、この冬の生活はかなり厳しいものになるだろう。
それに、乱獲による問題はネズミの増加だけではない。イタチがいなくなるということは、イタチを食べる他の生き物の食料が減ってしまうということだ。山の中の生態系が崩れれば、オオカミや熊が食料を求めて村までやってくる。家畜や村人が襲われる被害も増えるのだ。
「ガイロルさんたちが見回りをしてるみたいだから、密猟者が早く捕まると良いんだけどね……ま、いよいよ物騒になったらコーディーと山を降りてきて、うちで働きなさいな」
そう言ってマイカは任せておけと胸を叩いた。
しかし、マイカが営むのは料理屋だ――料理スキルは壊滅的なステラが愛想笑いを浮かべた後ろで、今まで黙っていたシルバーがボソリとつぶやいた。
「ステラ、料理できないのに」
「……料理ができないんじゃなくて、ちょっと独創的なだけだから」
「独創的っていうのは食べられる範囲?」
「うっ……」
そのやり取りにマイカはステラの腕前を思い出したらしく、「そういやステラは不器用だったねえ」と笑い始めた。
「アハハ、でもまあ、アントレルに比べればこっちのほうがまだ仕事はあるから、ほそぼそ暮らす分にはなんとかなるよ。部屋はうちの空き部屋使えるしさ」
「ありがとうマイカおばさん……いざとなったら母さんを説得して降りてくる」
ステラの返事にうんうんと頷いたマイカは、そこでふと表情を曇らせた。
「コーディーもねえ……ステラだってこんなに大きくなったんだし、もう新しい人生を考えていい頃だと思うんだけど――」
「私もそう思う」
食い気味に頷いたステラに、「即答かあ」とリヒターが苦笑する。
「当然です」
「そりゃあそうよ。コーディーみたいに美人なら子持ちだろうがそれなりの男捕まえられるだろうし。妻子を放っておいていつまでもふらふら戻ってこないような男にはもったいないよ」
頷き合うステラとマイカを見て、シルバーがリヒターをつついた。
「『妻子を放っておいて』だって、父さん」
「く……そりゃあ僕ももっと家に帰りたいんだけどさ……」
「あら、リヒターさんも奥さんを放っておいてるクチ? だめよ、いくらいい男でも油断しちゃあ。女は寄り添ってくれる男に弱いんだからね」
「……はい……」
リヒターはガクリと肩を落とし、大きくため息を吐いた。
そのあと「やっぱり当主を始末して体制を変えるしかないんじゃ?」というつぶやきが聞こえた気がしたが、とりあえずステラはなにも聞かなかったことにした。




