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41. 果実水

 自分の部屋に戻ったステラは、着替えるのももどかしくそのままの格好でベッドに上がり、毛布の上に正座した。

 そして、ぼふんっと顔面からベッドに倒れ込む。


(今まで散々知らんぷりしてたくせに、いきなり意識して、しかもその途端に見知らぬ人にヤキモチを焼いて自分のものアピール……)


 控えめに言って、嫌なヤツすぎる。

 もちろん先程のステラ自身の行動のことだ。


「……ああああぁぁ……」


 転がりまわって叫びたいくらいに恥ずかしいが、さすがにこんな壁の薄い宿の部屋でそんなことはできない。せめてもの抵抗に、枕を顔に押し付けてうめきのような悲鳴のような声を上げる。


 自分がシルバーに惹かれはじめていることなど、本当は分かっていた。

 ただ、自分で認めないようにしていて、それがどうしようもなく溢れてしまっただけ。今のステラは、認めたくなかったものを認めざるを得なくなってしまったことに動揺しているのだ。


(だって、シンがどう思ってるか分かんないし……)


 ステラはくっと唇を噛みしめる。

 出会ってからここにいたるまでの間、シルバーはあれだけベタベタとくっついてくるくせに、一度たりとも『好き』に類するような言葉を言ったことがないのだ。

 恋愛感情にかかわる話だけではなく、今後のステラの身の振り方に関しても、寂しいとか帰らないでとか、そういったたぐいの言葉も言われたことがない。

 泣きわめいたリシアはもちろん、アルジェンですら「辺境じゃなくて家族連れてこっちに移り住みなよ。こっちには文明があるぜ」などという失礼な言い回しで離れることを惜しんでくれたというのに。

 つまるところ、周りがなんと言おうと、『ひっついてくるのは単に彼特有のコミュニケーション方法であって、別にそこに特別な感情などない可能性』を、ステラは未だに捨てきれていないのである。


 少しだけ落ち着いたステラは枕を抱きかかえて、深いため息とともにベッドの上でゴロンと転がった。


(……でも、多分それだけじゃない)


 ステラは十年間、ずっと帰ってこない父を待ち続ける母の姿を見てきた。

 ステラは――そして母ですら、父と過ごした時間よりも、帰りを待った時間の方が長くなってしまった。

 ステラたち母子を心配した周りの人たちから、「もう諦めて新しい人生をおくりなさい」と度々説得されても決して頷かず、気丈に振る舞っていた母が、本当は何度も一人で泣いていたことをステラは知っている。

 あんなに深く想っていても、父は消えてしまった。

 もしかしたら、父は母を愛していなかったのかもしれない。

 それでも母はきっと一生待ち続けるのだろう。父を――レビン・リンドグレンを愛しているから。


 ステラにとって愛や恋は、そんなふうに『独りで泣くもの』だった。

 だから、自分が誰かを好きになることが怖い。

 だから、認めたくなかった。


 それでも容赦なく、落ちてしまうのが恋だなんて。


「明日からどんな顔すればいいの……」


 思わず口から漏れた、誰も答えてくれないその問いは、耳から頭の中に戻ってきて一晩中反響し続け、結局ステラはその日一睡もすることができなかった。



 ――もちろん、眠れずとも夜は明ける。

 大きく開けられた窓からはぽかぽかと暖かな春の日差しが降り注ぎ、吹き込む風がやわらかく頬をなでて通り過ぎた。

 まるで柔らかな羽毛の中に埋もれているかのようなふわふわとした心地よさに、知らず知らずのうちに目蓋が下がっていく。

 そして。


 ゴッ


「ぅえっ?」

「やると思った」


 側頭部に衝撃を感じて目を開けたステラは自分の置かれた状況が把握できないまま声のした方へと目を向けた。

 そこには、アグレルが立っており、いつもどおりの険しい目つきでステラをにらみつけていた。彼の手には、確かステラが読んでいたはずの本がおさまっている。


「……本、あれ?」

「この本はお前が床に落とした。そしてお前自身はよだれを垂らしながら舟を漕いでいた」


 そう言いながら、アグレルはステラの膝の上にボスッと本を投げてよこした。

 どうやらステラは長椅子に座って読書をしていた途中でうたた寝をして、横に倒れた拍子に頭をぶつけたらしい。

 のっそりと体を起こすと、ちょうど頭がぶつかったあたりにクッションが置かれていた。そのおかげでぶつけた頭はそれほど痛くない。

 ――確かこのクッションは別の場所にあったはずなので、アグレルが気を遣って置いてくれたのだろう。


「アグレルさんってツンデレですよね……」

「……意味は分からないが、侮辱と受け取っておく」

「やだなあ、誉めてるんですよ。クッションありがとうございます」


 くあぁとあくびをしながら立ち上がったステラは大きく体を伸ばした。

 あんなに悩んで寝不足になった原因であるシルバーとは、幸いなことに本日は別行動である。

 今、リヒターとシルバーは件の娘が駆け落ちした親戚のところへ顔を出しに行っている。精霊術士の拠点ともいえるそんな場所にクリノクロアのステラがひょこひょことついていくことはできないので、留守番をすることになったのだ。

 そして暇を持て余し、本でも読もうかと思って数ページめくったところで眠ってしまった――というのがここまでの経緯だ。


「そんなに眠いなら大人しく自分の部屋に戻って寝ていろ。どうせリヒターたちはまだ戻ってこないだろう」

「うむう……そうですね。一旦戻って……」


 そこで、見るともなしに目を向けた窓の外に、果実水の屋台が出ていることに気付いた。


「あ、果実水買ってこよう。アグレルさんもいりますか?」


 レグランドにあった店と同じように精霊術で作られた氷を使い冷やされた果実水は、寝起きの喉の渇きにぴったりだ。

 レグランドの屋台では木のカップに入れて提供されるのだが、ここサニディンではきれいな色硝子のコップに入れてくれるので見た目も楽しめる。しかも何種類もある果実の汁から自分で選んでブレンドしてもらえるのである。


「いらん」

「冷たくて美味しいのに……まあいいや、あれ飲んだら部屋戻って寝ます」


 ステラはあくびをかみ殺し、どんなブレンドにするかを考えながら鼻歌交じりに宿の階段を下りていった。



***



「……あれ、ステラは?」


 部屋に戻ってきたシルバーは手に持っていた袋をテーブルの上に置いてアグレルに目を向けた。


「ふん、戻ってきて開口一番がそれか。ステラ・リンドグレンなら自分の部屋で寝てる」


 アグレルの返事を聞くと、シルバーは返事もせずにさっさと部屋を出ていく。

 基本的にステラがいなければシルバーはにこりともしないし無駄な言葉も発しない。特に第一印象の悪いアグレル相手には話しかけることすらまれなのだが、わざわざ聞いたということはステラに用事があって探しているのだろう。

 すぐに隣の部屋の扉をノックする音が聞こえてきてアグレルは肩をすくめる。

 寝てるのに容赦なく起こすんだな……と思わなくもないが、ステラが寝るといって出ていってからだいぶ時間が経っているのでいい加減起きてもいい頃だ。

 だが、数回目のノックの音が聞こえてきたところで、おや?と違和感を抱く。

 今日は妙に眠そうにしていたが、これまでの様子を見る限りステラは寝起きの悪いタイプではない。シルバーも同じように不審に思ったらしく、ノックの音が強くなっていく。

 さすがに扉を壊しはしないと思うが――面倒だが万が一の時に一応止められるように、とアグレルは重い足取りで部屋の出入り口へと向かった。


「その部屋のお嬢さん、二時間くらい前に出かけていって、まだ戻ってきていませんよ」


 そこで、聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。この声はいつも宿の受付にいる従業員だろう。

 アグレルが部屋から顔を出すと、やはり見覚えのある男が従業員用通路から出てくるところだった。移動中にたまたま扉をノックするシルバーに気付いたらしい。男は少し心配そうにステラの部屋の扉に目を向けた。


「――出かけた?」

「ええ、お嬢さん一人で出かけるのは珍しいので『今日は一人ですか』と聞いたら、『すぐそこの屋台に行く』って言って……でも、少なくとも僕がさっき受付を交代するまでは帰ってきてないです」

「……」


 黙り込んだシルバーの周りで、ザワッ、と空気が揺れる。

 比喩ではなく、実際にシルバーの周りで微かに風が巻き起こっているのだ。アグレルは大股でシルバーに近づくと、彼の襟首を掴んだ。と、同時に風がおさまる。


「落ち着けシルバー」

「――ステラがなにも言わずに、長時間出歩くはずがない。なにかに巻き込まれたんだ……」


 半ばうわごとのようにつぶやいたシルバーの顔は真っ青だった。

 一人で動き回るな、と事前にリヒターから何度も警告を受けているにもかかわらず、あえて一人で行動するほど向こう見ずな娘ではないことはアグレルにも分かる。ほぼ間違いなくなにかの事情があって戻ってこれない状況なのだ。


「あいつは果実水の屋台に行って、すぐ戻ると言っていた。屋台の人間に見ていないか聞きに行くぞ。……もしかしたらまだそこにいるのかもしれないし」

「……分かった」


 アグレルが言い聞かせるように言うと、シルバーは深呼吸をしてから一度堅く目をつむり、そして静かに頷いた。

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